還暦記念2
記念とはいっても思い付きで書いているので順不同なのはご容赦を。元々が自分の頭の中を整理するための文章なので。
さて還暦になった、とはいえ外見なんてこの数年ほとんど変化がない、と思っていて髭があるか、ないか、それも仕事の都合で剃ったり剃らなかったり、というだけの話なのだけど、死んだ父親によく似てきた、と感じることが増えた。鏡を見て「おわっ!」って思う事がたまにある。滅多に逢わない親戚などには必ず言われるが確かに、って思う。
ただね、僕は父親の事が好きじゃない。勿論いい思い出だった沢山ある。ただやはり反面教師にしかなっていないのはなぁ・・・って正直思う。やはり男は父親が尊敬できる存在であることをつい望んでしまうのだろう。まあそれはそれで少々危ない、という面があることも知ってるけどね自分が彼に似ている、と思う事も多々ある。だからなおさら彼の「弱さ」がよくわかる。
父親は俗にいう「二代目」だ。僕からみたら祖父が創業した商売があたり非常に裕福な恵まれた環境で生まれ育った。地元一番の旧制中学に入学したエリート意識も強い子供だったはず。彼のプライドはこの時期に形成されたんだろうね。時代は戦前、中国への進出が進み妙に高揚した空気があった時代だ。ただ彼はこのあたりで大失敗をする。旧制中学を喫煙で4年で修了せざるを得なくなる。当時は修了でも高校へ進学は可能なのでごまかされているがこの話は姉である叔母から聞いた話で本人からは死ぬまで聞いていない。その後は受験をして失敗の連続だったようだ。時代的に太平洋戦争が開戦したころであり、非常に微妙な立場だったと想像する。年齢的には徴兵はギリギリで回避できたのか?でも昭和二年生まれなら戦争中に18歳は超えている訳で少し不思議でもある。彼のいた旧制中学は相当の進学校であり普通に五年に進級して卒業していたなら当然のように旧制高校、あるいは東大京大という風に進んでいた可能性もゼロじゃないのだけれど結局戦争もあり彼はどうにか私立大学に進学してお茶を濁す。
北大に進みたかったらしく大学を卒業後に北海道で一時期教鞭をとっている。戦災で自宅が焼けなかったので戦後すぐに商売を再開しており裕福なのは変わらなかったようだ。詳細は分からないが当時、北海道からよく荷物を実家に送り付けてきていてそれがすべて着払い、で家にいた叔母がそれをのちに教えてくれた。当時の生活を「貧乏生活」だったと話してくれたこともあるが実は仕送りをもらったりもしていたみたいで趣味の貧乏生活だったようだね。まあ教員生活はいい経験にはなったようだったけど。
その後帰郷して広告代理店に入る。多分昭和30年代に入り高度成長が始まった頃なのだろう。銀座で飲み歩く時代。自宅で暮らしているし商売はうまくいっているから給料はすべて小遣い、の時代。当時の話を子供のころに聞いた記憶がなんとなくあるが会社の事務の女の子たちを全員連れて喫茶店でお茶をおごる、みたいなことが日常的にあったようだ。なんかわかる気がする。完全に「若旦那」的な金の使い方だよね。
その後見合いで母と結婚して僕が生まれる。僕が生まれてしばらくして会社を辞めている。それは初代の祖父が死んだこともあるのだろう。祖父が亡くなってしばらくはまだ仕事をしていたようだがいろいろと問題があり、長男の自分が後を継ぐ、という意識だったのかも。ただ商売自体は資格のいる仕事なので母親が有資格者だったせいもあり実質的に店に立つ、という事はせず自分は「経営」をする、という事だったようだ。
僕が幼少の我が家は祖父はすでにおらず(僕が生まれる前に死んでいる)僕からすれば血のつながっていない祖母(父からすれば継母になる)とその息子である叔父、父母、そして妹、の六人家族、というのが物心ついた時の家族構成だ。余談だが母親の実家も祖父は早くに亡くなっているので生きた祖父に会ったことがない。昭和でも六人家族はどちらかというと多いほうだったのは小学校の時に感じた。茅ヶ崎はベッドタウンで急激に人口が増え始めていて建売住宅、分譲住宅、というのがどんどん増えている時期。小学校の同級生たちもこの時期に東京から越してきた、あるいは越してきてから生まれた、という人が意外と多かった。だから商売を代々やっているうちみたいな家と最近住みだした家、それは大体勤め人で、ずいぶん意識が違う、のが面白かった。
