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【自転車好きに捧ぐ】Pivot Cycles創世記【Podcast和訳】

Podcast和訳第二弾。今回はThe Pink Bike Podcastにて2023年2月に放送された、Pivot Cyclesの創業者でありオーナーである、クリス・コカリスをゲストに迎えた回を和訳します。

MTBとの出会いから最近バーナード・カーが乗ってるアルミラグのプロトに関する話題まで、約2時間のガチインタビュー。ほぼ全編が時系列に沿った彼個人の経験談なのですが、これがさながらMTBの歴史大作。いろんな著名人とのエピソード、各時代を彩る名車、最新の開発舞台裏の全てがまぶしい。そして歴史と言えるものをコツコツと積み上げてきた先人達や、現在進行形で積み上げ続けているクリスさんをリスペクト。

前述の通り2時間のインタビューで、訳文としては4万字以上。テクニカルな話が多く、結構な分量が手作業翻訳になってしまいました。わかりづらい箇所があったら
すみません。あと、今回は写真も貼ってみました。リアルタイマーではないためこの作業もかなり骨が折れましたが、往年の名車が勢揃いで見応えも加わっています。

MTBのみならず、自転車が好きな方すべてに、あとは起業に興味がある人とかにも読んでいただきたい名インタビューです。乗れない雨の日、車中泊の夜長、ゴンドラ待ちなどのお供に最適。ゆっくりお楽しみください。

※写真はネットで探してきたものなので間違いがあるかもしれません。その他、もし何かお気づきの点があればコメント等でお知らせいただけますと幸いです。

※以下内容はThe Pinkbike Podcast、写真は併記したURLからの引用によるものであり、執筆者(はゆ)はいかなる権利も保有しません。

提供元: The Pinkbike Podcast: Episode 165 - Pivot's Chris Cocalis on Starting a Bike Company, US-Made Carbon, & High Prices、2023年2月17日

https://www.pinkbike.com/news/the-pinkbike-podcast-pivot-chris-cocalis-on-starting-a-bike-company-us-made-carbon-and-high-prices.html



マイク・レヴィです。ピンクバイク・ポッドキャストへようこそ。今回はアリゾナ州テンピにあるPivot Cyclesを訪問し、Pivotの創始者クリス・コカリスに話を聞いています。まだ話せない新しい自転車を見に来ました。でも、このポッドキャストで取り上げたいことがたくさんあるんだ。クリス、あなたは長年にわたってめちゃくちゃクールなことをやってきたからね。複数のビジネスを始めることについて話すつもりです。タイタスについても話すつもり。Pivotについても話すつもり。コロナについても。バイクのテスト、その他いろいろについて。

よし!

アリゾナ州テンピにあるヘッドクオーター
https://www.pinkbike.com/photo/24207059/


学生時代 ー自転車屋バイト、DIY、会計学ー

クリス、あなたは複数のビジネスを立ち上げてきましたね。あなたはとてもクールなものを作ってきましたが、ずっと昔に戻りましょう。多くの業界人と同様に、あなたもバイクショップで働いたことはありますか?

そうそう、最初は自転車屋だったんだ。地元の自転車屋にたむろするガキだったんだ。9歳のとき、僕は自転車屋にたむろして、仕事の邪魔したり、ゴミ出しをしたりしてた。

箱を潰したりとか?

箱つぶしはあまりしなかったかもしれないけど、ステッカーをもらうためにゴミ出しをしてた。地元では、公園区を通じて自転車のメンテナンス教室が開かれていた。地元の自転車屋さんが開催してたんだ。それを見た母が僕を参加させようとしたんだけど、実は大人向けの教室だった。だから特別な許可が必要だったけど、なんとか参加できたんだ。本当は、お父さんが子供の自転車のパンクの直し方とか、チェーンの注油の仕方とかを学ぶような、1回で終わるようなものだったんだけどね。でも毎回受けた。メカニックたちは、最初は親たちの相手をして、僕は後回しだった。最終的には、僕は3段変速のハブをバラバラにしたりしてたから、相手をせざるを得なかったんだ。結局は、その店で働いたり別の店に移ったりすることになった。基本的には13歳か14歳の頃から自転車屋で働いたよ。

なるほど。場所はフェニックス?

いや、シカゴランド地区だね。イリノイのパラティン出身なんだ。

そうなんですね。このためにいろいろと調べてみたんだけど、クリスさんにはものづくりの長い経歴がある。あなたはちょっとした作り手で、DYIerだ。スケートボードやスノーボードを作ったこともある。水上飛行機も作ったんですか?くわしく教えてください。

中学、高校と林間学校に通っていたんだけど、2年生になるころには、設備とかでできることはもうあまりないんじゃないかって指摘されるようになって、林間学校の自主学習プログラムみたいなものができたんだ。それで見つけたのが、このハイドロプレーンだった。

それ以前にボートを作ったことはある?

いいや。めちゃくちゃかっこいいと思ってやってみたんだ。

ファイバーグラスを積層したりもしたのですか?

そうだね。だから、いかにして木材を曲げられるようにするか、何日かかけて曲げから始め、馴染ませ、全体を作り上げる、ということだった。錆びず、木から抜け落ちない船舶用のネジを調達したり、ゲルコーティングを施したり。仕上げのサンディングは本当に楽しくなかったけどやりきった。でも飽きてしまって、ペイントもせずにしばらく放置していたんだ。そしたら近所の人たちがボートを見つけて、すごく夢中になっていたんだ。それで近所の子供たちに渡して、彼らがペイントを仕上げてくれた。僕が大学を卒業した後も、彼らはまだあのボートを走らせていたよ。調整も上手くいって、いいボートだった。

なるほど。スノーボード作りについて教えてください。どんなことがあったんですか?

バートンの最初のスノーボードの写真を見たんだ。80年代初期、83年か84年頃かな。金属製のフィンが2、3本刺さった板みたいなもので、ゴム製のバインディングは水上スキーに付いているようなものだった。実際、僕が働いていたバイクショップでは、スノーボードの入荷を手伝ったり、店内にスケートボード・ショップを立ち上げるのを手伝ったりして、売るものを多様化していたんだ。BMXはうまくいっていたけど、ちょっと落ち始めていて、みんな他のスポーツにも夢中になっていた。基本的にスケートボードのデッキを作るのと同じ方法で、同じことをもっと大きなスケールでやって、トップとボトムをラミネートして、バインディングを固定する金属製のブラケットを自作した。ラバーストラップ。

パワーストラップを思い出した、パワーストラップを覚えている?

パワーストラップは素晴らしい。パワーストラップ・プロを出すべきだった。今日もそれを使っていたかもしれない。

そうできたかも、でもしなかった。

だね。

クリス、自分でやる、自分で作るという姿勢はどこから来ていると思う?あなたのお父さんもそうだった?

私の父はそんな人じゃなかった。シンクの下で水漏れしているパイプのネジを外して、そこらじゅうに水を撒き散らすタイプ。

僕みたいだ。

父がそうやってるのを見ながら、そのやり方ヤバそうじゃない?って言ったら彼はどいて僕がやるっていう。

お父さんは反面教師だったわけだね。

ああ。だから、僕が9歳か10歳になる頃には、いろいろなものを直していた。近所にメカニックや自動車整備士がいた。彼らの家に遊びに行って、工具を手渡すんだ。

そうやってずっと自分の手を動かしてきたんですね。

うん。そういうのが大好きだったんだ。

RCのインタビューを読んだんですが、彼はあなたのことをミリメートルマンと呼んでいました。さらにいろいろ見てみると、あなたは会計とエンジニアリングの両方のバックグラウンドを持っているそうですね。

電気工学を3年半、4年近く学んだ。電気工学は好きじゃなかった。機械工学にはどんな種類があるのかもよく知らなかった。それで、ビジネススクールで授業を取っていたんだけど、本当は学校の方は辞めたかったんだ。この時点で、僕はフレームを作ったり、他のことでかなり忙しくなっていた。それに比べると会計は簡単だった。会計学は楽しかったし、ビジネス・スクールに移って会計学を専攻したんだ。楽しかった。他の人が苦労しているところ、僕にはしっくりくるような気がした。会計学ぶのは学校からの逃避という面もあったけど、結果としてASUの会計プログラムで出会った人のうち何人かはバイクの事業などをよくサポートしてくれてる。その道に進んでほんとによかった。

ええ、あなたの受けた教育について言おうと思ったのですが、幼少期の実地教育もそうですが、伝統的な学校教育、会計学や工学の教育も、後年、複数の事業を立ち上げるときに役に立ったのではないでしょうか。

そうだね。面白いことに経理をきちんとやらないと、そういうビジネスは長く続かないからね。

両方の面を持つことが必要ということですね?

そうです。

ただクールなものを作ればいいというものではない。生き残りつつ、ものづくりをやり遂げ、販売もできるようにならないと。

それを望んでるんだけどね。


自転車界へ ーバイククラッシャーの機材遍歴ー

クリス、君に見せたい写真があるんだ。若くてイケメンの男がここにいる。体格もいい。この写真を見て何を思い浮かべますか?この写真のあなたは何歳ですか?

19か20くらいかな。

https://www.pivotcycles.com/en/about/

あなたは自分で作ったスチール製のマウンテンバイクを持って立っている。

ああ、自分で溶接した最初のフレームだ。

何年でした?

1988年だね。

何が起きたか話してもらえますか。なぜ自転車をつくることになったのか。

イリノイ州から越して来たんだ。高校まではずっとBMXのレースに出ていた。冬の全国大会にはアリゾナまで来ていた。レースチームの友達がこっちに引っ越してきたんだ。だから夏には何度か彼を訪ねたよ。ここに来て、みんなとても強かった。毎晩レースができた。アリゾナ州立大学を選んだのは、毎晩レースができるということだけが決め手だった。

写真ではあなたはかなり屈強にみえますね。半車輪以上の差をつけられそう。絶対。

実はプロライセンスを持ってたんだ。高校3年の時にここに来たんだ。しょぼいAプロだった。でも、プロとしてBMXのレースに出たかったんだ。ここには速いヤツがたくさんいた。ABAのホームコースだった地元のサーキットのクリニックで講師をしていた。でも、基本的にはASUに通いながら、一部自分で資金を調達していたんだ。実はイリノイ大学のトラック奨学金をもらっていたんだ。

なんのスポーツ?陸上?

200と400メートル。両親は、私が毎晩BMXレースができる場所に来るためにそれを断ったことを喜ばなかった。

優先順位だね、クリス

優先順位は大切だ。私は今、子供たちにも、なぜその学校に行きたいのか、なぜその場所にいたいのか、そういうことを心がけるように言っている。自分の原動力となるものは超重要だ。だから、僕はそのことを踏まえてここに来たんだけど、そのための資金がなかったから、すぐに仕事を見つけなきゃいけなかった。それで結局、こ自転車店で働き、その店を辞めて別の店の店長になった。でも最初のうちはBMX少年だった。イリノイ州にはマウンテンバイクというものがなかったんだ。マウンテンバイクを見たことはあったけど、バカにしていたよ。おかしな見た目をしていたから。ある子がシュウィンのハイシエラをダートジャンプ場に持ってきて、フォルクスワーゲンでも停められそうな大きさのダブル飛んだんだ。それで僕も「ちょっといい?」てな感じでジャンプしたら、フォークが折れちゃったんだ。それで「悪いな、返すよ」って。それが僕のマウンテンバイクに対する印象だった。自転車屋のみんなはマウンテンバイクに夢中だった。アリゾナではブームになってた。彼らは私をライドに連れて行ってくれた。それで僕はMTBに惚れ込んじゃったんだ。

1987 Schwinn / High Sierra
https://simplicityvintagecycles.com/2017/01/02/1987-schwinn-high-sierra/

どういうところに惚れたの?

