自己肯定感と自己評価

「自己肯定感が低い人は自己評価が高い」という話題と、「そんなことない!」という反論が流れてきた。それらのやり取りを見てぐるぐる考えていたことをまとめてみた。

自己肯定感

自己肯定感が高いということに関して、「どんな自分でも愛せる」という許容量のでかい人が自己肯定感が高い人だと思っている。他人にブスだと言われようと、でも自分は自分の顔がそれなりに好きだ、とか。いくら下手と言われようと自分の歌声が好きだ、とか。基本的には他人からの評価に依存せず、自分を愛せるというのが自己肯定感が高い、ということだと思う。

ただ、マジでどんな自分でも愛せるかというと、そうはいかない。「人よりも得意なことがある」というアイデンティティごと自分を愛そうとすると、他者との比較はどうしても必要になってしまうし、「自分の求めるクオリティが出せること」というアイデンティティごと愛そうとすると、そのクオリティが出せないと自己肯定できなかったりする。(アイデンティティという考え方がそもそも自己肯定と相性は悪いのだろう)

つまり、自己肯定の強さもグラデーションがあり、それぞれが自分の中に「自分への許容値」みたいなものはあるんだと思っている。それを広くとれていれば、「いかなる自分でも愛せる」ということだろう。そして、その許容値から外れるようなことがあると、自己肯定できなく苦しい思いをする。

自己評価

くだんのまとめで言われていた自己評価については、「だいたい自分ができるだろうという予測」のことだと思っている。自分自身が予測する他人からの評価のことだ。(くだんのまとめでは同じ言い回しで、脳内世間様の評価と呼ばれていたと思う)自分が持っている能力の目星、といったところだろうか。

数学のテストの例

例えば、数学のテストを考える。僕の自己評価の範囲(この辺いけると思ってる範囲)はだいたい35点~60点。ただ、僕は自分は理系だと思い込んでいて、それを自分のアイデンティティだと思っている。ので、自己肯定感は高い方だけど、ここに関しては譲れない思いもある…ということで、自分の許容できる下限値は30点といったところだ。(自己肯定感がかなりある人なら、0点でも自分のことを全然愛せるのだろうが、僕は自分自身の理系としてのささやかなプライドが邪魔して30点未満を取るとおそらく自己肯定できなくて落ち込むだろう)

そんな心持ちで挑んだテストでドンッと点数が出る、37点。つまり、自己評価の範囲内だから予想通り、かつ、自己許容値の上なので、まあ愛せる範囲だ…。他人からしたら低いかもしれないが、僕としては予想の範囲内かつ、許容範囲内である。悔しくなくはないけど、まあ、次回頑張ろうと思える範囲内だ。

(余談だけど)これらの値は僕が脳内で恣意的に決めているものではなく、心が勝手に決めちゃうものだというのも注意が必要だ。人にもっと高くせよ!もっと低くせよ!と言われてもそんな気合でどうにかなるものでもない。

自己評価

他者の評価と自分のモチベ

例では、自己評価範囲どおりの結果が出たパターンを考えたけど、この他者からの評価がどうだったか?というのは自分のモチベに大きくかかわる。自己評価の範囲よりも上だったら「自分ってこれ得意なん?!もっとやろうかな!?」って思えるし、自己許容の下限より下なら「うわこれでこだわるのやめよう…」ってなる。

だからといって、自己評価が低い方がいいとは全く思わない。自己評価が高くなればなるほど、「得意である」というアイデンティティにつながっていく。得意ならこれくらいやり遂げたい!という自己許容の下限も上がっていって、その分自分も努力する。そう思うと、自己評価が高いことは向上心には必要だろう。「自分はこれが得意である!」という気持ちが、負けん気を養ってどんどん技術を磨けるようになる、という感じだ。

ただ、僕は負けず嫌いで負けるとすごい傷つくので、できるだけこういう「負けん気を養っていこう」というのは避けていきたいタイプだ。でも、そうやって負けん気から技術を磨く人がいるから自分が助かっている部分もあるので、「自己評価が高い」はとても評価できる特性だと思う。

自己評価の下限と自己許容の下限

今の数学のテストの例を考えて見たところ、僕の感覚では、「自己評価の下限」と「自己許容の下限」はかなり近いことがわかった。「自分ができると思っている下限≒自分を許せる下限」と感じているのだ。

この前提に立っていると、「自己肯定感が低いのは自己評価が高いからだ」というのが結構な説得力を持っているように見える。

自己肯定感が低いのは自己評価が高いせい?

「自己評価の下限」と「自己許容の下限」がほぼイコールと考えている場合、自己肯定が低い(自己許容値よりも下回る確率が高い)というのは、単純に自己評価範囲のゾーンを高めに設定していると考えられる。つまり、「自己評価の範囲がかなり上にあると、下限も上の方にある。その下限と自己許容の下限はほぼ等しいので、自己許容の下限も上の方になり、結果他者からの評価が自己許容下限よりも下回ることが多いのだ」という指摘だ。

自己評価が高い

僕は感覚的にはこの理屈はとても理解しやすかった。なるほどな、確かに…。と思ってまとめを読んでいた。しかし、結構な数の批判があって、批判している人からすると「的外れ」らしい。もちろん、「あなた自分の能力をいいように見積もりすぎなんですよ、だから傷つきやすいだけ」と言われたらクソ腹立つから、反射的に「的外れ」と蓋をしている場合もある。

自己評価も低くて自己肯定感も低い…?