さて父の話に戻ろう、お気楽な代理店勤めは楽しかったようだ。銀座界隈を遊び歩く事が出来、当時としてはラジオドラマの台本をアルバイトで書いていて副業の収入もありマスコミ人、創作人としてなんとなく自分のプライドも守れる、そんな生活だった。僕が中学くらいにたまたま父親のこの時代のノートを見つけたんだが僕が生まれた前後くらいだろうか、週のうち酷い時は半分は遅刻、病欠?もかなり多い。サボりに近い感じだったがその頃の父親はもうそれ以上に怠惰な生活をしていたのであまり驚きはしなかったw
家業を継ぐ、というと聞こえはいいがもしかすると代理店での仕事に壁が出来ていて、あるいは自分の思うように出来なくなってきて嫌になった、のかな?と想像している。確かに相当な倍率をかいくぐって旧制中学に進んだ父親はそれなりに勉強は出来たようだし、当時から残る書架の本を見ても読書家でありインテリだったことは間違いない。ただ彼は自分の父親が嫌いだった。祖父は苦労の人で農家で生まれ苦労して勉強して今でいう専門大学に進み資格を得て開業している。厳しかった様子は父から聞いたことが多少はあるが非常に情報が少ない。産土神社の名代をしていた、大山参りに凝っていた、市長選に出馬して選挙違反して怪文書が出回るような事があった、などあまり良い話としては聞かされていない。まあ商売を立ち上げて成功させている、のだから当然、自我も強く努力してきた自分に自信がありリーダーシップをとって人の上に立とうとするタイプ、まあ創業者タイプ、という事だが、もしかすると父親のフィルターを通しているが祖父は祖父で違うタイプの困った人だったのかもしれない・・が父はある時期から芸術に目覚めてしまい若いころはひたすら絵をかいていたようだ。画家になりたかった、というか芸術家になりたかったらしい。ちょうど時期的に戦争の気配が強くなる時期に思春期を迎えていて、父親は商売で稼ぎまくっている時期、金の苦労はしたことはないが精神的な飢え、のようなものがあっただろうことは想像できる。中学を退学に近い形で終えてしまったことは祖父を激怒させたであろうし父が余計芸術に向いた、というか「逃げた」のも想像がつく。
そう、父親の残念なところは嫌な事があると「逃げる」ことなんだ。これは子供心にそう感じていた。僕が発達障害だったせいもあり学校でいじめられていることもあり、学校に行きたくない、そんなときに「休んでもあまり怒らない」のはありがたかったのは事実なんだが、彼は自分が出来ない事を子供に無理強いはしない、ということだったんだよね。僕にはそれはそれでありがたかったのは事実なんだけどただその後だんだんそれは単に「人にやさしいのは自分もなまけたいから」だと気がついてしまう。のちに40台の僕が一時期一緒に暮らしていた時期が1年ほどあったのだけど風邪とかで体調が悪くてつらい日など父は平気で「休めばいいじゃないか」という。そりゃそうだが仕事だからそうそう簡単には休めない。それはドイツで傷病休暇をちゃんととることを知っている僕でも現実には日本では休めない事が多々ある、と学んだからなんだけどそういう事は多分理解できていないんだな。
