くるぶしから15センチ

爆発するかのようなおしゃれ芸術センスがあるわけでもなく、激ダサコーデでもなお周囲をひれ伏せさせる華やかさがあるわけでもなく、2年後の流行を作るのはこの私だとばかりに先走った服を着る勇気があるわけでもない。そんな私に、ダサさと紙一重のおしゃれを追求する力はあるのだろうか。

そもそもおしゃれは、法律の許す範囲で、それぞれの思想および信条のもと自由に行われるべきである。私のおしゃれを左右できる外部的要因は(TPOを除けば)私の貯金のみだ。いや、貯金って私の内部的要因になるのか?

とまあぐだぐだ書くのは、とあるファッションをしたいのにダサいと思われることを恐れて挑戦できないまま3度目の夏を迎えるからだ。いったい前置きは何だったんだよ。”自由”だなんて曖昧で便利な単語を振りかざすわりに、どうせ私はダサいと思われたくないと考えてしまう小心者なのだ。

私が去年の夏も一昨年の夏も諦めているファッションーーそう、サンダルに靴下ファッションだ。

流行の兆しが見え始めたころは、「ふーん」としか思わなかった。ワンシーズンで終わる流行だろうと気にも留めなかった。
なのにいつの間にか、定番となっている。サンダルに靴下。サンダルに靴下……どうしても「サンダルに靴下〜?」という感情が抜け切らなくて、でも街でかわいらしくコーディネートしているのを見ると、ぎゃ、ぎゃわいい〜と真似したくなる。

サンダルに靴下のコーディネートのこつをネットで検索すると、その記事の8割以上(※体感)に、「ダサくならないこつ」だとかの注釈がつく。ダサくならないためにダサくならないようにダサくしないためには……いやそれ、紙一重でダサいってことですやん!!!!!!! むり!!!!!!!!!!!!!!!!

紙一重でダサくなるコーデを、それでもおしゃれに着こなせる力が私にはない。
せめてお顔がアンジェリーナ・ジョリーに似ていたり、全身をPRADAで固められる財力があったりすれば、「ダサく見えるけど最先端ファッションなんやろな」と周囲が勝手に前向きな納得をしてくれそうなものを、しかし私は平々凡々なワーキングプアーなので絶対に「ダサい」と思われて終わる。つらい。私はパートナーにすら「現代アートのような魅力」と妙に貶されている気がしないでもない褒め方をされるタイプなのだ。

おとなしく素足でサンダルを履けばいい。そう思うものの、日々ファッション雑誌やWEARで靴下にサンダルコーデを研究している。
私の普段履いているスカートやパンツの丈からすると、どうやら靴下はくるぶしから15センチあたりのものを選ぶといいらしい。くるぶしの起点が、くるぶしの下なのか上なのか、いちばん出っ張っているところなのかすらよくわからない。人生で初めてくるぶしを意識した。とりあえずくるぶしのいちばん出っ張っているところに定規のゼロを当て、15センチを測定した。ふーん、こんなもんか。

くるぶしから15センチを測定したところで、靴下屋さんにも足を運んだ。なるほど、たしかにサンダルやスニーカーに合わせて、”見せる”ための靴下が店頭には並んでいる。靴下って脇役やないんやな。「このファッションに合う靴下を売ってください」と靴下屋さんの店員さんに声をかけようと思うこと三店舗、すべて失敗した。わざわざ”このファッション”のコーディネートで来たというのに。私の自意識が邪魔をする。あ〜私の自意識、自意識よ……先日「ブルーピリオド」の最新刊を読んで死んだと思っていた私の自意識よ……生きていたんだな……。

そんなわけで私は今年も、靴下を買えていない。
去年より前進したことといえばくるぶしの位置を意識したことくらいだ。くるぶしから15センチ。魔法の呪文みたいに何度も心のうちで唱えるうちに、サンダルに靴下コーデで街を歩く想像上の自分像ばかりが肥大化していく。きっとかわいいだろうな。
夏のボーナスが出たら靴下を買うと決めた。ボーナスがなくたって靴下くらいさすがに買えるけれど、そうではない。これはもう、ボーナスをかけるくらいの意気込みがないとむりなのだ。ボーナスが楽しみだ。靴下買ったら、きっとツイッターで自慢するからね。

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