特に多かったのが、「私は自己評価も低くて自己肯定感も低いんですけど」という意見だった。僕がさっき書いた図だとそんなことにはならないのでは?と思ったが、「自己評価の下限」と「自己許容の下限」がほぼイコールという条件を外せば、それは成り立つことが分かった。

例えば自己許容の下限だけがだいぶ上にあるパターンだ。

自己評価が低い

「自己肯定感が低くて…」と悩んでいる人は、自己許容の下限と自己評価の下限が全然無関係に存在しているのではないだろうか。おそらく、そうなったのは、自己許容の下限が、自己評価が出来上がる前に独自に、何らかの方法で外側からの評価で決められてしまったからだ。

ある人が、自己評価が低くて自己肯定感が低い状態のことを「親の影響じゃないか?」と言っていたが、例えば親に「80点以上じゃないと我が子とは認めません!」なんて言われていたら、「自分の実力は60点いけばいいところ…」という自己評価と、「80点以上取らなければ愛する価値がないんだ」という自己許容下限は成立しうる。その視点を抜いて議論していたらそれは確かによくない。

そして、それはものすごくつらいんじゃないだろうか、とも思った。あくまで予想だからこの考えのすべては間違っているかもしれないが、自分では80点はいけないってわかってるのに、心はずっと80点を求めてしまう、これは、自己評価が正しい場合、理論上、満足することがないことを意味する。

自己評価の下限と自己許容の下限はなぜイコール?

もしそうだとしたら、僕はなぜ「直感的には自己評価の下限≒自己許容の下限だ」などと言えたのだろうか?

僕は、今愛せている自分を愛せなくなるかもしれない状態を閾値として想像していた。つまり、「今愛せている」という状態が前提になっている。「自分の今(自己評価の下限)」との乖離が「愛せなくなること(自己許容の下限を下回ること)」を意味することになると考えていたので、自己評価の下限≒自己許容の下限と認識していた。

一方、自己許容の下限値が自己評価に比べて高く設定してある人は、「自分の今」とかと比較しているわけではなく、別の理由によって自己許容が設定されてしまっている。(例えば親や先生にそういわれて育ったという外圧とか)

つまり、自己許容の下限値の成り立ちの前提が全然違う。とすると、僕みたいな自己肯定感高い前提の人間が「自己評価低い人は」と語ること自体、かなりリスキーだ。だって全然前提が違う人間のことを知ってるかのように語るのは難しいし。今だってそういう予想を立てたけど全く的外れかもしれない。まあ何を言ったって的外れにしかならないというのが本当のところかもしれない。

それはそれとして自分の自己肯定感メモ

前提が違っていて予測にしかならないので、もう上記の話をこれ以上できない。

あとは考えてるついでにメモっておかなければと思った自分への自己肯定感が挙げメモを残しておく。

何らかの評価が自己許容値を下回ってショック受けてる時の僕へ。

「評価者」を変える

評価がテストとかではなく「君○○なところがあるよね~」というようなレベルなら、評価者を替える。グループを抜けたり、組織を移動してしまうのがいい。

多くの人はマイナスの評価が相手の自己許容値を下回ることを知っているので、あまりそういうことは言わない。そういう人がいたら逃げて、そんな不躾な人間がいないところに逃げてしまう方がいい。

「評価軸」を細分化、多種にする

「数学が得意だと思ってたのに点数が低かった」ということがあれば、その評価を細分化する。細分化とは「確率が得意」「整数問題は苦手」みたいにすること。または、評価軸を多種にする。「数学のテストは苦手だけど数学の問題は好き」みたいに自分の評価軸を違う方向に伸ばしてみる。

自分のアイデンティティと自己評価が矛盾しないように自己評価を細分化する。あるいは自分のアイデンティティを少しずつ自己評価と一致するようにだましだましかえていく。といった感じが近い。

(僕が一番得意なのはこれかもしれない)

他者による評価をできるだけさせない

僕は歌うのが好きだけど、カラオケの採点は絶対やらない。「自分の歌が好き」というアイデンティティを守ろうとしたときに、他者からの評価があるとどうしても「他者から評価される自分の歌が好き」になりがちだからだ。

もちろん、最初から他者から比較されることで生まれたアイデンティティもあるが、僕の歌好きはそうじゃない。仮にそうであったとしても、「カラオケ採点の点数がよかったから」では絶対ない。家族や友達に褒められたことは僕のうれしい記憶の一つだし、今後も褒められたらとっても嬉しい。友達のいるところで歌うのもやめないと思う。でも、僕が褒められたかったのは、カラオケ採点、お前じゃない。

そうやって好きなものは、そもそも大多数の他者から比較できるような場面に置かないようにするのがいい。これは賛否両論あるだろうけど、自分の「好きなもの」に評価を介入させないというのはある程度必要だと思う。

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