空過(くうか)ということ

私の好きな僧侶系YouTuber「ねこたまさん」です。

“念仏の教えは、幸せに目が眩んだ状態に冷水ぶっかける類のもの。”

彼女の人生観、ご信心のお味わいは、とってもユニーク。仏教に興味がある/ないに関わらず、是非視聴してみて下さい。

人間は、自分の人生には意味がある、自分がやっていることには意義がある、誰しもそう思わないと人生なんかやってられないというところがあるんじゃないかなーと思います。そんなこと改めて意識することはあまりないかも知れませんが・・・。

多くの場合、仕事とか子育てとか、だいたいそういうもの、つまり、社会や家族の中での自分の「役割り」や「貢献性」というものに、生きる意味や意義を見出だしていこうよということになるんでしょうね。みんなそれを否定されることが一番耐えられない。なぜならそれを否定されるということは、「お前にはもうこの世界に生きている価値がない」と言われているようなものだからです。

だから、自分にはまだやらなければならないことがあるんや、ここで人生負ける訳にはいかんのや、ここで死ぬ訳にはいかんのやと、何とかして生きる理由を模索し続けていくのだと思います。そういった、ある意味での「生への執着」がその人にとっての生きる活力や原動力になっているのでしょう。

しかし、もし自分の役割りや貢献性の中に見出だしていた生きる意味や意義をすべて剥ぎ取られたとしたら人間はどうなるでしょうか?これは真面目な話です。そして現実的な話です。

私たちの唯一かつ確実な未来は「死」です。たとえどれだけ幸せで豊かに生きた(と感じていた)としても、その先に待っているのは必ず死です。ひとりの例外もありません。あなたの親も、可愛い子供も、親友も、尊敬しているあの人も、憎たらしいあいつも、最後は全員必ず死にます。そしてあなたも死にます。その自覚があるかないかなどは一切関係なく、問答無用で私たちは文字通り全滅するのです。今は幸せに楽しく人生生きているんだから、そんな死ぬなんて話は聞きたくないと言っても、事実は事実です。誰ひとり死を回避することも無視することもできません。

さて、ここでひとつお尋ねします。もしあなたが今夜死ぬとしたら「人生、生ききった」と心から思えるでしょうか?それとも、なんで今死ななければならんのだ、こんなところで死ぬんなら、今までの私の人生って一体何だったんだ、何のための人生だったんだ!となるでしょうか?

もし今夜死んでも「人生、生ききった」と「今」思えていないなら、これから先もそう思えることは多分ないでしょう。あなたがいつか自分の死を現実として目の当たりにしたとき、色々なことを「あきらめる」かたちで死を迎えるしか選択肢がなくなると思います。慣れ親しんだ「生」が終わるんだというどうしようもない現実に絶望し、憔悴し、未知なる死に激しく動揺しながら死んでいくしかないでしょう。こんなはずじゃなかったという後悔もあるでしょう。それが、最期は死に敗け越してしまうということなのかもしれません。

「負けて勝つんじゃない、負けて負けるんじゃ」

この言葉を通して、空過(空しく過ぎる)ということを改めて考えさせられます。敗ける自分を許せるか、無力な自分の人生を許せるか。それは、「仕方ないからあきらめる」ということとは全く違います。お念仏、南無阿弥陀仏をいただいて生きる人生とは、人間の分別による白か黒かの相対的価値観から解放され、本当に自由で豊かな精神の視野を獲得することだと思います。

南無阿弥陀仏

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