分からない。ただただクールだった。BMXでは決して味わえなかったレベルで、MTBに魅了されたんだ。MTBに恋していた。それまではもちろん、BMXをベースに人生を決めてきた。でもMTBは別次元だった。本当に夢中だった。僕はスマートな走りをするBMXレーサーだったわけじゃなくて、80年代初期ごろにはあらゆるものを壊していた。ハブフランジ、クランクアーム、ボトムブラケット、スピンドル。80年代半ばになると、パーツの進歩が早くて、そんなことはもう問題じゃなくなったんだけど。それから初めてのMTBに乗りかえたら、初日からクソパーツがポロポロ取れてくんだ。何もかもが取れてく。それで、パーツを探したり、BMXのパーツをMTBに取り付けたり、いろいろ工夫してみた。それから、ボトムブラケットやクランクセットなどの設計を始め、文字通りASUの寮に住みながら、いろいろなものを作り始めたんだ。機械工場と契約して、ボトムブラケットを作っていた。Snake Cyclesという小さな会社も持っていた。段ボール箱をスプレーで青く塗って、発泡スチロールを切り抜いて、その中に自分のボトムブラケットを入れて、お店を回って売っていたんだ。そうやって始めたんだ。

その頃、自転車業界で働こうとか、自転車会社を作ろうとか思っていたんですか?それとも、ただパーツを作って、売って、様子見、みたいな感じだったんですか?

ああ、一度やってみたら、これは本当にいいぞと思った。すでに世の中に出回っているものよりずっといい。20歳、19歳。お金もない。機械加工屋のオヤジに金を払わなきゃならない。最低ロットが幾つだ。でも、自分用に必要なのは2つだけ。残りは売ったほうがいい。そうやって始まったんだ。よし、自転車業界に入るぞ!とは思わなかった。最初は自転車の会社を持ちたかったんだけど、これが僕の好きなスポーツで、これが僕のやりたいことだったからなんだ。何か思い通りにいかないことがあったら、それを改善したい。それから今のフェニックス(訳者注:アリゾナ州都)みたいにバイクショップのオーナーや担当者、バイク業界全体、いろんな人たちが集まっていた。そのうちの9割がみんな同じ店で一緒に働いていた。フェニックス地区で一番大きなショップだったんだけど、どういうわけか最初の頃にそこにみんないたんだ。だから、僕もその一員であったというのは最高な経験だった。

この写真は記事に載せますが、この力作フレームはかなり特別なものですよね。短いトップチューブに高めのステー。独学で溶接して作ったんですか?

https://www.pinkbike.com/photo/24182211/

写真に写っているもう一人の男、アラン・ヴォーンが実際にはあのフレームを作った。私が経営していた店にやってきたんだ。本当に奇妙な形のバイクで、駐車場で乗ってみたんだけど、超しなって、当時としてはヘッドアングルが急すぎた。そのバイクはまっすぐじゃなくて、ウィリーなんてできなくて、一方向に引っ張られるんだ。

当時から要求レベルが高かったんですね。

うん。

自転車は真っ直ぐでなければならない。

僕は彼に、これを自分で作ったの?と聞いた。彼は、そうだよ、裏庭に小さな店があるんだ、と言った。この頃、私はリチャード・カニンガム、マンティスの超ファンだった。寮の部屋の壁にはニシキ エイリアンの写真が貼ってあったしね。チェーンステーの高いバイクをスケッチしていたんだけど、何かを作る方法に憧れていたんだ。そして彼は、そうだ、僕はロウ付けの仕方を知っていて自作したんだ、と言った。僕は、設計もできるし、ジオメトリーも手伝えるし、バイクのことも詳しい。それで僕たちはゆるいパートナーになり、夜に彼の家に行ってバイクを作るようになったんだ。そして1988年か89年に、アランと僕はMountain Bike Actionにバイクを持ち込んだんだ。その頃にはザップがいたと思うんだけど。バイクを発表したら、Bikes of the Futureっていう記事に載ったんだ。マンティスのバイクが2〜3種類、ニシキ エイリアン、Sun Eagle Bicycle WorksのTalon、ゲッコーっていうブランドとか。5、6、いや7種類のバイクが載ってたかな。

1989 Nishiki / Alien
https://www.pedalroom.com/bike/nishiki-alien-89-45496


雑誌を開くとそこに自分のフレームが載ってるなんて、非現実的だっただろうね。

ああ、でも面白かったのは、ティーンエイジャーとして、自分にとって何が重要で、現実はどうあるべきか、というところだ。僕は自分のバイクを手放したくなかった。一番まっすぐで、最高で、すべてが調整済だった。アランはまだ初号機を持っていた。あれはしょぼくて、まっすぐに矯正してなんとか乗れるようにしたやつだった。僕らにはたくさんのバイクがあるわけじゃなかったし、僕は自分のバイクを置いていきたくなかったんだ。だからマウンテンバイク・アクションにはアランの初号機を預けたんだ。ハンドリングの悪いバイクだったし、肉厚も変えていたから、最初の3台か4台のバイクの中で変更した量が最も多かったのに、なぜ彼に最初のバイクを預けるのか。彼らはかなり手加減してくれて、砂漠で乗る分には素晴らしいバイクだと言っていた。もっと貶してくれてもよかったのに、いや、貶すべきだった(笑)。当時僕は、ふーん親切だな、って感じだったんだけど、でも、雑誌に最高の1台を提供しないとか、そういう決断をしたことを振り返ると、まったく僕は何を考えていたんだろう?って思うよ。

1989 Sun Eagle Bicycle Works / Talon
https://www.pivotcycles.com/en/35-years-of-innovation-the-cocalis-chronicles/

違いない。当時のバイクの特色はどんなところですか?

変速は信じられないほど悪かった。フロントチェーンリングはトリプルだった。その時点でバイオペース(訳者注:シマノの楕円チェーンリング)みたいなものがあったかどうかも覚えていないけど、フロントディレイラーは使えなかったし、チェーンリングの技術も最悪だった。

平らでしたね。

そう、だからチェーンが吸い込まれるのは大問題だった。だから、Uブレーキが下に付いているバイクには、チェーンが下から吸い上げられるのを防ぐために、シャーク・トゥースと呼ばれるものがぶら下がっていた。チェーンがタイヤに吸い込まれないようにするために、チェーンステーの上部にシャークフィンと呼ばれる小さなヒレを取り付けたんだ。クラッチも何もなかった。だからチェーンの管理は大きな問題だった。だからチェーンステーを高くすることで、チェーンが引っかかるような問題をすべて取り除いたんだ。もちろん、チェーンは落ちてしまう。でも、フレームを壊したりチェーンリングを曲げたりするよりはいい。それに、見た目もクールだった。短いチェーンステー、本当に短いチェーンステー。

SharkFin + SharkTooth
https://www.mtbr.com/threads/the-official-shimano-xt-shark-fin-thread-df-m730-only.1015375/

参考までに、どれくらいの短さでした?

当時はみんなインチだったから覚えてないな。でも、26インチホイールの外周が、ボトムブラケットシェルから数ミリ以内にくるくらいだった。チェーンステーを高くして(訳者注:クリアランスが確保でき)邪魔にならなかったから、そこまで短くできた。だから僕たちはそこまで短くはしなかったよ。その後、フィッシャーも登場した。他にも2〜3のブランドがやってたけど彼らのやり方は、シートチューブを曲げてタイヤをかわして(訳者注:BBとリアエンドが近づくように)動かすというものだった。ほとんど一輪車みたいだったね。

1991 Gary Fisher / Montore
http://mombatbicycles.com/MOMBAT/Bikes/1991_Fisher_Montare.html

ウイリーマシンだね。

まさに。 中には素晴らしいバランスポイントを持つものもあったけど、あるものは秒で油が切れる(訳者注:BBの?)。あのチェーンステーを短くしたフィッシャーはひどかったな。

当時だれがいいバイクを作ってた? あなたから見て「かっこいいな」というバイクブランドはありましたか?

私が最初に買ったマウンテンバイクはニシキだった。店で取り扱ってたからね。従業員購入制度が充実してて、それで買えたんだ。2回目のライドでフレームを壊した。長持ちしなかったよ。

ニシキのエイリアン?

いや、エイリアンが出る前のことだ。ニシキ ピナクルと呼ばれていた。(訳者注:Tangeの)プレステージチューブで、本当に細くて、ほとんどロードバイクと同じ径のだった。ナショナル・トレイルを下るような乗り方をして、ダウンチューブが裂けてしまったんだ。当時僕はまだ寮に住んでて共同シャワーを使ってたから、自転車をシャワールームまで運んで、シャワールームで自転車を洗ったんだ。そう、愛情込めて洗ってた。

1988 Nishiki / Pinnacle
https://mbaction.com/throwback-thursday-things-were-simpler-in-1988/

懐かしき青春時代。

そうそう、2回目のライディングでダウンチューブ下の大きな波打ちを感じたよ。超ショックだった。でもその後、ファット・チャンスのフレームを手に入れた。ファット・チャンスの生涯を通じて、僕はファット・チャンスの大ファンだった。

1988 Fat Chance / Fat Chance
https://www.calibikes.jp/items/46216772

何色でした?紫とかでしたっけ?

あれは白だった。それからYo Eddieが出たときにメタリックブルーを買った。そして妻は、まだ妻じゃなかった頃、妻を説得してFat Chance Wickedを買ってもらったんだ。だから僕はオリジナルのFat Chanceを持っていた。彼女はウィキッドを持っていて、ヘッドアングルが少し急だった。彼女のはメタリックなマルーンカラーだった。それから僕の最初のYo Eddieはメタリックブルーで、黄色のデカールとかが貼ってあった。そのバイクが大好きなんだ。それから、最初のTitusは、ジオメトリー的には、Yo Eddieのパターンを踏襲したものだった。

1990 Fat Chance / Yo Eddie
http://www.secondspincyclesblog.com/2016/07/1990-fat-chance-yo-eddy-in-sapphire-blue.html

Talonは何台売りました?会社はどうなりましたか?

何本売れたかは分からない。10本以上かもしれない。でも、14本はいかなかったかな。アランは自分の(訳者注:フレームビルディングの)仕事を続けた。ある時点で、私はエレベイテッドチェーンステイは辞めたくなっていた。違うことをしたかった。でも彼はエレベイテッドチェーンステイのままで続けたがったんだ。だから私は彼の家に行くのをやめた。それで終わり。それからさらに2、3年はバイクを作っていた。その頃、私はゴアに雇われ、ゴアテックスでコーティングされたケーブルシステムの開発に携わっていた。

どうしてそのようなことに?

