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千と千尋の神隠しをじっくり見たら「イキカタ」のヒントが盛りだくさんだったお話し


ジブリ映画には色々な名作がありますが、皆さん、お気に入りとかありますでしょうか!?

ヒゲめがねが一番好きなのは

「千と千尋の神隠し」

なぜなら、自身の「働き方」や「生き方」を考える上で、多くの気付きを貰えたから。

ということで、今回は「千と千尋の神隠し」の6つのシーンから、「実はこういうメッセージを伝えたいんじゃないかな?」と思うことを綴ってみたいと思います。

あくまでも個人の勝手な解釈に過ぎませんが、皆さんが何かしら考えるきっかけになれば幸いです。


①名前を奪う

雇用契約する時に名前を奪われ、千尋の「尋」という字が消されます。

単に名前を奪われるだけでなく、この「尋」という字が取られてしまうというのが、この物語の最大のポイント。

働くにあたって、名前を奪い、「尋ねる(疑問を持つ)」ということを封じ、自分とは何者かを考えさせない。そうやって組織に暗に服従させていくのが、湯婆婆のやりくち。

で、実社会に目を向けてみると、そんな会社と社員の関係性が蔓延っている(千と千尋の神隠しは2001年公開、今はだいぶ変わってきてるようにも思いますが)。

そのことに警鐘をならし、「自分の名前を取り戻して欲しい!」というのが、作者の意図なんじゃないかなと思います。そういう視点で物語を眺めていくと、なるほどなーと思うことがたくさん出てくるのです。


➁ここで働かせて下さい!

千尋が、湯婆婆に「ここで働かせて下さい!」と頼み込むシーン。何を言われても「ここで働かせて下さい!」としか言ってはならない。

なぜそのセリフ以外は言ってはならないんでしょうか!?実社会であれば、働くにあたっては「動機」や「思い」があってこそ。

そんな思いを封じるということは、働く意味や目的は持つことなかれ、「働かせて下さい!(=あなたに従属します!)」というエントリー以外は、まかり通らない。

そんな設定にすることで、暗に、「皆さんは、そんな働き方をしてませんか?」という問いかけをしてるのではないでしょうか。


③親が豚にされてしまう

これも象徴的ですよね。餌を与えられて、肥やされて、いずれは食べられてしまう「家畜」。これを「家」畜ではなく、「社」畜と置き換えてみたらどうでしょうか。働く意味を考えずに、給料を与えられてるうちに骨抜きになり、気が付けば人生が終わっていく。そんな暗喩になっているように感じます。


④湯屋と神様

お風呂というのは「裸」になるところで、文字通り自分の素をさらけ出せる場所。そんなお湯屋をあえて舞台にしつつも、自分の素を見失っているという「皮肉」を描いているのではないでしょうか。

そして、湯屋にくるお客様は皆さん「神様」という設定。文字通り「お客様は神様です」という状況にすることで、「お客様のために」を強調し、自分を出させない仕掛けにもなっているように思います。

一方で「お客様は神様」というある意味ベタで言い古された表現をサラリと見せることで、「ホントにそうなの!?」という突っ込みを入れる余白を残している、そんな風にも感じます。ここで言う「お客様は神様です」というのは、あくまでも一つの例であって。「通例や常識など、盲信することなかれ。疑問を持とう」ということを、伝えたいのだろうと思います。

そこにもって「腐れ神」の登場。神様にも色々あるを表現する一方で、「臭いものに蓋をする」そんな世の中を揶揄しているようにも見えます。そして、誰もが嫌がる「臭い蓋」と向き合い、その蓋を外すことで、流れが変わる。置かれた場所で、とにかく全力を尽くすことで、名前を取り戻すためのきっかけ(=泥団子)が手に入るというのも、全体のストーリを繋いでいく重要なポイントではないかと思います。


⑤カオナシという存在

そして、この物語の最大のキーマンだと勝手に思っているカオナシ。

人が何を期待しているかを探り、その望みに応えられると、その期待を食べて膨張していく。

最初は、静かに、穏やかに「・・・あっ」しか言えなかったのに。期待に応える、食べる、膨張するを繰り返すうちに、暴走が止まらなくなっていく。

「お前らの望むものを、俺は叶えてやってるんだ!そんなオレサマを、もっと尊重しろ!」と。

人の期待に応えることを軸にした「自己承認欲求」は、一時的な成長エネルギーにはなりうる。でも、人の期待には際限がない。飲み込み続けるうちに、下手をすれば、制御不能な暴走列車になってしまう。そんなことを示唆しているのではないでしょうか。

そんなカオナシと対峙する千。

彼女だけは「何が欲しいか」を尋ねても「何もいらない」と答える。あせるカオナシ。過去の経験則で、皆が喜んでくれた「お金」を出してみるものの、受け取ってもらえない。カオナシ、大いに、うろたえる。暴走する。

相手から望まれるものがないと、自分の存在価値が発揮できない。相手の期待に答えらないと自分を承認できない。相手がある時のみ自分がある。相手がないと自分がない。

そんな存在は顔がないと一緒。だからこのキャラクターは「カオナシ」と名付けられたたのではないでしょうか。

振り返って世の中を見渡すと。親や友人といった周りからの期待、立場に寄せられる期待、こうするべきではといった慣習や常識、そんな本来の自分自身とは関係のない「なにものか」に、自分の行動を縛られてしまってないでしょうか。本当はこうしたいのにという自身の「願い」を尋ねることなく、まるで臭いものに蓋をするかのように、見て見ぬ振りをしてしまってないでしょうか。

周りの期待や目から解き放たれ、自分に目を向けるのはとても苦しいことかもしれません。千がくれた「にがーい泥団子」を食べ、のたうちまわる時間は、そういうことを表しているようにも思います。でも、その苦しんだ先に、きっとおだやかな時間が待っている。はず。


⑥親を当てる

何十頭も居る豚の中から、両親を当てなければいけないという物語のクライマックスシーン。

「この中にはいません!」
「おみごとー!!」

これは「人から与えられた選択肢の中に、必ずしも答えはない」ということを意味しているんだろうと思います。人間生きていると、与えられた選択肢の中で物事を考えようとしがちですが、そもそもどう生きるかの選択肢を決めるのは他人ではなく自分。他人が提示してくれた選択肢に違和感があったならば、自分でその選択肢を広げればよい。それが生きていくことなんだよ。そんなことを教えてくれるシーンなのではないでしょうか。




以上、6つのシーンをヒゲめがねなりに読み解いてみましたが、皆さんはどう感じられましたでしょうか!?

この映画が伝えたいメッセージは

「尋ねるという字を神隠しにあって無くしてないかい?胸のどこか奥で呼んでいる【自分自身の声】に耳を傾けよう。「千」回でも自分とは何者かを自分の胸のうちに「尋」ねよう。一度しかない自分の人生、誰かのストーリで生きるのではなく、自分の頭で考え、自分の意志で選んでいこう!

ということなのかな、と。そしてそのことは、タイトルと主題歌に、端的に表されてるんだなーと思います。
ぜひ、上記も踏まえて、主題歌を歌詞を追いながら聞いてみて下さい。生きるってなにかが、きっと染み渡ってくると思います。


しかし、こうやってメッセージを文字にしてしまうと至極当たり前のことのような気もしますが、これを実践し続けるのはなかなか難しかったりもしますよね。

そんなときは「千と千尋の神隠し」を見直して、「名前を奪われてないか」「カオナシになってないか」など、自己点検してみるのも良いかもしれません。

それでは、皆さま、今日も良い一日を!

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