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トーマス・マン「ゲーテとトルストイ」に関するメモ①


テキストは岩波文庫「ゲーテとトルストイ」トーマス・マン著 山崎章甫・高橋重臣訳 第4刷を使用

 
(シュテッツァー)
ユーリウス・シュテッツアー(1812-1905)
1828年16歳のとき、79歳のゲーテに会う
33年後、33歳のトルストイと会う。
(優劣の問題)
ユーリウス・シュテッツアーはなんの変哲もない生涯を過ごしたが、二人の偉大な人物を個人的に知るという目覚ましい特権を誇ることができた。
シュテッツアーがゲーテと言葉をかわした年に生れたのがトルストイ。
そのトルストイが33歳の時にワイマールを訪れ、シュテッツアーに会った。
このエピソードを紹介したのは、講演のタイトルである「ゲーテとトルストイ」の「と」に一段と味わいを添えるためである。
ニーチェは、ドイツ人は「と」という言葉の使い方が特別へたくそで、「シューペンハウエルとハルトマン」などというといって非難し、「ゲーテとシラー」ともいったといって嘲笑した。「シラーとゲーテ」とさえいいかねないと。
ニーチェはシラーに対しきわめて主観的な反感を抱くあまり、ゲーテとシラーのあいだにある兄弟のような関係を否定する過ちを犯した。
ニーチェは「ゲーテとシラー」の「と」を嘲笑することによって、二人のあいだの優劣の序列を公然と表明した(12ページ)
これはニーチェの性急さであり、弁明の余地のない横暴だった。
優劣の序列という問題は、きわめて厄介な問題であるため、ドイツ人はこうした場合、自分を一方の側に固定することを避け、「拘束なき政治」の立場を選ぶ。これから展開される考察は、この「拘束なき政治」の立場を守ってゆくための手がかりとなる(13ページ)
「ゲーテとシラー」という結び合わせにおける「と」という繋辞(copula(ラテン))西欧文法で、主語と動詞以外の述語(名詞や形容詞)とを結合させる動詞のこと。たとえば英語のbe動詞。論理学で、命題の主語と述語をつなぎ、両者の関係を言い表す語。連語。連辞。)
の意味は「拘束なき政治」である。この繋辞は、「ゲーテとシラー」という場合に、それが結び合わせている二つのものの相互の対立を意識させる。(13ページ)
「トルストイとドストエフスキー」という場合の「と」も似たような意味をもっている。
しかし、この繋辞からその対立性の権利を奪いとって、もっぱら本質の類似性とか同一性を確定する使命だけを認めた場合、偉大な人間の組み合わせのあいだに、入れ代わりや場所の交替が起る。たちまちシラーとドストエフスキーとが、ゲーテとトルストイとが身を寄せあう(14ページ)
しかし、
ゲーテ=ヨーロッパの人文主義者、異教徒。ダンテやシェークスピアにならぶドイツの世界的な詩人
トルストイ=東方の無政府主義的な原始キリスト教徒。このときの同時代人で最近死去した自然主義の小説家。
本質のほかにも優劣というものがあり、異なった偉大さの序列に属するものを対置することは許されない。貴族的本能に反する。という意見がある。
この意見について、
ゲーテとトルストイを並べても貴族的本能と矛盾しない。むしろその本能をほめたたえることになる。
優劣と偉大さの序列に関しては、
ツルゲーネフはトルストイに「ロシアの偉大なる作家」という称号をあたえた。
この称号はドイツ人がゲーテに対してあたえている意味合いとほぼ同じである(15ページ)
トルストイは徹底したキリスト教徒であったが、過度の卑下にとりつかれたり、自分の名前を最も偉大な名前と、神話的に偉大な名前とさえもはばからず並べかねないキリスト教徒だった。自ら「戦争と平和」を「イリアス」と並べ、実は処女作「幼年時代と少年時代」についても同じように言っている。トーマス・マンはこれを誇大妄想とは思わない。嘘偽りもない真実だったと考える。ゲーテは「謙遜なのはろくでなしだけだ」と言っている。これは異教徒の言葉である。しかしキリスト教徒であるトルストイはこの発言に味方している。トルストイの自己に向ける眼差しは、つねに歴史的な壮大さをもっていた。37歳の時点で、自分の作品がすでに完結したものもこれから書かれるものも、世界文学の最も高名な作品と並べていた(16ページ)

