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『聞即信』
浄土真宗の信心は聞即信。
つまり、聞いたそのままが信心ということ。
何を聞くのか。
南無阿弥陀仏のお謂れ(仏願の生起本末)を聞く。
「念仏称える者を必ず極楽浄土に往生させ、仏に成らせる」
この仏(阿弥陀仏)の言葉を、疑い無くそのまま聞かせていただく。
このことの他に浄土真宗の他力信心はありません。
さて、いかがでしょうか?
「念仏称える者を必ず極楽浄土に往生させ、仏に成らせる」
この言葉を、そのまま聞けますか?
多分無理だと思います。様々な疑いが出てくるはずです。現代風に言えば、「ツッコミどころ満載」ということですね。
「なんまんだ、なんまんだ。はい、念仏称えましたよ。これで私も仏になれるんでしょ。すごいね~。」
「阿弥陀仏ってそもそも誰?どこにいるの?本当にいるならその証拠を見せてよ。」
「極楽浄土?そんなのどこにあるの?そもそも仏なんて存在するの?科学的に証明できるの?」
ある団体では、このことに納得できなければ納得できるまで必死に聴聞し、ツユチリほどの疑いもなくなるまで聞き抜けと教えられているようです。大変結構なことですが、たとえ自分でどれだけ納得しようとしても絶対に納得できないのではないでしょうか。もし納得できたと思っても、それは自分の狭い認識の中で「納得したつもり」になっているだけのことでしょう。つまり「自力」ということです。
私たちの思考や認識というものは非常に限られたものです。自分でこしらえた狭い枠でしか物事をとらえることができません。あなたは顕微鏡でミジンコを観察します。観察されているミジンコは自分が観察されているなんて夢にも思っていないはずです。では人間はどうでしょうか?誰かが私たちのことを観ているなんて、そんなことあり得ない。本当にそう言い切れますか?
「念仏称える者を必ず極楽浄土に往生させ、仏に成らせる」
この言葉をそのまま聞かせていただく。
そのまま聞かせていただく心そのものも、仏様からいただくのです。はじめから私には何の出番もなかったのでした。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
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