自転車店経由でね。ゴアの人たちにも会ったよ。ゴアはフラッグスタッフ(訳者注:アリゾナ州の都市、フェニックスの北に位置)を拠点にしているからね。ゴアテックスのケーブルのアイデアは、ゴアテックスのフラッグスタッフの事業所から生まれたんだ。だから僕は、ゴアテックスのパーツをテストしてフィードバックを提供することで、報酬を得ていたんだ。アランの本業は工業用コーティングの会社だった。で、僕がやっていることを彼に見せたんだ。彼は、そんな複雑なことをする必要はない、と言った。で、彼は結局、Quality Bikeかなんかの自社ブランドから裸のケーブルだけを買ってきて、それを仕事場に持っていって、シリコンじゃなくて黒のコーティングを施したんだ。それが史上初のブラック・コーティング・ケーブルだった。そして彼はそれをQBPに売っていたよ。タロン・スリック・ウィップと呼ばれていた。

Talon Cycles / Slick Whips
https://www.ebay.com/itm/225881685933

その名前覚えてるよ。

だから、普段の仕事とは別に、それが彼にとって大きなことだったんだと思う。タロン・スリック・ウィップは何年もかけてたくさん売れた。やがて誰もがテフロン・コーティングのケーブルやブラック・コーティングのケーブルを持つようになった。それが今日に至るまで、ケーブルに何らかのスリック・コーティングを施すようになっているんだ。

Talonのバイクはもう作らないと決めてから、すぐ後にタイタスを始めたのですか?それともその間に何年かあったのですか?

ああ、Talonのバイクはまだ持ってたし乗ってた。そのバイクの大ファンだったんだ。だから、その後にYo Eddyを買って、さらにその後に次のフレームを作ったと思う。実はちょうどそのころYetiも買ったよ。

どのモデル?
 Arc?

オリジナルのArcだね。 ちょうどBMXのヘッドセットサイズから最初の1.5になったところだった。最初の1.5ヘッドチューブのYetiが届くまで、8ヶ月くらい待ったかな。

1993 Yeti / ARC ※フォークはACCU-TRAXのもの
https://theradavist.com/2020-yeti-arc-vs-1992-yeti-arc-more-similar-than-you-think/

Arcは2日以上持ち堪えられた?

フォークが持たなかった。カンチ・レバー・スタッドのとこで座屈して、確か1回目のライドだったから、頭にきた。たしかイエティの創設者であるジョン・パーカーだったと思うけど、当時イエティはまだ小さかったから、彼が電話に出るのは普通のことで。彼はフォークの保証をしてくれなかったんだ。その後、イエティのフォークがすべてそう(訳者注:強度不足)だったと分かるんだけど。当時イエティのフォークは太くて丸いチューブだった。それが彼らの最初の実験的な製品だったと思う。

ぶっとく見えたけど、肉厚が薄すぎたのかな?

ああ、確か0.35mm(訳者注:流石に薄すぎると思って聞き直したのですが「オーサーティーファイブ」と言ってる)とかだったと思う。薄すぎたんだろうね。カンチレバーのスタッドの熱もあいまって、ドロップで座屈したんだ。

カンチレバースタッドを脚に溶接するときの熱で土台部分がボロボロになるのか。

そうだね。やがてアンサーがA-Traxとかいう名前でフォークの製造を引き継いだんだ。肉厚やその他諸々の問題が解決されたんだと思う。すごくいいフォークだったからね。でも、アフターマーケットのフォークとして最高だったのはボントレガーだった。だから僕のイエティにはボントレガーをつけたし、それからロックショックスも買った。アリゾナ州初のロックショックスを手に入れたことをとても誇りに思っているよ。

1988 Bontrager/  Composite Rigid Fork 1" Threaded
https://bikerecyclery.com/early-bontrager-composite-rigid-fork-1-threaded-1980s-1990s-silver-exc/

RS1を手に入れたのは何年?

最初のRS1が出たのは1988年か89年だったかな。それから、うちの別の店舗を経営していた仲間が、同じ時期にマニトウの最初のフォークを注文したんだ。それで彼はRitchey P-21にそれを付けていた。それから僕はYetiにロックショックスを付けていた。

1992 Ritchey / P-21 TEAM WTS
https://www.steelfightsback.com/ritchey/p-21-team-wcs-1992/

サスペンションフォークの良さはすぐに分かりました?コレだ!と感じました?

夢中になったね。最高だった。

1989 Rock Shox / RS1
https://csrabbit.com/blog/rock-shox-first/

信頼性はどうでしたか?

高かった。特にトラブった記憶はない。バイクの寿命まで乗り続けたと思う。実は、ロックショックス自体がタイタスを始めた理由でもあるんだ。というのも、ロックショックスは実はノースカロライナのダイアコンプUSA、現ケーン・クリークが製造していたから。スレッドレス・ヘッドセットを発明した人が、その特許をダイアコンプUSAに売ったんだ。彼はサスペンション・バイクの設計をしていて、私はそのサスペンション・バイクのプロトタイプをすべて作っていたんだ。それで、Cane Creek、Diacomp USA、RockShoxの主要な人たちと知り合いになり、ヘッドセットやその他もろもろの関係から、最初のプロトタイプに使った小さなリアショックを一緒に作ることができたんだ。


TITUS創業 ーいくつもの巡り合わせー

タイタスの最初のプロトタイプに関しても。

少し話を戻すけど、実はスレッドレス・ヘッドセットを発明したジョン・レーダーとは、自転車レースで出会ったんだ。彼は自転車では大物だった。グース・ネクストからスレッド式ヘッドセットへと1年で移行したのだから。自転車業界において、あれほど急速に変化した製品は他にないだろう。100%グースネクストから85%スレッドレスへ、1モデルイヤーで。


訳者注:ジョン・レーダーについてはこちらに詳しいです。



不世出の人ですね。

それこそが大物とされる所以だよね。たしかに自転車業界の大物ではあったけど、彼自身は自転車業界の人間ではない。彼はただのレーサーで、遊び半分で自転車いじりをしていた人なんだ。テキサス州ダラス出身だから、彼に会ったのはアリゾナの自転車レースじゃなかった。たぶんカクタスカップか何かのレースだったと思う。

カクタスカップ!ジョン・トマックを思い出すよ。あのダブルとか。

https://mbaction.com/photo-of-the-day-john-tomac-at-the-cactus-cup/

ボブ・ロールとか。

ああ、ボブ・ロールはクレイジーだった。

そうだね。僕たちはそのレースにはいつも参加していたんだ。一方、ジョン・レーダーはサスペンションバイクの設計をしていた。彼は大学の援助を得ようとしていたけど、うまくいかなかった。その頃、私はゆくゆくはタイタスのものとなるフレームを作り始めていた。そして私は彼のためにいくつかプロトタイプを作ることに同意し、彼はそれをユニベガに売り込んだ。当時、ユニベガは堅実なメーカーだったので、GTにも売り込んだ。結局ユニベガがそれを買うことになった。私がASU上級生のとき、ユニベガから175台のチタン製フルサスバイクの発注を受けたんだ。

その時に立ち返ってみて。その発注書を手にしたとき、それはいいニュースだった?それともクソニュースだった?

いいクソニュースってとこかな。そんなことを全く期待していなかったから。実際、趣味の範疇だったし、会計事務所で就職面接もしてたし、親の言う通りに職業人生の次のステップに進むところだった。クレイジーだった。この発注は晴天の霹靂だったんだ。プロトタイプを1つ作るのに6~8週間かかっていた。だから175台の発注書を手に「どういうこった」みたいな感じで彼らに電話したら、当時のユニベガのブランド・マネージャーが「我々の計画はこうだ。アメリカの高級チタン・メーカー、つまり君にチタン・バージョンのバイクを作ってもらう。そして、ティースデールにハイエンドのスチール・バージョンを作らせる。そしてアジアで廉価版を製造する。それが私たちがやろうとしていることだ。」ASUの会計プログラムのディレクターだった会計学の教授がいるんだけど、彼は自転車乗りだった。彼は、会計士にはいつでもなれるんだから、君はこれをやるべきだと言ったんだ。

すげえ。

そうやって彼に背中を押された。彼は新しい会計学の教科書を書いていて、実はこの教科書のお金はいらないんだ、と言った。そして、彼は教科書の収益からお金を出してくれたんだ。

投資家だね。

そう、彼は投資してくれた。実際には、彼は会社の一部分も欲しがらなかった。バイクも受け取ってくれなかった。彼はいつも自費で自転車を買ってたよ。そうそう、彼の名前はハル・レナウ。今はもう亡くなってしまったけど、タイタスを軌道に乗せるのに大いに貢献してくれた。

多くの人がそういうエピソードを持っていますね。長い間活躍して、多くのことを成し遂げてきた人でも、ずっと昔にさかのぼると、多くの場合、重要な人物や重要な出来事となる瞬間や人物が1人か2人いるものなんですね。

まさに。だれにでも師にあたる人はいる。人生において、この人やこの出来事がなければ全く違う人生を送っていただろう、って感じのキーとなる出来事があったりするよね。

会計士になっていたかも。

かも。今もちょっとそうかもしれないけど。

それで規模を拡大したんですね。人を雇った?会社を設立した?どうなった?

以前から勤めてた自転車店の経営と並行してタイタスを始めた。別の男がやってきた。彼の奥さんは隣で買い物をしていた。彼はマリンのチタニウムが表紙の雑誌を見たんだ。『バイシクリング・マガジン』か何か、あるいは『バイシクル・ガイド』か、そういう雑誌だったんだけど、それを持ってやってきて、奥さんが買い物をしている間、文字通りその記事を読んでいたんだ。

1990 Marin / Titanium
https://classic-mtb-museum.com/marin-1990-2921/

僕は、ああ、僕の友達がマリンの12番を持っていて、チタンは最高だよ、と言ったんだ。チタンは素晴らしい、と。それで彼は、ここで言われているようなチタンは難しいとか、そういうことは全部デタラメだって言うんだ。僕はチタンの溶接を生業にしている。チタンのことなら何でも知っている、かなり生意気に言うんだ。僕は、えっと、自分は自転車のフレームを作ってるんだけど、それってすごくクールだね!って感じで返した。彼は溶接やチタンのことならクソほど何でも知っていた。それで一緒に何か作り始めたんだけど、彼は自転車乗りでもなんでもなかったんだ。ただその記事を読んで、ご冗談を、こんなもん寝ながらでも作れるよ、と思ったらしい。それからガレージで自転車を作り始めた。

おいおい、クリス、それはクレイジーな話だ。あなたの働いている店の隣の店に来たチタン溶接工の男が、空気読んで、あなたの店に寄って、あなたに話しかけた、と。百ウン台のフレームを作るのにチタン溶接工を必要としているときに。

あ、ちがうちがう。これはTITUSを始める前で、プロトタイプを作っているときの話。

ああ、了解。

この後、ジョン(レーダー)に出会った。

なるほど。

最初は、何かチタン製のかっこいいやつを作ろうという感じだったんだ。アンザにはチタン製のバーエンドがあったからね。だから、もっとクールなチタン製バーエンドが作ろう。それからステムも作った。この町にナインハウスという男がいて、クロモリのステムを作っていたんだ。クールなステムだった。みんな持っていたよ。だからそれをチタンで作ろう、とか。

なんでもチタンにすれば性能が良くなる。(笑)