家業を継ぐ、あるいは経営する、という事で自宅に戻ってから数十年、我が家は祖母と母が店を開けて商売をしていた。父親は昼前に起きてきてタバコを吸いコーヒーを飲み昼飯を食べ午後は好きな事をして夕方には晩酌をしてまた好きな事をする。店を閉めた後の金勘定をすることもあるがしない事もある。好きな事、というのはその時期でマイブームがいつも何かあったのでそれをやる。絵を描くから始まつた芸術家嗜好はその後彫刻、篆刻、版画、ほか色々なアート作品へ向かい、また釣りを始めれば道具のウキを削ったり色塗りだのテグスを染めたりだの竿を直したりだの、とにかくやりたいことはすべてやる、そんな生活だ。ある夏は雨漏りがひどい我が家の屋根を張りなおす、と素人のくせに材料を買い、プロの道具をいろいろとそろえてトタン屋根を張りなおした。手先が器用なのは確かで凝り性だからいろいろな事が玄人はだしなのは事実なんだが。とにかく手仕事が好きだったのは確かでうちにはそれこそ大工道具なら大工よりあるかも?というくらい道具があった(のちにオークションで全部売ったが相当な量だった)ある時はトイレの土壁を自分で室内用のモルタルで補修する、なんてことをやってみたり。その都度プロ用の道具が増えていく。まあ良い道具は財産でもあるからすべて否定するわけでもない。何か特殊な道具が必要でもまず父親に確認すると結構特殊な物でも自宅にあって驚いたことは何度となくあった。
ただ自分でもこの生活がなんていうか人様に胸を張って言える、というか金を稼いでいる一家の大黒柱、でない事は承知していたようで。要は「髪結いの亭主」じゅないか、と陰口をたたかれるのがとにかく嫌だったようだ。商店街、当時は商店も本当に多くてうちはその中でも初期メンバーだから本来なら相当な影響力があってもおかしくない店だったのだけど父親は自分が大きくしたわけでもなく資格がある訳でもなく日常的に店先に出る訳でもなく・・と商店街の集まりなどには決して出なかった。困るのは母親がそういう集まりに出てなにか自分の意の沿わない事になると出席した母や祖母をなじることだった。店の運営もそうだが問屋とのやり取りも発注も一切自分がしないのに支払いの事や在庫の事で文句ばかり言う。スーパーが出来て高度成長からオイルショックの時代、売り上げが一気に下がりだしたころから急に我が家はギスギスしだす。それは単に自由にできる金が減った、それだけなのだが本当にある時期からうるさくなった。6人家族、食い物にはうるさいし酒も安い物は飲まない、高級志向。エンゲル係数が高い家だったのは仕方ないが普段の買い物に行く母親に金を渡す父親がいつも何か嫌な事を言う、のがとても印象に強い。要は無駄遣いするな、的な事なのだがそれでいて自分は出かけては気に入ったものをバンバン買ってくるし、行きつけの画廊でなにか目についたアーティストがいると贔屓にして作品を買う。釣り道具屋でも高い品をポンポン買う上客だからそりゃ持ち上げてくれる。そうやって自分を「すごいすごい」って言ってくれる場所や人達、をいつも作っていた。ただそういう人達だっていつも言う事を聞いてくれるわけじゃない。何かいに沿わない事をされると途端に「あいつはダメだ」となる。釣りだった地元の釣友会でいい顔していたくせに何かあって嫌な事を言われたとたん、釣りすら行かなくなる。画廊も金が続かなくて以前ほど金を使えなければ当然上客扱いはされなくなる・・とつまらないから足が遠のく。
僕が中学卒業くらいからはもう家業はどんどん傾いていた。でも生活レベルが簡単には下げられない・・だから家の中がギスギスする事も増えた。母には兄弟が多い。当時はまだ母の母である祖母も存命で割とよく母の実家に行く機会があった。母は末っ子でかつ結婚が遅かったからいとこたちは僕より大体10歳は上だったから逆に皆にはとてもかわいがってもらったのだけど、いとこたちが20歳を超えて世の中、がわかってくるとうちの父親みたいな「実は実績がなく口先だけ」の人間を疎ましく思うようになる。理屈は一流だが実際には店の経営がうまくいっている訳でもなく資格もなく、日がな一日好きな事をやっているが何をとってもそれで金を稼ぐわけでもない・・・傍から見たら「なんか情けない男」と思われていたのだろう。いとこたちは母を当然〇子おばちゃんと呼ぶが父親の事はほとんど呼ばない。次第に母の実家には行かなくなる。それは行けば父のプライドが傷つくから、なんだな。それでも法事かなにかでたまには行かない訳にはいかず当時は当然その後のふるまいで酒を飲むからその席で何か嫌な事を言われたのだろう。その場で怒るならまだしもそれをせず、帰宅して何日もたってから夜中に酒を飲んで暴れた事がある。当時高校を卒業して深夜のバイトをしていた時期、明け方仕事を終えて帰宅したら庭に祖母がいて、家の中でガラスの壊れる音がして・・・家の中は結構な惨状だった。
