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【学会後記】日本語教育学会 2023春

日本語教育学会の2023年の春季大会にて、『「学」としての日本語教育はいかに可能か?-規範的教育学の視点から-』というポスター発表をしました。
Web掲載用の要旨(34ページに掲載):https://www.nkg.or.jp/event/.assets/web-2023spring.pdf

いささか挑戦的な主題ですが、大会テーマが「日本語教育学の「これまで」を振り返り,「これから」を指し示す」というものだったので、ちょうど卒論で取り組んだ内容と近いと思って、卒論の一部(だいたい1章分・30〜40ページくらい)をコンパクトにまとめた研究です。

質疑中のディスカッションややりとりでかなりいい視点を得ることができたので、それも含めて簡単に研究の紹介がてらまとめておきます。

(1)なぜこのテーマに取り組んでいるのか

 一言でいうと、「日本語教育にかかわる政策に関する評価の価値判断は、いかなる基準で行われるのか?」ということに関心があるからです。

 私はずっと、日本国内の英語教育や日本語教育などの言語教育に関する政策の研究をしていました(卒論の主題もこれでした)。そこで、国会議事録や省庁の資料、政党の部会の資料や関わるアクター(主に政治家)の活動記録などさまざまな観点から政策、特に日本語教育の政策について調べるのですが、どうやら「共生」や「共生社会」というものが目指している方向性(目的)らしいが、具体的な中身やその妥当性がなんなのかわからなかった、というのが最初のきっかけでした。
 この「目的」は、ある政策について何をするか・しないかという意思決定や、政策の執行段階において「どのようにそれを行うか」、また政策に関する評価を行う際の価値判断(よし・悪しの判断)の1つの基準となりうるものです。しかし、肝心のそれが「なんとなくよいものとして掲げられていてその理論や論理がよくわかっていない」と、極端な話解釈の余地次第でなんでもありになってしまいます。「少なくともこういう状態は共生社会とはいえない」などの一定の合意がないと、これも共生あれも共生で概念として無用の長物になってしまいます。

 そこで、3〜4年前くらいから「そもそも日本語教育において、このような目的(論)はどのように扱われているのか」という問いが生じ、調べ始めました。そしたら驚くほどに少ない、というかほとんどない。
 私のバックグラウンドは教育学だったので、教育哲学という分野で「何のために教育を行うのか」みたいな理論や議論が一定あったりする(それでもここ20〜30年はあんまりないが)ことは知っていたのですが、日本語教育では一部の試みを除いて全くといっていいほど見当たらなかったのです。

 ということで、『そもそもなぜ目的(論)が問われない(問われにくい)のか』ということを調べてみようと思ったわけです。

(研究の概要は研究発表への補助線とそれ以外は焼き直しなので、質疑・ディスカッションを経た気づきにそのまま飛んでも差し支えないです)

(2)研究の概要(だいぶざっくり)

 『そもそもなぜ目的(論)が問われない(問われにくい)のか』ということを調べていると(といってもほとんど日本語教育内部ではそういう議論はないのですが)、面白いことに気がつきました。それは、「どうやら1990年代ごろから、日本語教育に関する研究を「学」として捉え直そうとする試みが観測される」ということです。ということで、研究を進める上で、次のような3ステップを踏んで進めていくことにしました。

  1. 日本語教育を「学」として捉える動向を整理すること

  2. 日本語教育が「学」として捉えられるようになった背景や構造を整理すること

  3. 日本語教育において、そもそも「学」ということば(概念)がどのように理解され受容されているのかを明らかにすること

目的(論)の話がないですが、これは(3)と深く関係するので後ほど述べます。結論から言うと(1)と(2)はそんなに難しくないのですが、(3)が難しいというかよくわからん、という感じでした。

(a)日本語教育を「学」として捉える動向を整理する

ざっくりこんな感じです。ポスター発表の発表用資料からの引用。

ポスター発表で使用した発表用資料の一部(中井澤2023)

もうちょい詳細は下記Tweetのツリーに書きました。こっちはどちらかというと日本語教育において「研究」と「学」がどのように使い分けられてきたのかということに着目しています。

(どうでもいい余談だけど、卒論をまとめるためにメモ書きしてたこのツイート、ディズニーのカフェでパソコンと本を広げてやってたのが懐かしい。)

(b)日本語教育が「学」として捉えられるようになった背景や構造を整理する

大雑把にまとめると、

  1. インドシナ難民の受け入れ以後の国内の「生活者に対する日本語教育」、留学生10万人計画・30万人計画を背景とする「留学生に対する日本語教育」の拡大、技能実習・特定技能など「就労者に対する日本語教育」、外国ルーツのこどもたちに対する「日本語指導」などなど、日本語教育が対象とする学習者が多様化していったこと

  2. 「どのように日本語を教えるか」「どのように日本語を学ぶか」という主題から、日本語教育の多様化に伴ってさまざまな視点が日本語教育にもたらされたこと。特に社会-日本語教育の関係を問う研究、学習者に関すること(ビリーフや動機づけ、言語使用など)を問う研究。