チタンにすれば良くなる。てわけでもないんだけど(笑)。 でも、しばらくはそうだと思っていたんだ。それで、まずはそこから始めた。彼はTIG溶接ができたから、最初のフレームはスチール製だった。それから最初のチタンフレームは、チュービングとかを買う余裕がなかったんだ。だから作ったあと、売ってしまった。最初に作ったチタンバイクには乗れなかった。2号機には乗れたよ。その後、僕らが作ったチタンフレームでレースに出るようになったんだ。その時、レースでジョン(レーダー)に出会ったんだ。僕たちは友達のためにバイクを作り始めたばかりで、そこにタイタスという名前が書いてあった。発注書を受け取ったときにはじめて、僕らは本気になった。よし、ハルがこれだけお金を出資してくれる。当時、僕のビジネス・パートナーだったマークは航空宇宙関係の会社にいた。彼の上司もこのアイデアをクールだと思い、同額のお金を出してくれた。そのため私たちには30,000ドルがあった。それぞれ15,000ドルずつ。

今だと3億円相当?(笑)

そんなに年寄りじゃないよ(笑)。でも正直なところ十分な額だった。建物を借りて、借入をして、手動の旋盤とエンドミルを買って、航空宇宙会社から夜勤明けの溶接工を何人か雇い、私たちのためにバイクを溶接してもらった。そして、ユニベガのためにバイクを作り、ダイヤモンドバックのためにバイクを作り、レモンのためにバイクを作り、ディーンのためにバイクを作り、たくさんの会社のためにバイクを作った。

レモン持ってたな。レモンのチューリッヒ。当時はReynolds 853のバイクだった。

レモン・マーキュリーチームのチームフレームはすべて手がけてた。すべてカスタムする必要があったから。そうして治具なんかは整備していった。カスタムバイクを作れるようになったし、得意分野になった。マリンやライツスピードがチタンフレームを生産するのと同じスピードと価格でカスタムバイクを生産することができたから。だから、すべての金型や設備は素早くセットアップできるように設計され、高度にカスタマイズ可能なものを作ることができたので、OEMもたくさんできるようになった。

2001 LeMond / Reynolds 853 steel
http://autobus.cyclingnews.com/tech/2001/tech29mar.shtml

あなたは明らかに適切な時に適切な場所にいて、適切な人々に出会っていた。でも、これらすべてのピースがひとつになるのは、起こるべくして起こったように聞こえるよ。不思議なものだね。

当時も、そして今も、すべてのショー、すべての場所、すべてのことに参加しようと努めている。本当にのめり込んでいたら、絶好の機会てのは転がっているものだから、その場に居合わせなくちゃいけないんだ。とてもクレイジーなことだけど、そういうもんなんだ。

昨日、ここを見学して回っていたときに、あなたがまだ持ってるタイタスのパーツを見せてくれましたね。ハードテールのフレームとか、シートステイとか。実は、それを作れるのはあなただけだったと言っていましたね。

Y字型になっていて、ある方向から見ると楕円形、90度横から見ると平らになっているんだ。チタンチューブを楕円形に叩きつぶすだけでなく、角が立つようにする必要があった。前使っていた素材メーカーのチタンは、叩きすぎると割れてしまうんだ。そこで私たちはこのような治具で、手作業で、ほとんどハーバー・フレイト(訳者注:ホムセン)のしょぼいプレス機のみたいなやつで作った。それを使って慎重に成形したんだ。中に入れるゴムの部品もいくつかあって、溶接工のために一つ一つ手作業ではめ込んでいった。あとチューブのコーピングもほとんど僕がやったんだ。会社の規模が大きくなるにつれて、誰かしら、あれはできない、これはできないと言うようになった。僕は自転車屋ではあらゆる作業をやってきた。だから、冗談でもなんでもなく、みんなやればできるんだよ。

このポッドキャストが終わるころには、あなたがこのライフスタイルにねじ込んできた13のキャリアを振り返っていることでしょう(笑)

それほど大したことじゃないよ。


フルサス時代に突入 ーホルストとのあれこれー

名前を言うから、思い浮かんだものを言ってほしい。発音を間違えちゃうかもしれないけど。ホルスト・ライトナー。

ああ、ホルストは素晴らしい。

ですよね?

つまり、(彼がいなかったら)自転車業界は今とは違うかもしれないし、サスペンションもまったく違うものになっているかもしれない。

なぜ?彼の功績を知らない人のために、なぜあなたがそう考えるのかを教えてください。

当時はFSRリンクと呼ばれていたホルスト・リンクは、4バーとも呼ぶばれるけど、ドロップアウト(訳者注:リアアクスル)の前にピボットがある。ヨーロッパのバイクの90%はホルスト・リンク。アメリカのバイクの大部分もホルスト・リンクだ。そして、私たちの初期のTitusブランドのサスペンションバイクは、すべてホルスト・リンクの4バーだった。その理由はユニベガとの関係に遡る。ユニベガはスペシャライズドに追いつこうとしていた。当時スペシャライズドは「革新を、さもなくば死を」というスローガンを掲げて自らを駆り立てていた。ユニベガはどちらかというと、アジアに行ってオープンモデルのフレームを選び、色に塗るというスタイルで。しかし、マウンテンバイクの世界は急速に変化していて、変化についていけなければ生き残れない状況だった。たとえば、シュウィンは生き残れなかった。多くの会社が生き残れなかった。ユニベガもシュウィンと同じ道を歩みかけてた。そこで、彼らはこの男(ホルスト)を製品担当として雇い、立て直しを図った。彼ら自身がそうしたいと言ったにもかかわらず、社内では変化を良しとしなかったので、彼は怒っていた。ユニベガは梶を切らなかったんだ。それで彼は去っていった。私たちが彼の設計のフレームを製作していたプロジェクトの半ばで。そして、彼はこう言ったんだ。ごめん、クリス。俺やめるよ。AMPリサーチのプロダクション・マネージャーになるんだ。彼は、もしカリフォルニアに来ることがあったら、ぜひ見てくれ、かなりイケてるから、と言った。

1993 Mongoose / Amplifier
https://www.bikeforums.net/22275280-post10.html

マングースのアンプリファイアーが発売されたのはその頃で、ホルスト・リンクの最初のバイクだったんだ。それですぐに彼を訪ねた。1990年か91年だったかな。そしてAMPのリア・トライアングルを持って帰ってきた。彼がくれたんだ。それからすぐに、AMPのリア三角を取り付けて、タイタス最初のフルサスを作ったんだ。


※訳者注:
AMPとホルストの関係はここに詳しいです。



チェーンステイはどれくらいの大きさだった?直径は?


HBの鉛筆より太かった。シャーピーくらいはあったかな(笑)

幅はガバガバだね(笑)

なんていうか、ピボットが本当に小さかったんだ。リアの三角形はまっすぐじゃなかった。面白いもので、僕たちも、いくつか治具を作ったり、リアトライアングルをまっすぐに溶接して、要所要所に補強を加えたり、いくつかやりたいことを試している途中だった。だから僕は、治具やすべてを持って現地に向かって、ホルストに、こう言うことをやりたくて、こうやって作ってるんだ、と伝えた。彼らと一緒に座って、僕の要望を伝えたんだ。そしたら、彼はものすごく怒った。

地雷踏んじゃった…?

彼は言った。私たちは500台のバイクを作ろうとしているんじゃない。鼻垂れ小僧でも作れるようにして5000台生産しようとしてるんだ。それに対して僕が、それなら5000台まっすぐなバイクを作ればいい、と言ったのが彼を怒らせた。

致し方なし(笑)

で、ユニベガから移ってきた人の名前は忘れてしまったけど、彼とホルストの娘さんがうまく話をまとめてくれて、そうだ、治具は置いていこう。また取りにくると。そうしてくれた。彼らはリア三角を作ってくれて、それを使い始めたんだ。その後、他のアップデートを加え、93年頃に登場した最初のアルプ・ショックではフォックスと仕事を始めた。継続的に製品を改良していきつつホルストとライセンス契約を結んだ。彼が発明した全ての自転車関係の特許に関して、1台あたり2ドル支払う契約だった。

2ドル。悪くないね。

お買い得だった。素晴らしいことに、彼は何年にもわたって多くの企業と取引をしてきた。明らかにスペシャライズドは大企業だけどさ、彼がホルスト・リンクの設計をスペシャライズドに売却し、他社に使わせないようにしたときは驚いた。でも、私はこの特許が切れるまでライセンスを持っていた。そして私は、なぜスペシャライズドに売るのかと彼に訊いた。彼は、約束通り特許使用料を毎月支払ってくれているのはあなただけだ、と言った。だから、私の設計を使っている人はたくさんいるのに、対価を受け取っていない。そこにスペシャライズドのオファーがあった、と。

1998 Specialized FSR Shaun Palmer Edition
https://www.retrobike.co.uk/threads/1998-specialized-fsr-shaun-palmer-edition.235918/

売ったのにはそれなりの理由があったんですね。

まさに。それで、スペシャライズドとの協議を経て、ホルスト・リンクからFSRリンクに変更したんだ。そして、タイタスの全生涯でそれを利用した。

AMPのリンケージフォークに乗ったことはある?

あるよ。そこそこだった。試乗しただけだけど、あまり好みじゃなかった。僕には合わなかった。

だろうね。当時のRS1とかには及ばなかった。

全てね。マルゾッキもミッチも。

うんうん。

ちょっと華奢だったかな。ホルストはミニマリストだった。彼は何をするにもミニマリストだったのは確かだ。とにかくアイデアの天才ではあるんだ。

知らない人のために説明しておくと、ホルストはドアを開けると「ウォーッ」と鳴るトラックの階段の開発者だ。

彼の特許だと思う。他の主要な特許として、荷台の小さいピックアップトラックを買ったとき、テールゲートを下ろすと筒状のものがあり、荷物をゲートの中に入れておくことができるというもの。これも彼の特許だ。

一人で色々やってるね。

ああ、うまくやってるよ。

まだ現役だしね。

彼はKTMのオートバイの最初の設計者でもあったし、ATKのオートバイ部門も所有していたと思う。彼は成功したエンジニアで、本当に頭がいい男だ。


TITUSの栄華と終焉 ー時代の先を行く製品開発ー

さて、もう少しタイタスについて少し話しませんか。トレイルバイク、特にロングトラベルトレイルバイクの話をしたいのです。なぜならあなたは、そこそこのトラベルがあってそこそこ漕げるバイクを最初に作った一人だから。クアシモト?ロコモト?

クアシモドとスーパーモトがあった。当時はね。Supermotoはダウンヒルバイクで、Quasimodoはロングトラベルのバイクだった。

市場の反応はどうだった?