ゴーリキーはトルストイの死後、トルストイ回想記のなかで「この人は神に似ている」と書いた。ドストエフスキーとシラーに関して「神に似ている」とした人はいなかった。ドストエフスキーとシラーは「聖者」と呼ばれた。しかし世間のひとびとはゲーテとトルストイの二人は「神のようだ」と感じてきた。オリュンポスの神とはゲーテを呼ぶきまり文句である(17ページ)
オリュンポスの神=人文主義者の神=ゲーテ
ある種のロシアの神=トルストイ
神々というのは異教的のものであり、神々というのは本質は自然と同じものである。
神と自然が一つであり、自然によってあたえられる貴族性が神のようである(18ページ)
優劣の序列という貴族的な問題、即ち高貴さの問題は別の人物たちを組み合わせる場合、聖なる人間性を対立的な「と」を媒介として神のような人間性と対置する場合に、初めて問題となる。「どちらがより高貴であるのか、誰がより高貴であるのか」という美学や道徳の問題が生じる。こうした価値の問題は、つねに個々の人の趣味に従って、個々の人が人間性についてどのような概念をもっているかによって個々の判定が下されるべきである(19ページ)
もっとも、人間性についての概念は、どうしても不完全であり、一面的たらざるをえない。
 
(ルソー)
トルストイ=19世紀後半のあらゆる特徴を示している
ゲーテ=ゲーテの本質と教養の決定的な要素は18世紀のものである
しかし、トルストイに18世紀のものが生きており
ゲーテのうちに19世紀のものが生きている。
 
トルストイの合理主義的なキリスト教=18世紀の自然神教と関係が深い
ドストエフスキーの神秘的で荒々しい宗教性=完全に19世紀のもの
 
トルストイの道徳主義=一切の規範を掘り崩す破壊的な知性を本質としている。18世紀の社会批判に近い
 
ドストエフスキーの道徳主義者気質=トルストイの道徳主義より、はるかに深刻で、より宗教的。
 
トルストイのユートピアに対する愛着、文明に対する憎悪、田園的なもの、魂の牧歌的な平静に対する熱愛=高貴な情熱、貴族の情熱=18世紀のもの
 
ゲーテ=ある種の直観力と鋭い広大な視力による神秘的な予言者的な感じ=人並すぐれて微妙な体質の現れ、鋭い感受性や第六感の結果
ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」(1829年)には19世紀の社会的経済発展、これによって生じた一切の知識や教育の結果がすべてあらかじめ描きだされている(22ページ)
 
ゲーテとトルストイは同時代人ではないが、ひとつの教養上の要素を共有している。それはルソーである。
 
トルストイはルソーを全部読んだ。崇拝した、とも言っている。
ゲーテはルソーのいかがわしい人間性とは関わりあおうとはしなかったが、革命や無政府主義さえもが加味されたルソー主義であった(シュトゥルム・ウント・ドラング、ルソーの強い影響をうけた文学運動)
 
トルストイにとってのルソー主義=宗教的・原始キリスト教的・反教養的な色彩
ゲーテにとってのルソー主義=人間主義的のものへの傾向、教養主義的・自己形成的な個人主義
 
トルストイはこうした個人主義を、非キリスト教的・利己主義的なものとして嘲笑したが、
ゲーテの個人主義はトルストイが嘲笑したようなものではなく、人間、人間性、人類に即した活動を意味しており、社会的のものに通じていた(23ページ)
 