この2つの背景から、「日本語教育」という主題で研究されている諸々を日本語教育「学」としてまとめて捉え直そう、という動機が生まれたものと思われます。これは、例えば教育学者が日本語教育の研究を、心理学者が日本語学習者の研究をしているだけではうまれにくい動機ですが、キャリアのはじめから「日本語教育」に携わっている人が中心になりはじめたころからこのような傾向が見られ始めたのではないかと思われます。日本語教育に従事しているというアイデンティティをもった人が、「心理学的な」「社会学的な」「教育学的な」「言語学的な」さまざまな方法論で研究を展開し始めた結果、「日本語教育(という1つのフィールドで展開されているさまざまな研究を包摂する)学」という意識が芽生え始めたのではないかと。
 もっともこれは断定するのが難しく、あくまでも仮説程度のものです。いずれしっかりと研究したいと思っています。

(c)日本語教育において、そもそも「学」ということば(概念)がどのように理解され受容されているのかを明らかにする

 さて問題の3つ目ですが、まずはじめになぜこれが『そもそもなぜ目的(論)が問われない(問われにくい)のか』と関係するのかについて少し補足したいと思います。結論からいえば、「「学」はその領域固有の目的(論)をもつ」からです。

 「学」とは、学問の「学」です。あえて大雑把に定義するなら、学とは「その領域固有の関心や目的に応じて、現象や事実を説明し、予測する力をもつ体系的な知識および研究方法の総称のこと」をいいます。

 では、それぞれの「学」(教育学、心理学、言語学・・・)から集まった人々、あるいはそれぞれの「学」における理論や方法論を参照して研究や実践を行っている人々が集まった日本語教育は、「その領域固有の関心や目的=学」をもちうるのか?もっというと、そもそももつ動機や必要性があるのか?という疑問が湧いてきます。

 そこで、そもそも日本語教育「学」ということばをもってして、日本語教育にいる人々が何を言わんとしているのかをみてみると、どうやら「日本語教育に関する研究をまとめた領域」くらいの認識しかないようなのです。事実、一部の研究者から、「「日本語教育」に関する諸研究は、「日本語教育学」と呼べるほどの構造体をなしていない」(本田ほか2019:13)という指摘もくらっています。

(卒論(及び今回の研究発表の一部)ではこの後、教育学においても同様に目的論が近年語られにくくなっていることや、規範的教育学の視点から日本語教育における目的論をどのように整理できるかについて論じています。長くなるので割愛します。)

(3)質疑・ディスカッションを経て

 上記のような問題意識と調べた結果をもって、「そもそも日本語教育って独自のアイデンティティとは何かとか自明的に論じられてきてないよね」「日本語教育を「学」と呼ぶことによってどんなことを意味したいのかがあんまり明確じゃないよね」ということを議論したく発表しました。質疑・ディスカッションを経て、3つの気づきを得ました。

  1. 日本語教育「学」と呼ぶことによって、何を意味したいのかがやっぱり明確ではないことが多い。日本語教育としてのアイデンティティということが強く意識されているようで「独自の関心・目的」や「独自の方法論」を構築しようという志向性がどの程度あるのかがやはり不明瞭(特に、日本語教育独自の方法論とは?という部分)。

  2. 日本語教育「学」ということばを、「独自の関心・目的」に基づいて日本語教育に関わる諸事象・諸実践の価値判断における基準をもつという意図を込めて使う場合、「基礎づけ」ているように受け取られ、相対主義的に退けられる。

  3. そもそも「その領域固有の関心や目的に応じて、現象や事実を説明し、予測する力をもつ体系的な知識および研究方法の総称のこと」という「学」の理解の仕方をアップデートする必要があるのではないか、ということ。従来の学問にとらわれない(あるいは対応できないほど世の中が複雑化している)からこそ日本語教育のような領域横断的・学際的な分野が出現し、その現象そのものを捉える言語をまだもたないのではないか。

(4)感想と今後の展望

 日本語教育「学」という時、独自の方法論に基づく価値基準をもつということを明瞭に自覚する必要が少なくともあると思います。それは、政策や実践を判断する際に、「これはよい」「これはわるい」と判断することばをもつことと同義です。その方法論と価値基準(哲学)を叩き上げ、さまざまなステイクホルダーの間で一定の合意に達した時、日本語教育学ということばをもってして一定のアイデンティティが獲得できるのではないか、そんなことを思いました(いつになるかはわからないが)。

 個人的には、政治が決定し行政が執行する政策について、よりよい社会に向かっていくためのことばを持ち得るならという観点で日本語教育「学」を構築する必要があると思っています。そのために、今後ももっと研究を深めていきたいです。

 それにしても、学会は楽しいなあと何より思いました。大学を卒業してからなかなかアカデミックな議論をする場がないので、今後も積極的にいろんな場に顔を出したいと思います。

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