あの事件以来僕は父親を見限った、のは事実だ。でもあれだけが原因じゃない。物心ついてからずっと見てきた行動のすべての結論だ。父親はとても弱い人間だった。その弱い事を認める事が出来なかった。細かい事を気にしすぎて大事な事を判断できない。何より「自分が動く」という事が出来ない人間だった。頭の出来が多少良くても口だけの人間に人は付いてこない。自分がつらい時に人を思いやることが出来ない人間に人は惹かれない。汗をかかない人間を人は認めない。逃げることが悪いわけじゃない。でも逃げる事を正当化するためにまた言い訳を自分にしてごまかすのが日常になったらおしまいだ。自分を悪く言う人間から距離を置くことで自分を守る、すると自分の居場所なんて家の中以外にはなくなる。
手先の器用な父は本当にいろいろな物に手を出した。陶芸などはもっと早く始めていればもしかしたらそれなりになったかもしれない。父が残した作品を見ると素直にそう思う。芸術的なセンスがあったのは間違いない。ただ彼はとても残念だが全身全霊をつぎ込む、という事が出来なかった。違う言い方をすれば継続できなかった・・・人に認めてもらいたい、という承認欲求が強すぎたんだろう。神童と言われた小学生が中学を過ぎて足を踏み外し時代の変化も彼には不幸な事だったのだろうがプライドだけが残ってしまった人生。最初はみな初心者だが陶芸の教室もすぐに先生やほかの生徒ともめたよね、確かに先生だって大した作品作っていない、たいした作家ではないかもしれない、でも少なくとも長年やって来ているから教室開いている訳なの。そこにどうして敬意を払えないんだろう。まして生徒同士でマウント取っても仕方なかろうに。自分に自信がある人は人の言葉に左右されないんだよ。結局自分が一番わかってる。器用で何でもこなせるけど一本芯が通っていない、だから芸術家にはなれない・・でもなりたい。認めてもらいたい・・・素人ではない、すごい人だ、と思ってもらいたい・・・・
ただね、あなたはそれでも今日食べるコメの心配をしたことはないだろ?なんだかんだ言っても苦労なんてしてないよ。実家を処分して分不相応に手にいれた金を使って死ぬまでそれなりに好きに生きたじゃないか。母親が死んでから家を処分するまでの数年間 自分が店を開けて閉めて、動けない継母の世話をして家事をして・・が多分一番「体を動かさなければいけなくて大変だった」時期だろうが人生の中であれが日常の人なんてそれこそ腐るほどいる。数年でそれをしないで済むようになったのなんてとても恵まれていることなのだけど・・・・多分わからないだろうな。
こんな父親のおかげで僕も学習したことがたくさんある。まずは自分がちゃんと体を動かす事。ひとに頼る前にとにかく自分で動くこと。他人に対してまずは相手が自分より若くてもちゃんと敬意を払う事、言い訳をしない事。人のせいにしない事。ほかにもたくさんあるが(笑)
実際のところ体質も似ているのかな?って思う事がよくある。最近は特にそういう事を感じる。父親の場合はメンタルが弱いからもあるだろうが自律神経失調気味だったのは想像できる。まして酒タバコ、不規則な生活にストレス。承認欲求を抱えてジタバタしていたのかな。実家が商売をやっている、という事は父親はいつも家にいるという事なんだが、今でも思い出すのが明日は隣町のデパートにお中元を出しに行く、なんてことがある、そういう日は小学校から帰ると父はいないはず、なんか少し気が楽に下校すると「げっ、いるじゃん」ってなることがちょくちょくあった。なんか「調子が悪かったから今日はやめた」というようなことらしかったが駅まで歩いて10分、電車で10分、別に約束している訳でもなく自分のペースでかまわないのにこんな外出が出来ない。