評判は上々だった。つまり、私たちは大きな会社ではなかったけれど、あのバイクは本当に人気があったんだ。

ああ、レーサーXが思い浮かんだよ。

それがNo.1だった。レーサーXは代表作だったけど。クアジモトもまたある意味でユニークなもので、かなりの数を生産したよ。

2000 Titus / Racer X
https://www.pivotcycles.com/en/35-years-of-innovation-the-cocalis-chronicles/

そうだね。エグゾグリッドはどうですか?エグゾグリッド、ものすごく斬新な見た目ですよね。チタンチューブがくり抜かれて中にカーボンが入っている。

正直なところ、これ以上斬新ものはなかったよ。特にあの当時は。現代では(当時よりも)より良いものづくりの手法はあるけど、これ以上斬新で独特なものになることはないだろうね。2001年にTitusをViatechという会社と合併したんだ。当時、市場にHi-Zootというブランドがあって、我々は彼らのアルミニウム製リアトライアングルをすべて製造し、一部の設計を手伝っていた。Hi-Zootのカーボンバーもあったよ。彼らは上場している航空宇宙会社の一部門で、その航空宇宙会社は、これらの消費者向け製品、自転車関連製品、アーチェリー弓などが利益を上げていないと判断し、手放したいと考えていた。そこで投資グループが結成されたんだ。Titusはその取引の一部となり、私はこれらの複合材技術を獲得するためにTitusをViatechと合併させた。

2005 Titus / Exogrid
https://www.spokewrench.com/photos/interbike_2005_tz/titus_exogrid.html

この技術(Exogrid)を使えるようにするのが合併の目的だったのですか?

ええ、他の投資家も参入してきていたし、タイタスにとっても、この会社と複合技術に可能性があると感じていた。つまり、合併時にはエクソグリッドはまだ発明されていなかった。Viatechの一部ではなかった。そのとき既存だったのは、アイソグリッドという内側に補強リブのある薄肉のカーボンチューブだ。チューブをかなり薄くしても、チューブのたわみをある程度コントロールすることができる。しかしマウンテンバイクにおいては、薄肉カーボンでは耐衝撃性能が不足してうまく活かせない。ロードバイクではうまくいったけどね。

特にここフェニックスではね。

そう、ロードバイクやトライバイクではうまく機能したんだ。しかし、マウンテンバイクの技術としては、決して良いものではなかった。実は、IsoGridカーボン・チューブにチタン製ラグを一体成形する際、問題が発生した。もともとは社内生産していたのだけど、それを社外に移管し、のちに設備ごと買い取った。社外で生産していたとき、キャラウェイ・ゴルフと一緒に仕事をしていて、その工場というのがメキシコにあったんだ。問題というのは、バイクに乗っていると突然パキッといって、カーボン・チューブがチタン・チューブから外れるんだ。

やば。だれかKrazy glueを持ってきて!

ああ、でもいつ何が起こるかわからない。彼らの製造工程に大きな問題があったというのが分かった。エッチング材を使ってチタンチューブをコーティングするはずが、作業者は離型剤の缶を持っていたんだ。

うわあ。Simple fixでもいいから持ってきて!

だね。しかし、このようなことが現実の世界で顧客に起こるのが怖かったから、チタンとカーボンの間に機械的な締結を仕込みたかった。まずIsoGridをロードバイクに使おうとしていたので、コルナゴのような伝統的なラグに近い見た目にしようと思いついた。ここを切って中に凸凹をつけようと。それから、ダイヤモンド形状のアイデアも思いついた。そうすれば、カーボンチューブを成型するときに、化学的な結合だけでなく、ねじれたり抜けたりしないような機械的なロックもできる。ダイアモンド形状を上面と下面両方に施して、うまく機能した。これはかなりイケるんじゃないかと思ったんだ。

2005 Titus / Isogrid
https://www.spokewrench.com/photos/interbike_2005_tz/titus_isogrid.html

例えば、衝撃に対する強度が必要だとしたらどうだろう。チタンをすべて取り除いても、まだ十分な強度がある。岩がぶつかっても大丈夫だし、チタンの強度も維持できる。しかし同時に、マウンテンバイクにはかなり大きなチタンチューブを使い始めた。しかし、しなりを小さくするためにダウンチューブが1 3/4インチ〜2インチ(訳者注:約4.5cm~5.0cm)とあまりにも巨大になってしまったため、スチールフレームのような重量に近づいていった。それからレーザーカッターでダイアモンド柄にチタンを切り抜き、航空機部品のバリ取りをしてる工場に送る。そこには小さい歯科用の研磨機を持った人がたくさん並んでひたすらチタンチューブの中のバリを取ってるわけ。それから自分たちの工場でカーボン成形を行う。チタンの中にカーボンをね。穴の外まで樹脂がはみ出ると汚い。だからタイタスのロゴとダイヤモンドの形にカーボンをプレカットして、たしか10層くらい重ねて、(成形前に)あらかじめ穴に入れておく。そうすると見た目が綺麗に仕上がる。成形後、型から出てきたチューブはまっすぐじゃなかった。だからって旋盤にかけてきれいにすることはできない。だから、すべてセンターレス研削が必要だった。ものすごく手間がかかってるよ。当時、完成したダウンチューブは後加工を施す前の段階で500ドルとかのコストがかかっていたと思う。

2005 Titus / Motolite Exogrid
https://www.spokewrench.com/photos/interbike_2005_tz/titus_motolite.html

フレームは当時の価格でいくらでしたか?

当時としては高価だったけど、何とも言えないな。利益はそこそこだったかな。でも、エキゾグリッドのダウンチューブに全力を注いだおかげで、普通のチタンフレームの方の利益率が高かったのは間違いない。ロードバイクをやっていた頃は、最終的にはシートステーまで作ることになった。トップチューブ、シートチューブ、ダウンチューブ、シートステーがすべてエクソグリッドだったんだ。だから、たくさんの作業が必要だった。バイクは美しかった。特にサスペンション・バイクでは、ダウンチューブに鉛直方向の弾性を持ちつつ、非常に高いねじれ剛性を得ることができた。だからボトムブラケットの剛性は、アルミバイクよりもずっと高くすることができた。何よりも、フルカーボンモノコック成形で何ができるか、ということの先駆けだった。

そうですね。少し早送りして、おそらく楽しくなかったであろう時代に戻りましょう。2006年、何があったんですか?あなたがタイタスを追われたとネットで読みました。本当ですか?

その表現は正確ではない。実際、私には5年後にバイアウトするオプションがあったんだ。もしViatechとの合併がうまくいかなかった場合、誰かがオファーを提示し、さらにそのオファーに対抗することもできた。ViatechのCEOを除く投資グループ全体がViatechから抜けたがっていた。様々な理由から良い取引ではなかったけど、特にそのオファーが気に入らなかった。彼は自分たちが過小評価されていると感じていた。彼は過大評価気味の代替案を提示した。それでも私は、タイタスを前進させ、継続させるための雇用契約を提示されたが、彼らが私の会社から資金を引き揚げるやり方を見ると、長期的に生き残るために必要なことができないだろうと思った。だから、私は買収されるオプションを取ったんだ。そして、肩の荷を下ろし怒り心頭で自分が始めた会社を辞め、すぐに火に油を注ぐように仕事を始めたんだ。2006年6月末に退職し、2007年9月のインターバイクでPivotを立ち上げた。


PIVOT創業 ー再起、リーマンショックー

そうですね。タイタスを辞めたら、そうするつもりだったんですか?クリスのためにはいつも別の自転車会社が用意されている、みたいな?

そのつもりはなかった... 落ち込んでたのは3週間くらいだったかな。

なるほど、そのあたりを詳しく聞きたいです。

うーん、また(自転車作りを)やりたいかどうか分からなかったんだ。そうだね。スカイ・ジョシュ、ジョシュの名字は忘れたけど、彼はMRPの創業者だった。彼はMRPを売却した後、ファストウェイというオートバイ部品の会社を立ち上げたんだ。私は当時、ダートバイクのレースをかなり激しくやっていて、それに夢中になっていた。ジョシュがどうやって僕に接触したのかはわからないけど、彼は当時、オートバイにかなり飽きてきていたんだ。それで彼はファストウェイを売りたがっていた。だからまず最初に手をつけたのがファストウェイを調べて、そのビジネスプランを手に入れることだった。オートバイ業界にいた友人が、僕にファストウェイに関わらないよう説得してくれたんだ。それから、僕は健康的な食生活を送らないことでも知られている。僕はファストフードが大好きなんだ。当時のIn-N-Out Burgerが、今もそうだけど、家族経営の会社で、フランチャイズ展開をしていないことを知らずに、妻と私は、イン-ナウト・バーガーのフランチャイズに加盟しようとしたんだ(笑)

https://www.eatthis.com/secrets-in-n-out-burger/

(笑)そうならなくてよかったよ。

この間3週間だった。パートナーの一人である投資家は、現在も私の主要なパートナーだが、私がやりたいことなら何でも喜んでサポートしてくれた。ファストフード店を渡り歩く以外のことはね。

混乱のときでしたね。

混乱していた。ウィスコンシン州にもカルバーズというチェーン店があるんだ。僕はカルヴァーズの大ファンなんだ。

え!僕は今年の初めにウィスコンシンにいたんだ。それまでカルバーズには行ったことがなかった。ガールフレンドのサラがチーズバーガーを食べに連れて行ってくれたんだ。なんてこった。カルヴァーズのファンになったよ。

そこがフランチャイズ展開をしていて、テキサスに何店舗かオープンし始めているのを見たんだ。だから、そこも検討したんだ。ビジネスパートナーのティムはイリノイとウィスコンシンの出身なんだ。彼はウィスコンシンに店を構えている。彼は、お前はいったい何を考えているんだ?と。一方僕は、家の近くにある映画館の前にあるこのビルが本当に必要だと思うんだ、最高だ、これがあれば本当にうまくいくよ、と(笑)

でも彼に説得されたんでしょう?

ちょっとね。彼は、ちょっと深呼吸でもしたら、て感じで言ってくれて。数週間後、僕は自転車に戻っていった。というか、自転車が離れなかったんだ。ただ自転車に乗っていただけなんだけど。仕事がなかったから、カリフォルニアで一緒に働いていた機械工場が、熱処理を手伝ってくれたり、パーツを作ってくれたりしたんだけど、その会社が僕に仕事のオファーをくれたんだ。フォーク・アダプターのようなフォーク・アップを所有してて、

https://hurricanecomponents.com

ルーフラックにつけるやつだね、カラフルな色に塗装してある。

そう。私は1年間、この仕事を引き継ぎ、新しいフォークアップをデザインして…

それじゃ物足りなかったんじゃない?クリス。

いやいや、実際かなり成功したし。でも妻のシンディに言ったんだ。 僕は、フォークアップの男やバイクラックの男として知られたくないんだ、って。

ああ。

というのも、実はヤキマにライセンス供与して販売量を増やしたんだ。歩合制だったから。で、機械工場からこの製品を持ち出して、数社の代理店に持ってって、こちらがその特許です、とかやってるとかなりの額になった。それを元手に何ができるか考えてみた。そして偶然にも、ケヴィンと私、そしてタイタスで私と一緒に働いていたこの会社のヘッド・エンジニアが、ヤキマのラックの設計に携わることになったんだ。それでクールなラックのデザインができた。その後、Pivotの立ち上げや新しいバイクのデザインなどに取り組んでいるうちに、そのことは脇に置かれるようになったんだ。

それを見て、お尻に火がついた?そうなのか?

いや、ただ、メーカーを決めて、プロトタイプを作り、すべてが順調に進み始めたんだ。フォークアップは簡単だったけど、ラックの設計やヤキマとのやり取り、製造、調達、その他もろもろがちょっと大変すぎたんだ。それで、彼らとのプロジェクトのフォローアップをやめて、本腰を据えた。

2007年に自転車会社を立ち上げるのはどんな感じ?何が必要でした?

