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無常観の落とし穴

世界があまりにも矛盾や不合理で溢れているからといって、すべてを達観したかのようにニヒリスティックに冷笑する人がいる。またはあらゆることを冗談にして貶めてしまう。あるいは享楽的短絡に落着する。自分にとってすべては取るに足らないことで、あたかも自分は世界を俯瞰して観ているのだとでも言わんばかりに。

そういう人は自分のことだけはなぜか盲信している場合が多い。そしてそうであることに対して大抵無自覚だ。この世は無常なれば、溜め込んだ知識も、積み上げた経験も、磨き上げたつもりの知性もまた無常である。今夜死んでゆけるかと取り詰めれば、そんなもの何の当てにもならない。自力でこしらえた如何なる頼りも、己の眼前に鎌を振り上げた死神が現れた瞬間、虚しく崩れ去るだろう。だからといって、前述した厭世的達観のようなものが無常観なのではない。このあたりの線引きは難しい。人は自己の無明性に無自覚であるが故に、どこまでも自らをして迷い続けるのだろう。

最近つくづく思う。そんな人の胸の中こそ最も如来が活躍する場なのだろうと。他でもない私がそうであったように。

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