(教育と告白)
ルソーといえば「教育」と「自伝」であるが、このふたつはゲーテとトルストイにあっても強くきわだっている。
「教育」
トルストイ=ロシアの小学校という問題と力尽きるまで格闘
ゲーテ=「ファウスト」「ヴィルヘルム・マイスター」教育詩であり、人間形成の叙述
「告白」
ゲーテ=作品のすべてが偉大な告白の断片、自伝「詩と真実」
トルストイ=「告白」「幼年時代」「少年時代」に始まる自伝作家
「トルスストイの場合」
メレジコフスキー「個人的私生活を(中略)トルストイほどのあけすけな率直さで暴露した作家をもう一人見出すことはほとんどできないだろう」

「あけすけな」でさえ婉曲であり、ある種の抑制の「欠如」「あからさまに愛を要求する横柄さ」「自己暴露ということでは同じではないかという限りでは、愛の絶対的な要求」
「ひとに知られ、愛されたいということ、知られているが故に愛されたい、あるいはしられているけれども愛されたい」「自分自身に対する愛は、つねに小説的生涯のはじまりである」「自分自身の対する愛はまたあらゆる自伝のはじまりである」
「自分の運命を文学的に祝福し、そしてそれに対する同時代と後世の共感を情熱的に要求する人間の衝動」は「一つの生涯を小説的にする―体験するその当人にとっては主観的に、だが他人、すなわち世間にとっては客観的に―のと同じ自意識のなみなみならぬ激しさを前提としている」(28ページ)
 
「自分自身に対する愛」はたんなる「自己満足」や「自惚れ」以上のもっと創造的なもの
 
(ゲーテの場合)
「自己自身に対する畏敬の念」畏敬の念の最高のものとしてたたえている。神々の寵児が自分自身への感謝と畏敬の念にみたされた状態。
 
(自分自身に対する愛について)
「自分自身に対する愛とは、神々の寵児がみずからその担い手と感じている高い恩寵の神秘や、実体的な卓越性の神秘、危険な特権の神秘に対する素朴で誇らしい関心であり、また、いかにして天才が生成されるか、いかなる奇蹟によって恩寵と幸福と業績とに、分かちがたく結びあわされていくか、それらをきわめて神秘的な経験に照らして実証しようとする欲望」
この自分自身に対する愛が「すべての偉大な自伝に霊気をふきこんでいる」(29ページ)

*この部分が、
《しかし世間のひとびとはゲーテとトルストイの二人は「神のようだ」と感じてきた。オリュンポスの神とはゲーテを呼ぶきまり文句である(17ページ)オリュンポスの神=人文主義者の神=ゲーテ ある種のロシアの神=トルストイ 神々というのは異教的のものであり、神々というのは本質は自然と同じものである。神と自然が一つであり、自然によってあたえられる貴族性が神のようである(18ページ)優劣の序列、貴族的な問題、高貴さの問題は別の人物たちを組み合わせる場合、聖なる人間性を対立的な「と」を媒介として神のような人間性と対置する場合に、初めて問題となる》
に対応しており、ゲーテとトルストイが神のようであり、自然と同じもの、貴族性といった一見大仰にきこえる表現が、実に適格なものであることの理由となっている。
《こうした価値の問題は、つねに個々の人の趣味に従って、個々の人が人間性についてどのような概念をもっているかによって個々の判定が下されるべきである(19ページ)
もっとも、人間性についての概念は、どうしても不完全であり、一面的たらざるをえない》の部分の解答にもなっており、実は神のような人間性の概念はすでにゲーテとトルストイによって示されており、個々の人の趣味によって判定されるベきものではない。なぜ自伝や個人的私生活を告白しなければならないところまで達していくかという必然性について語られており、この部分が芸術とはいかなるものか、であるとか、客観・自然・造形についてこの後に考察されていく上の入り口になっており、ドストエフスキー・シラーという精神の息子たちと自然=ゲーテ・トルストイの対比を通して明らかになっていく。*
 