1990年に始めるのとは大違いだった。若くて頭が悪いうちは、やるべきことをひたすらやるだけだからね。私たちは自転車会社として成功し、従業員数は25人だったかな。タイタスでは利益を上げていた。Pivotを始めるにあたって、私は苦労を知っていた。つまり、タイタスの最初の数年間は、個人のクレジットカードで賄っていたんだ。最初の数年だけではなく、Viatechと合併するまでのほとんどすべての期間は個人融資だった。必要な資金を調達することもなく、すべてがステップ・バイ・ステップだった。余裕がなくて、雇いたい人を雇えないこともあった。会社の規模のせいで、望んでいたような福利厚生ができなかった。だから、ゼロから新しいスタートを切るんだ。もしこれを成功させるつもりなら、何をする?どうやってやる?Pivotの立ち上げに伴う全体のビジネスプランには、新しいバイクを2〜3台設計し、資金を調達して、立ち上げを成功させるためにあらゆることを行う、ということよりはるかに高い水準を要求された。そして、結果的には非常に良いタイミングだったと言えるだろう。資金調達はすべて整っていたし、資金集めも、これからやろうとしていたことも、すべて2006年のことだった。2007年9月にInterbikesで会社を立ち上げ、その2、3週間後にすべての銀行が破綻し、世界的な住宅危機(訳者注:リーマンショック)が起こったんだ。

ストレスフルでしたね。

そうでもあり、そうでもないんだ。というのも、すでに資金は確保していたし、競合他社は本当に後退していて、一部はかなり厳しい財政状況に陥っていたんだよね。僕たちはゼロからのスタートだったから、上に行くしかなくて、目標は全部達成できたんだ。ただ一つ難しかったのは、当時の主要パートナーがスペインのBHバイクスだったことだよね。それで、BH USAを立ち上げて、Pivot Cyclesも始めたんだ。BH USAは、ここから彼らの高級ロードバイクの開発を全部引き受けていて、その製品を販売する会社でもあったんだ。だから、営業チームはPivotとBHの両方を担当していたん。でも、ロードバイク市場はポスト・ランスで、実際はまだランスは現役だけど、それでも厳しい市場で、その後さらに厳しくなっていったんだ。住宅市場の崩壊とその後の数年を考えると、そのブランドを成長させるのは本当に大変だったよ。でも、Pivotについて言えば、最初からPivotを欲しがる全ての人がPivotを手に入れられたわけじゃなかった。

いいことですね、需要はあった。

だから、計画通りの数のバイクを作れて、予定通りの数のバイクを売って、会社を成長させて利益を出すという目標も達成できたんだよ。

革新的なコンセプトだね。

そしてもちろん、COVIDの時にそれが全部台無しになったんだ。


DWリンクとの出会い ーウィーグルとのあれこれー

うん、それについてはまた後ほど。さて、Titusの話をしたとき、ホルストのことを話したけど、彼は本当に重要だったね。Pivotにとってもかなり重要な人がいますね。名前はデイブ・ウィーグル。彼との関係はどうやって始まったの?

最初にサスペンションデザインをどうするか考えたとき、何を使うかというのが問題だった。長年にわたってたくさんのホルスト・リンクのバイクを作ってきたし、シングルピボットのものもやったし、他の会社向けにバイクも作ったんだ。いくつか夢中になったものはあるけど、その一つがマーベリックだった。覚えてる?マーベリックって。あれはフローティングボトムブラケットのデザインだったんだ。必ずしもうまくいってたとは言えないけど、そのアイデアやコンセプトで何ができるかというのが興味深かったんだ。あの頃はまだフロントディレイラーを使っていたけど、マーベリックは動き方のせいでフロントディレイラーが全然機能しなかったんだ。多くの場合、リアショックもうまく機能しなかった。

2005 Maverick / ML-8
https://www.leelikesbikes.com/maverick-ml-8.html

時にはフォークもうまく動かなかったね。

でも、最高にクールなバイクだったよ。天才的なバイクだけど、完全な形では実現されなかったんだよね。それに、クラインやトレックにもライセンスされて、そのせいでさらに評価が下がっちゃった。同じようなコンセプトとしては、GTのiドライブもあって、初期の頃からずっとファンだったよ。でも、それも本当のポテンシャルを発揮することはなかったんだ。後輪がもっと後ろ向きに動くようにして、何かにぶつかっても急に止まらずに流れるように進んでスピードを保つというアイデアは、ホルストリンクにはない特徴だったんだ。ホルストリンクはリアドロップアウトのところにピボットがあって、ショックが始まるとすぐに前に回転し始める。つまり、バンプに対してホイールを回転させる感じなんだ。

1998 GT / i-Drive System
https://mmbhof.org/jim-busby/

特に、低い位置のピボットを持つホルストリンクはそうでしたね。

そうだね、あの頃はまだピボットを上げたり、ホルストリンクを上に持ってきたりはしてたけど、ドロップアウトの回転を変えるまではしてなかったんだ。東海岸ではホルストリンクの場所が悪くて、木の枝が引っかかるし、ディレイラーも今ほど強くなかったしね。それに、一体型のリアトライアングルがあれば、剛性をコントロールできるし、もっと後輪の動きが自由になるんだ。それで、マーベリックの人たちやiDriveの特許を持つ(ジム・)バズビーとよく話していたんだ。でも、その頃はVPPがすごく人気が出てきていて、デュアルリンクバイクになって、それをインテンスにもライセンスしていたんだ。だから、デュアルリンクのバイクが2つあって、当時ウィーグルはアイアンホースでワールドカップを勝ち続けていた。

2006 Iron Horse / Yakuza Kumicho
https://www.pinkbike.com/news/article2792.html

僕たちも後輪の動きが良くなるデュアルリンクのデザインを見ていて、それがホルストリンクのバイクと同じようなことを達成できるものだったんだ。そこで、ウィーグルの特許に触れてしまうかもしれないと思って彼に電話をかけた。僕たちはマニトウのキャンプで何度も一緒になっていて、長年の知り合いだったから、話し合いを始めたんだ。当時はまだ競業禁止の状況だったから、ちょっと秘密裏に話を進めなきゃならなかったんだけど、「もし僕たちがこういうことをやるとしたら、特許侵害になると感じたら、ライセンスをくれるか、使用料を請求してくれるか?」と聞いたんだ。そしたら彼は「絶対にダメだ、そんなことは許さない」と言った。「DWリンクに似たものが市場に出るのは絶対に許さない」ってね。それで、「実はDWリンクをちゃんと分析したことがないんだ。DWリンクについて話そう」となった。それからいろいろあって、最終的には一緒に働くことになり、今でも一緒に仕事をしている。だから結果的には良かったんだよね。

https://www.pinkbike.com/news/chris-cocalis-pivot-cycles-interview-2015.html

訳者注:ジム・バズビーについてはこちらに詳しいです。


訳者注:ウィーグルさんについてはこちらに詳しいです。



あなたの話に通底しているテーマは、あなたが賢明かつ
有能な人で、このビジネスのいろんな面に関わっているってことだ。でも、もうひとつあなたが得意そうなのは、適切な人と仕事をすることだよね。もし他にもっといい方法があるなら、その人と話をする。つまり、自分でやるよりも、正しい人を連れてきて物事を良くするってこと。それってもしかしたら難しいことかもしれないですね。


そうだね。でも、要するに、人が世界を動かしてるんだし、会社が成長するにつれて、どんな仕事であっても、その仕事に最適な人を見つけることが大事なんだよ。いつも最高のパートナーと一緒に仕事をすることが重要だ。そんなサポートがなかったら、今の私たちはなかったし、常に最高を目指して、ただ『これが私たちのやり方です。これが私たちです。』で終わらせないことが大事なんだ。常にバイクを進化させたいんだ、その時々でね。そして今でも、ウィーグルは本当に頭のいい人で、素晴らしいアイデアをたくさん持ってるんだ。ケビンと僕もサスペンションの設計をしてるんだ。だから、二人より三人の方がいいんだよね。

最近のバイクに話題を移す前に、最後にひとつ古いバイクについて聞きたい。ピボットのロビーの壁にあるMach 4についてなんだけど、すごく興味深い。ハンドメイドの部分があるみたいだし、そのバイクについて少し話してくれたよね。リアエンドがサンタクルーズ製なんだって。どうしてそうなったんですか?

うん、リアエンドじゃなくてチェーンステーだね。実は、ピボットの製造場所を探していたとき、アメリカにある工場でアノダイジング・インクっていう会社があったんだ。親会社の名前はSAPAで、彼らはオリジナルのシュウィンのホームグロウンを全て作っていたんだ。それに、FSRスペシャライズドの初期のバイクも作っていた。アジアでのサスペンションバイクの製造がまだ一般的でなかった時代には、そこが製造の中心だったんだ。彼らは初期のサンタクルーズも全て作っていて、VPPになってからのサンタクルーズも長年作っていた。それで、その工場がデュアルリンクバイクを作っていたことを知っていたんだ。当初の考えは、Pivotのフレームをアメリカとアジアの両方で作ることだったんだけど、結局その計画はうまくいかなかった。SAPAアノダイジング・インクがそのパートナーの一つになる予定だったんだ。そして全てのバイクに合うチェーンステーを必要としていた。他の部分はチュービングを使ってガセットを作ったりして対応できたけど、チェーンステーだけは特別だった。チェーンリングとのクリアランスや、合わせ込みや、テーパードチェーンステーや、それらが盛り込まれた現物のチェーンステーでなくてはならなかった。そして彼らはそのチェーンステーを何箱分も持っていた。だからそのうちいくつか送ってくれたんだ。だから、ありがとう、サンタクルーズ。

2005 Santa Cruz / Nomad
https://www.santacruzbicycles.com/en-EU/product-support/nomad-1

ご助力ありがとう、だね。彼らは当時このことを知ってたのかな?

その時は知らなかったと思う。(SAPAは)すでにサンタクルズのバイクは製造してなかった。ずっと昔の話だから。その機械(訳者注:チェーンステー成形用の機械?)はもう使われてなかったんだ。でも、ある時ジョー・グラニー(訳者注:Santa Cruz 元CEO)にその話をしたと思う。ある時、同じ製造施設を使うかもってなった時に、車で一緒に移動したり、食事を共にしたりしていたからね。だから、そう、その話を彼にずっと昔に話したとは思うよ。


E-バイクの波 ー欧・米の温度差、フィールド整備ー

じゃあ、ずっと時代を進めて、eバイクの話をしましょうか。eバイクの売り上げが他を圧倒しているっていうのを最近よく耳にするし、よく読むし、みんな言ってる。eバイクの売り上げが50%以上とか、会社の売り上げの80%がeバイクだとか、eバイクこそが未来だとか。具体的な数字は教えてくれないかもしれないけど、大まかな割合で言うと、君たちのバイクの売り上げの中で、eバイクが50%くらいを占めてるの?

