書くことが、癒しになる

働く三児の母になり、自己表現をする機会は、完全に失ったと思っていた。

保育園の連絡帳を書く。小中学校の書類を書く。すべては保護者としての記録のためであり、責任者として書いているだけだ。楽しい作業ではない。最近はいくらか子ども関係の書類はオンライン化したが、それでも保護者として直筆だろうとデジタルだろうと、書く作業からは逃れられない。時には子どものイベントのお礼状だったり、先生へのお礼状だったりといった、シャドーワークに近い書き物も登場した。

それは、だんだんフラストレーションを覚えることになる。私は誰のために書いているのかと。私は私のための自己表現をすることなく、黒子のように生きている。かといって、引きこもりたいのに引きこもれない。子どもたちの案件で、五月雨式に保小中の方々に呼び出されるからだ、お母さんという肩書をもつゆえに。

お母さんを卒業したくなった。しかし、その感情に気づいたのは、三女を産んだあとだった。これが、学校だったら、仕事だったら、モノ相手だから環境は変えられる。しかし、子どもは児童福祉法やこども基本法で守られているように、保護者は第一義的責任者だ。まっとうな社会人(と自分では思っている)私が、育児放棄や児童虐待や体罰をしたら、それは児童福祉法違反であり、社会人としてもアウト。だから、子育てから卒業したいとか言ったところで、保護者である責任者の立場から離れられない。子どもを養育することの責任の重さを知ったのが、三人目の出産後だったというのが、致命的に遅かった。長い間、頭と子宮がお花畑だった。

三姉妹の母親となった現在。彼女たちは、私を最初のロールモデルとして見るだろう。私が、キャリアと育児にもがきつづけていることを、彼女たちは見続ける。私は去年保育士資格もとったので、その過程で、子どもがどれだけ養育者から影響を受けるかを知識的にも学んだ。彼女たちが、子を持つと人生が終わると、絶対に思ってほしくない。妊娠数、出産数が多いと、社会的に制約を受けうるということを、絶対に思ってほしくない。超少子高齢化を加速させる価値観に、日本に明るい未来はないからだ。マクロで俯瞰したときに滅亡するような価値観を、娘達に植えつけたくない。

だからあえて、ここで書く。書くことが自分への癒しになることを期待して。




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