29ページから32ページにかけてトルストイとゲーテがいかに自身の名が神と人間によって祝福されていると感じていたか、ということが語られる。
「神々の寵児の自分自身への感謝と畏敬の念にみたられた状態」これは「自己満足」と呼ぶべきなのか?
ゲーテは「自分自身に対する満足をくだらぬものとする気取り屋」に反抗してきた。「そういう気取りは、何一つうぬぼれることすらできないような人間のすることだ」という意見だった。それどころか普通の虚栄心すら公然と弁護し「虚栄心をおさえつけたのでは世間は成り立ってゆかない」といい「虚栄心のある人間はまったく粗野なものになりきことがない」といいそえている。(32ページ)
*《ゲーテは「謙遜なのはろくでなしだけだ」と言っている。これは異教徒の言葉である。しかしキリスト教徒であるトルストイはこの発言に味方しているトルストイの自己に向ける眼差しは、つねに歴史的な壮大さをもっていた。37歳の時点で、自分の作品がすでに完結したものもこれから書かれるものも、世界文学の最も高名な作品と並べていた(16ページ)》の部分に対応している。*

ここで「一体自己愛は人間一般に対する愛と区別しうるものなのか」という命題に突入する。トルストイの名声の夢、「ひとに知られ愛されたい」という願いは「世界という大いなる汝に対する愛の証明」である。「自己愛と世界愛とは心理学的にはまったく分ちえないもの」であるとトーマス・マンは断定する。
「愛は本当に利他的な感情なのであろうか、むしろ利己的な感情なのではないだろうか、という昔ながらの問いは、最も馬鹿げた問いなのです。利己主義と利他主義との対立は、愛の裡では、完全に解消されているのです」(34ページ)
*「愛の裡」裡=その状態のまま、愛そのものに到達した時に利己と利他が超越され「客観」や「自然」につながっていく。*
 
「自伝を記したいという衝動」は「それ自体のうちに存在理由を持っているようにみえる」「才能というものは、一般的にいえば、微妙な扱いにくい概念であって、この場合問題になるのは、なにができるかということよりは、むしろなにものであるかということなのです。従って、才能というのは運命適応能力にほかならないといいってもよいかと思います。しかし、誰の人生が運命に対応する尊厳をもっているのでしょうか。精神と感受性とがあれば、各人の人生をいかなるものにでも作りあげることができましょう。つまり、各人のどんな人生をも一遍の「小説」に作りあげることができるのです。自伝衝動は、しばしば自己欺瞞にもとづいている純粋な詩的衝動とは違っています。即ち自伝衝動は、そもそもの初めからそれに存在理由を与えているある程度の精神と感受性とを前提しているように思われます。従ってこの衝動は、私たちの関心をとらえるためには、ただ生産的になりさえすればいいのです。それ故に私は、自伝衝動の根源である自己自身への愛は、つねに世間から是認され、共感をうけるものであるといったのです。」(34ページ)
 
*ここまでの結論である「精神と感受性とがあれば、各人の人生をいかなるものにでも作りあげることができ」「人生が運命に対応する尊厳をもち」「各人のどんな人生をも一遍の「小説に作りあげることができる」「教育」の必然性、必要性は全ての人間に可能性があることによって証明されている。トルストイが「己を愛するが如く汝の隣人を愛せよ」を「己を愛するより隣人を愛する方が易しい」と考え、自然なかたちの自己愛を身につけていたとも考えられる。《ゲーテの個人主義はトルストイが嘲笑したようなものではなく、人間、人間性、人類に即した活動を意味しており、社会的のものに通じていた(23ページ)》の個人主義を追及することによって人類すべてや社会へ良い影響を与えていくためには、自己愛も個人主義も全く妥協のない状態にまで高められていなければならない、という意味で運命に対する人間の使命は最も厳しいものであるべきだとも考えられる。*
 
(参考)(訳者による解説)
イロニー 生のためにする精神の自己否定
 
生=ハンス・ハンゼンとインゲボルグ・ホルム
精神=トニオクレーガー
 
「生が精神の側に歩み寄ることが決してないことを知り尽くしていながら、激しく生に憧れ、生を描き形象してゆくことを自己の使命としようとするトニオクレーガーの考え、生き方がイロニー」
 
シラー「素朴なるもの=自然」「情感的なるもの=自然を求める努力」
「自然=マンのいうところの生」
 
「自然=ゲーテ・トルストイ」
「精神=シラー・ドストエフスキー」

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