いやいや、重要ではあるんだけど、うちのラインナップの一部って感じかな。でもトップ3とか4には入らないんだ。正直言うと、トレイルバイク、例えばFirebird、Switchblade、Trail429が売り上げの大半を占めてるんだ。eバイクの売り上げも増えてるけどね。

やはりそうですよね、全く新しいカテゴリなんですから。

だし、価格もかなり高いよね。金額面では、最終的には売上の50%くらいまで占めるようになるかもしれないけど、今のところはまだ遠いね。特にアメリカでは、ラインナップの一角を占めている。ヨーロッパではもっと重要だ。でも実際、そっちではFirebirdやSwitchbladeみたいなバイクがまだうちのラインナップでは主導的な位置を占めてるんだ。他の企業にとっては、また低価格の電動バイクや通勤用電動バイクに主に焦点を当ててるところもあって、うん、それが多くの企業の売り上げの60%、70%、80%を占めてるんだろうね。でもPivotは本当に高級で、コアなマウンテンバイクブランドなんだ。それはエリートで、高いバイクで、電動バイク版だとさらに高価になる。だから僕たちは大衆をターゲットにしてない。誰かが欲しがるなら、電動バイクであろうと他のカテゴリであろうと、特別なものでないとね。Pivotは何十万台も売ってるわけじゃないんだ。そんな大きな会社じゃないから。だからそう、事業の重要な部分ではあるけど、全てを注力してるわけじゃないんだ。

あなたは初期の電動自転車に乗ったことがあるんですよね。確かに、その当時の電動自転車はかなり荒っぽかったと思います。現代の多くの電動自転車は正直言ってトラクターみたいなものですが、昔の電動自転車の一部はかなり粗末だったでしょうね。

ああ、本当にひどかったよ。うん。で、最初の頃から、もしかしたら違う方向からアプローチした方がいいかもって考え始めたんだ。それで、Haibikeを入手したことを覚えてる。初期のHaibike。

2013 Haibike / eQ Xduro RX29
https://ebike-mtb.com/en/e-mountain-bike-test-haibike-eq-xduro-fs-26-rc/

どこのモーターでした?

多分、当時はボッシュだったと思う。

7年前?8年前?

うん。あのさ、初期のBoschのモーターって前のスプロケットが小さくて、電源を切ると、車道を下ることすらできなかったんだよね。さらに当時の電動自転車は、コストを抑えるためにガラクタ自転車にモーターをくっつけたって感じで。モーターにはある程度コストがかかるけど、自転車全体の価格を普通の自転車と同じくらいにしたいからっていう。本当にひどかったよ。でも、電源を入れてそれでペダルをこいだ時に、ちょっと考えちゃうんだよ。「でも、もしもこれが...?」って。俺はダートバイクが好きでダートバイクの進化を見てきたから、これは「もしも」じゃなくて「これをどうやってモノにするか」ってことに思えたんだ。そして、これがどう進化してどれだけクールなものになるかが見えたんだ。

つまり、確かに抵抗している人もいたけど、あなたは違ったんですね。すぐに分かったと。

ためらってはいたけど、抵抗はしてなかった。希望を持っていた。そして、6、7年前にPivot Germanyを立ち上げたんだ。ビジネスを始めて、ディーラーにアプローチし始めた時点で、ヨーロッパではほとんどのブランドに電動バイクがあったんだ。良いものではなかったかもしれないけど「で、あなたたちのラインナップに電動自転車はある? 出す予定は? どういう計画?」って感じだったんだよ。アメリカでは全く逆の状況だったんだ。「電動自転車を扱うなら話もしたくない。君たちは悪魔だ」って感じだったけど、ヨーロッパでは全く逆だったんだ。電動自転車を開発しないなら、なぜそのブランドを店に置く必要はない、と。だから、その商品ラインナップや顧客基盤から強いニーズがあったんだ。2017年の当初の考えではヨーロッパでしか販売しない予定だった。でも、驚いたことに、僕たちは初めてで唯一の高級ブランドだったけど、Rocky Mountainも2017年の同じユーロバイクでPowerplayを発表したんだ。うちの一番の小売業者の一人で、友達でもある人が、ユーロバイクの開始2日前にFacebookに「電動自転車をラインナップに持つブランドを絶対にサポートしないし、取り扱わない」って投稿してたんだ。

今では発言を後悔している人がたくさんいるでしょうね。

僕たちはその店での一番の売上を占めてて、ロッキー・マウンテンは二番目だった。そして両方がユーロバイクでeバイクを展示した。売上の3番目はダヴィンチで、6か月後には2機種のeマウンテンバイクを発表していた。でも、当時ロッキーも含めて僕たち全員が最初はヨーロッパだけに焦点を当てていたと思うけど、その時点でスペシャライズドはアメリカ、特に西海岸でかなり強くプッシュしていて、ディーラーに一定数のeバイクを取り扱うことを要求していたんだ。だから実際に市場が動き始めていた。そのため、僕たちが(ユーロバイクでe-バイクを)展示した瞬間、アメリカのディーラーの中には、すべてではないけど、かなり多くの人々が「なぜそのバイクを手に入れられないのか」と反発した。それで、僕たちはかなり急いで方針転換をする必要があった。面白かったのは、(ヨーロッパで)展示していたバイクは、すごく明るい青とネオンイエローで。「Pivot Europeここにあり!」と主張していた。それは完全にヨーロッパ向け。そして、アメリカ向けもやろうと決めたとき、アメリカ向けには、真っ黒地にうっすい灰色のロゴが入ったやつを作った。ほとんどPivotのロゴが見えないような。そして、それはまるで「わたしたちも例のやつラインナップしてるけど、ブランド名はそんなに近くで見ないでね」といった感じだった。

2017 Pivot / Shuttle eMTB
https://www.pinkbike.com/news/pivots-shuttle-emtb-first-look.html
2018 Pivot / Shuttle eMTB
https://theloamwolf.com/2018/08/22/review-pivot-shuttle/

顧客を遠ざけてしまうことについて、何か心配はありましたか?特に北米では、今でもこの問題はかなり意見が分かれるテーマですからね。当時はどうでしたか?

大きな懸念だったんだ。だからこそ、まずヨーロッパのニーズを満たしたいと思ったんだ。アメリカでは売るつもりはなかった。そして、アメリカでのもう一つの懸念は、アクセスの問題やマウンテンバイクのトレイルが閉鎖されることだった。私たちは解決策の一部になるのか、それとも問題の一部になるのか?当時、最も抵抗したのは公園管理局ではなかった。彼らは本当に何が来るのか毛頭分かってなかったんだ。

知らなかったのですね。

マウンテンバイクの本当にコアな層、つまりショップのコアなライダーたちはみんなして「e-バイクはスポーツを台無しにする。我々には必要ない」と言っていたんだ。だから、私たちは販売するときに、eバイクの3つのクラスが何たるかについて人々に確実に理解してもらいたかった。アリゾナ州でeバイクが法律上容認されるのを援助し、公園管理局と協力した。私たちは、すべてのバイクにタグをつけ、Trail ForksのQRコードをつけて、eバイクが合法な場所を確認できるようにした。私たちは、明日には違法になるかもしれないバイクを大量に売ってしまい、80年代からマウンテンバイクが受け入れられるスポーツになるために行われてきたすべての努力や作業が無駄になることがないように、できる限りのことをしたんだ。突然、カリフォルニアの三輪車やダートバイクのように、暗黒時代に逆戻りするようなことがないようにね。まだやるべきことはたくさんあるけど、私はPeople for BikesのEMTB立法委員会の一員で、皆でこの問題を正しく解決するために努力している。

うん、それを聞けて嬉しいな。でも、もし誰か嫌なヤツ君の前に座っていて、ただ反論するためにね、あなたに対して「マウンテンバイクにはモーターなんてついてない」って言ったらどうする?

ああ、パンチしてやるよ。

カット!カット!! (笑)
誰が何をしようと僕にはどうでもいいよ。でも、そういう意見を持っている人がいるのは確かだからさ。だから、その人たちに対する反論は何かありますか?それとも、反論が必要だと思わないなら、別に反論しなくてもいいけど。

特に反論は必要ないかな。というのも、多くの人々にとって、それはかなり急激に変わったことだからね。そして、もし誰かがそれに乗っても、昔ながらの考えに固執しているなら、それはそれでいいと思う。彼らが試してみたくないなら、それは彼らの特権だし、全く問題ないよ。でも、もし少しでも本物のマウンテンバイクに乗ったら、みんな満面の笑顔で戻ってくるんだ。

https://www.pinkbike.com/photo/24182220/

めちゃくちゃ楽しいんだよね。いつも腹が立つくらいさ。戻ってくるたびに、笑顔なんだけど、「くそ、楽しかったな」って感じなんだよ。

ここにいる僕たちの従業員の一人がいつも言っていたんだ。「全部の楽しみを手に入れたい。コアなマウンテンバイカーでありながら、eバイクにも乗りたい」ってね。中にはグラベルバイクやダウンヒルバイクを売らないショップもあるんだ。そして、初めてそういった説明をしたとき、「この製品をどうすればいいの?お客様にどう話せばいいの?」って言われるだろ。でも僕たちは、「ディーラーからアメリカに持ってきてくれとプレッシャーをかけられていたんだ。彼らは本当にそのバイクを欲しがっていたんだ。でも君が欲しくないならそれでいい。僕たちのラインには14台のバイクがあるんだ。君が本当に気に入っているものがあるなら、それを売ってくれればいい。君がなりたい自分でいてくれればいいんだ。もしお客様が尋ねてくるなら、彼らをしっかりケアしてあげて。僕たちはみんなが楽しくバイクに乗ってもらいたいだけなんだ。それが彼らにとって何を意味するのかは関係ない。僕たちはそのための製品を提供しているんだ。楽しんでくれればそれでいい。」って気持ちなんだよ。初めは本当にコアな人たちが「絶対に無理だ」って言っていたけど、今は変わったんだ。IMBA(国際マウンテンバイキング協会)との協力方法について最初の議論をしたとき、彼らの主要な懸念はトレイルの閉鎖だったし、森林局や公園がeバイクについて質問してきたら困るから関わりたくない。とにかく「eバイクは認めない」というスタンスだった。でも、今ではそうじゃない。みんなで協力しているんだ。トレイルは共用の場であり、すべてのユーザーグループに適切に提供されるようにしているんだ。


コロナ禍の影響 ー在庫、価格、流通ー

そうだね。eバイクの話から少し楽しくない話に切り替えよう。コロナ禍について話さなきゃ。いくつかのビジネスにとっては大変な時期だったからね。オンラインで見つけた君のインタビューの引用があるんだ。読んでみるね。「毎日売上を確認し、フルスタッフを維持できる日数の予測を立てなければなりませんでした。そして、その一ヶ月後には、それまでの2020年の残りの期間よりも多くの注文がありました。企業がリードタイムを200日から900日で対応しているのを目の当たりにしました。状況は急速に変わりました。本当に急速に変わりました。」 コロナの初期の話を始めよう。それは怖かっただろうね。閉鎖したの?

