見出し画像

社会の変革スピードを考えればBoomerRemover運動が流行するのも仕方がない

Twitterでは、嫌老がいよいよ顕在化してきたなという印象。


一方で、儒教を筆頭として高齢者を敬うべしという概念は世界に通ずるものがある。

儒教が生まれたのは、中国4000年の歴史と言うだけはあるから紀元前(調べてないけどたぶんそう)だろう。

2000年だか3000年前なら、情報源といえば年功者になる。情報取得手段が限られる近代以前において高齢者は大事、まさに亀の甲より年の功である。

しかも今ほど人間は長生きしない。
死の危険は今よりもはるかに高く、そうした中で高齢まで生きながらえてきた生存者として情報に価値がある。


一方で、現代においてはほんの10年前の情報ですらスッカリ無価値になる。

10年前といえば「Terapadやサクラエディタがコーディングに向いてるソフトだ」という時代からすっかりVS Codeがデファクトスタンダード。

当時私はまだ高校生でWILLCOMのW-ZERO3[es]とかがバリバリの最新機種だった。

いまWindows Mobileで吉里吉里のノベルゲームを動かす方法とか発信して価値があるかと言われたら100%ない。

ましてや20年、30年前の知見がどれだけ有用かという話になる。ポケベルの知識が現代生活の役に立つのか


もちろん中には時代を問わず普遍的に価値ある情報も多くある。

だが、そんな普遍の原理なら別に近縁の高齢者に頼らずとも、Kindleでもっと価値ある成功者の人生哲学を読めばいい


残念ながら、時代が変わったのだ。

BoomerRemoverという運動時代を推進するかは別としてそうした概念が流行してしまうことは、防ぎようがない。

高齢者=Boomerという図式は、本当に高齢者が誰もが認める益ある存在ならそもそも流行しないはずだ。

このことがなお今の高齢者が儒教概念にあぐらをかいて何もしてこなかったことを逆説的に証明してしまっているわけだ。

情報が目まぐるしく流転する世の中でも、なお高齢者として普遍の価値を確立する努力をしていれば、こうはならなかっただろう。

それは、数の暴力に身を任せ努力を怠ってきた世代の責任である。

プログラミングが出来ないどころか、Excelすらまともに使えない大企業の年配層。

本来ならアセンブラ言語など今の世代があまり触れていないであろう源流の技術に精通していてもおかしくない年代だ。

いくら歳を取って学習効率が落ちていくとはいえ、学ぶことを一切放棄でもしないと今ほどのIT音痴は生まれないだろうと思う。


それは無条件に高齢者を敬うという旧来の倫理観を失った若者が悪いというより、自らの価値を保つ努力をしてこなかった高齢層の責任と言われてもやむを得ないのではないか。

倫理観というのは、そうした方が全体幸福につながる集合知の不文律だと私は捉えている。

はたして、儒教的な年功序列は中年を過ぎてもなお有用な概念と言えるのだろうか


その答えを私は知らない。

私はただ、休日の外出を自粛し、平日は粛々と働くのみだ。

コロナ対応や業績悪化で残業禁止となり収入減のあおりを受ける実働部隊の若手と、マネジメントという名の仕事の横流しで固定の年俸を貰う管理者。


なにが正義か考えさせられる。


もちろん、親がいなければ、祖父母がいなければ、子は生まれ育ってきていないということは言えるだろう。


一見、年功序列の十分な理由にも思えるが、冷静に考えるとだからなんだろうと言いたくもなる。

親がいなければ子はいない。
それは全人類に共通の事実だ。大いに同意する。

だが、単なる事実に過ぎない。

酸素がなければ生きてはいけないが、酸素を崇め奉るのか?同じ理由で人体に不可欠な微量元素ひとつひとつに感謝して生きているのか?

そういうのと同じレベルのことだろう。


もし、納得できる理由があるなら教えてほしい。


「なぜ、高齢者を敬うべきなのですか?」

よろしければサポートお願いします🥕 サポートはレビュー記事作成の原資となります