今思うと多分神経性の物なんだろうなぁ、って感じたりする。あれは自分が好きになれない現状を嫌がっている訳だから自分が変えない限り直らないんだけどそれが弱さ・・だったのだろうな。ひとには治せない物だし。今の時代で考えるとモラハラにDVは当たり前の時代でもあったしね、理屈っぽくて記憶力のいい父親は夫婦げんかになるともう手が付けられないくらい「嫌な感じ」で母を怒鳴っていた。店の仕入れで問屋の営業にいいようにごまかされていた祖母を叱る時もそうだった。なら自分がやればいいじゃないか!! なぜ自分でやらず結果だけ見て文句を言うんだろうこの人は??っていつも感じていた。子供心になんでそんな細かい事をねちねち言うんだろう?っていつも思っていたけど今は多少理解できる。たんに妻に、周りに甘えているだけなんだよね。母親を早くに無くしていてその分を妻に甘えることで代替していた。妻だから自分の気分で叩く相手にもなるしね。子供心に僕は父を時々「女の腐ったヤツみたいだな」って、いまならこの表現自体がもうダメだけど、でもそんな風にかんじていた。
僕も一時期どうしようもなくなりそうな事があった。ただ幸い僕には母親の血が入っていてこちらが助けてくれたように思う。うちの母親は「食事をしないで悩みが解決するなら食べなくてもいいけどそうじゃないならまずご飯食べろ」っていうタイプだった。大正生まれの昔風に言えば深窓の令嬢で、末っ子で、でも戦争があって進学は戦後、落ち着いてから高齢受験をして10歳も年下の同級生に囲まれて当時としては非常に珍しいバツイチ大学生・・幼少からピアノを習い出来ればピアニストになりたかった、が当時としては手が小さくて苦労するから、とあきらめて戦前は代用教員で音楽を教えたりしてた。母も若いころにお金の苦労は多分していない。一言で言えば母の方がよほど「肝が据わっている」んだな。
男の子は大概はマザコンだ。僕みたいに幼少期が普通じゃない場合はなおさらだ。母を亡くしたのは25歳。でもおかげで僕はマザコン、がひどくなることは無かったのだろう。実は祖母も父親が24歳くらいで没している。だがそれでいて祖母の実家のある四国にはとうとう生前は一度も行ってない。これも多分あちらの家からどう見られているか、を承知していたんだろうな。これは母の実家の事とも通じるが相手に自分を低く評価されるのがとにかく耐えられない、って事なんだろうね。祖母の実家はまたこれが現地では有名な旧家であり父は妙にその家柄を自慢していた。でも不思議とあちらに行く、という事にはならなかったしお付き合いも非常に簡素な物だった。僕が小学校くらいならまだ経済的には十分裕福で家族で行くことは可能だったがそれは無かった。今思うと僕は両親の祖父母で生きていたのは母方の祖母だけなのだと気がついた。まあ生まれたときに認識した祖母も僕のとっては祖母なのだけれど一応血のつながっている、という意味では一人しか知らない。おじいさん、という存在はだから分かるようでよく分からないんだな。
僕は父親に似ている。自覚もある。手先が器用で「器用貧乏」とよく言われる。逃げたくなる性分もよく分かる。ただありがたい事にそれをしない、あるいは出来ない、生来の気質もある。人の性格はそんなに簡単じゃないけど持って生まれた資質は生きていくうえで影響はするけど「歯を食いしばってでも」耐えてきた現実はちゃんとその後の性格に影響を与えてくれる。逃げなかったことで得た物もたくさんある。勿論無駄な傷もたくさんあるけどね。
ただ僕が父親を嫌いな理由はこれ以外のある出来事がおおきい。それは正直なところ僕の人生のとても大きな影響を与えていて、でもそれを父親の独断で勝手にされたことに対してはいまだに怒りしかない、という事実だ。この事に関してだけは許すことは多分出来ないだろう。父親の死後に判明したことなので尚更なんだ。あの時に父親が勝手な事をしなければ・・・・・まあもう遅い。30年遅い。自分の非を踏まえてもそれでも許せない、という事もある。もうどうしようもないけどね。