シャットダウンはしなかったよ。僕たちの州、ここアリゾナでは、他の世界中で大きな問題が起きていた。つまり、ニューヨークでは多くの人が亡くなっていて、イタリアは完全にシャットダウンされていた。そして、それがビジネス面で僕たちに直ちに影響を及ぼした。最も影響を受けたのは、シーズンに入る直前に、ディストリビューターやディーラーが大きな注文をキャンセルしたことだ。これは3月のことだった。だから、マウンテンバイクが盛り上がるべき時期に、突然誰も冬の間に買ったものの支払いができなくなったんだ。そして、僕は恐怖に襲われた。ビジネス面では、これまでで一番大変な時期だったよ。これだけの従業員がいるのに、誰も請求書を支払おうとせず、大口の注文がキャンセルされて、でも商品はすべて揃っている。どうするんだ?どれくらいの日数、全員を雇用し続けられるんだ?どれくらいの日数、ビジネスを続けられるんだ?そして、自転車業界の観点から見れば、レストラン業界ではなく、これが1か月も続かなかったことは神に感謝するよ。それは約3週間続いて、それから完全にひっくり返ったんだ。本当に奇妙だった。僕たちは幸運だった、あまり多くのケースがなかったからだ。僕たちはまだ、「なぜインフルエンザのことでこんなに大騒ぎしているのか?」と冗談を言っていたんだ。アリゾナではそういうことはなかったからね。だから、アリゾナの観点からすると、みんなが何をそんなにパニックになっているのか理解するのは難しかったよ。そんな状況でも、当時の購買マネージャーは「(この程度のことで)全部キャンセルしちゃうの?」って言ってきたんだ。みんなが注文キャンセルしているんだから。「いや、少しペースを落とすだけだよ。新しい大きな注文はしないけど、何もキャンセルしない。みんながこういうことについてパニックになって過剰反応する傾向があるからね。これまで通りのペースで行こう。」ってね。でも、時間給の従業員で追加の休暇を取りたい人には無給で休暇を取ってもらって、予算を絞り込もうとしたんだ。最初の週は、必要な日々の目標を達成できていなかった。2週目にその目標を達成し始め、3週目にはその目標を2倍、3倍に達成していた。そして、その週の終わりには「全員戻ってきて。お客様のニーズに応えられていない。」ってなったんだ。でもその頃には、みんなパニックになって「戻りたくない。」って言っていたんだ。

僕はステイホーム好きだけどね。

それに仕事に戻ったら死ぬかもしれないと思ってたしね。管理するのは本当に難しかった。そして、その頃、新しい建物に引っ越した。

新築?

ボロボロのを買ったんだ。改修に18ヶ月かかったよ。

コロナ禍に?

コロナの前だね。コロナが始まる頃に終わりかけてたんだけど、その時期は業者が来れなかったり、2020年に入ると色々な問題があってさ。完成は2月、3月のことだった。建物の完成がたった1か月遅れただけだったんだけど、その1か月はひどかった。家賃や建設ローンを払いながら、みんなが注文をキャンセルして、もうこれ以上悪くなることがあるのかって感じだった。でも、みんなが戻ってきて新しい建物に移り、広々と使えるようになって、なんとかうまくいったけど、毎日どうやって管理するかは本当に恐ろしかった。それから注文を逆転させようとしたら、どれだけのものが手に入るのかって話になってね。だって、リードタイムが60日から一晩で900日になったこともあったんだよ。注文入れたら「はい、それを受け取れるのは80歳になった頃ですね」って感じでさ。

最近よく聞くのは、コロナ禍終盤にも、多くのメーカーが過剰に反応したかもしれないってことなんだ。売上が戻ってきて、人々が外に出たがっていたよね。で、自転車がたくさん売れた。でも今になって、急に在庫過剰だという話を聞くんだけど、それを説明してもらえる?

https://www.pinkbike.com/photo/24182225/

そうだね、確かに特定のカテゴリーではそうなってるよ。これらのメーカーのリードタイムが延びたとき、強気の姿勢が求められた。誰もが『自分の分け前を確保しなきゃ』って感じでね。シマノやスラム、他のサプライヤーが納品するかどうかわからなかったので、追加のサプライヤーを探さなければならなかった。コミットメントが必要になった。そして、全ての会社が通常ならある一定の期間内で調整できるポリシーを変更して、今では調整、変更、キャンセルも6ヶ月以内にはできなくなった。これが、どうなるか予測するのを本当に難しくしたんだ。状況が正常に戻り始めたときでも、みんなはこの6ヶ月のポリシーに縛られていた。不運だったのは、つまり最も売れていたのは、安価なファミリーバイクだったことだ。$500から$1,500以下のバイクが増えていたのは、コロナの自転車ブームの影響が薄れていた時期だった。

高価なバイクが大きく落ち込んだわけではないけれど、自転車ショップは全ての資金をこれらのバイクに投入することになったんだ。結果として、3年分の基本的な子供用バイク、ファミリーバイク、通勤用バイクの在庫を抱えているだろう。でも、以前ほどのスペースや現金がないんだ。だから、この春は興味深いことになりそうだし、ディーラーが回復するのには少し時間がかかるかもしれない。でも、マウンテンバイクではまだまだたくさんのエキサイティングなことが起きているし、高級品の需要もあるんだ。マウンテンバイクに興味を持った人たちが、それがただの一時的なブームではなかったことを示している。今では新たにハードコアなマウンテンバイカーになった人たちが15〜20%増えているんだ。そして、次のバイクとしてPivotを選ぶだろうね。

自転車の価格、それは議論の多いテーマだね。確かに値上がりしているように見える。

だね。

それはコロナが原因なのかな?そして、価格が元に戻る時が来ると思う?それとも、もう元に戻せないのかな?

覆水盆に返らず、といったところだろうか。為替レートがまだ不安定で、それが物価に大きな影響を与えている。原材料のコストも以前より高くなっているんだ。全ての原材料が今はもっと高いから、そこは元に戻らないと思う。輸送コストが少し下がることで一部のものの値下がりはあるかもしれないけど、インフレが起きたからね。今、車は4年前と比べて30%も高くなっている。同じものでもね。

その高価格の時代に、クリック&コレクトや直接販売モデルを取り入れて、価格を少しでも下げることを考えたことはありますか?

いや、価格のために、という意味では考えたことはないね。私たちの場合、米国全土に強力なディーラーネットワークがある。彼らは私たちの販売力であり、専門家でもあり、顧客に必要なサービスと専門知識を提供できるように、トレーニングと時間をかけている。彼らは供給チェーンの重要な一部なんだ。だから、顧客が自分の欲しい方法で自転車を購入できるようにしたい。もし自転車店に入店して店員と話をしたくなくて、オンラインで完全に購入手続きをしたい場合があるかもしれない。それなら将来的にそのようなサービスを提供するけど、それでもすべては小売業者をサポートするためにあります。例えば、自転車店経由のクリック&コレクトで自宅へ配送するのではなく、自分で電動自転車を組み立てる形でね(※)。


※訳者注:ここは、クリックアンドコレクトで小売店に負担がかかるのは避けたいという意味で話していると思います。

クリックアンドコレクトとは、ECサイトで商品を購入し、リアル店舗や宅配ボックス、ドライブスルーなどの自宅以外の場所で商品を受け取るようにするショッピングスタイルおよびその仕組みのことをいいます。

https://www.daiwabutsuryu.co.jp/useful/words/click-and-collect

それは大変そうですね。

そう、その通りだ。オンラインで購入した自転車を自転車店に持ち込んで、さまざまな問題が発生することがある。自転車はますますハイテクになってきてて、今後1〜2年で登場するいくつかの新しい技術については一部知っているかもしれないけど、未来の技術についてはまだ見通せない。だけど、自転車は複雑で、良い小売業者のサポートが本当に必要なんだ。また、自転車店はカルチャーの一部だと感じている。一緒に過ごす人々や、最高な場所に行くとかそういうことの。自転車を楽しむ理由となるのは、単にオンラインで買ってサイロで漕ぐことだけではなくて、自転車店が一味であり、仲間であること。それがすべてだと。だから、私たちはそれを維持することが重要だと考えてるんだ。

もう一つ、コロナに関連した質問を。コロナ禍を通して多くの人に知られたのが、このような異常事態時にはサプライチェーンの問題が浮き彫りになるということですよね。Pivotとしてはどの様に対策していますか?

コロナ以前にもこういうことはあったんだ、関税やEUでの優遇国ステータスに関する法律の改正とか。背景にいつもこういうことはあって、ある国での製造が他の国より複雑になる可能性が常にある。だから、私たちは1か所に依存しないよう最善を尽くしてきたんだ。いろいろな状況で困難が伴うけど、1つの工場だけでなく、複数の場所でいくつかの異なる工場と協力しているんだよね。コロナの間、それはすごく役立ったんだ。なぜなら、ある場所ではフレームを供給できないことがあっても、同じプロセスを採用して2つの工場でスイッチブレードを作っていたからなんだよ。だから、1つの工場が隔離や感染拡大で閉鎖されても、もう1つの工場がフレームを供給し続けてくれたんだ。そのおかげでうまく管理できたんだよね。また、多くの企業も同じように、製造方法を分散させることを検討していると思うんだ。それが未来の方向性だし、より多くのことをローカルで行おうとしている。でも、私たちはすでにフルバイクの組立業者なんだ。ご覧の通り、私たちはすべてのバイクをアメリカで組み立てている。同じことをドイツでもやっているしね。それに、台湾にもオフィスと施設があるから、多くの大手企業にはない柔軟性を持っているんだ。

ということは、フレームはそこで作られて、ここに送られるんだね。ドイツでも、全てのバイクはPivotの社員が組み立ててから世界中に発送していると。他の会社も同じことをしているところもあると思うけど、ほとんどの会社はアジアでバイクを組み立ててそこから出荷しているんですよね?

そうだね。組立工場は、バイク会社やブランドから部品表や全ての情報を受け取って、シートポストやフォーク、フレームを購入するんだ。それを全部箱に入れて組み立ててから発送するんだよ。でも、コロナの時にはそれが大きな問題になったんだ。大きな組立工場では、900日待ちのリードタイムがある会社もあって、全ての部品が揃うのを待ってからバイクを組み立てたかったんだ。でもPivotの場合、サドルのメーカーが十分なサドルを提供できなくても、他のサドルメーカーからサドルを入手できたら、たとえ50個や100個しか手に入らなくても、それだけのバイクを出荷できるんだ。簡単にそれを切り替えることができるんだよね。ブレーキのセットを変更するのも簡単なんだ。でも、大規模な組立工場ではどうなんだろう?自動車の生産ラインほど大変ではないかもしれないけど、そう簡単に部品を代替することはできないんだよ。

Pivotほどフレキシブルではないと。

(普通は)めちゃくちゃ融通が利かないんだよね。それが、必要な調整をする能力を持つことで、みんながバイクを手に入れる助けになったんだ。例えば、Shimanoのドライブトレインパーツは全部揃っていたけど、Shimanoのブレーキはなかったことがあった。でも、Hayesのブレーキはあったから、それを使うことができたんだ。ディーラーもその対応を喜んで受け入れてくれたよ。SRAMでも同じことがあったんだ。ドライブトレイン、ブレーキ、他のパーツもね。ゴルファーからローターを買っていたんだ。どの会社もローターを提供できなかったけど、ゴルファーのローターは素晴らしいから、これからもずっと使うつもりだよ。

質問なんだけど、そうやって部品を代替する場合、ゴルファーのローターはSRAMやHayesのローターよりも
ずっと高いよね。だから、当然バイクの価格も上がりますか?それとも、そのコストを吸収している?


私たちはかなりの部分を吸収していたんだ。なぜなら、代替する部品はすでに決まっていたからね。為替レートや運送料に関連する調整は避けられなかったけど、運送料はただ上がっていくばかりで大変だったんだ。それに、ShimanoやSRAM、Foxが価格を上げた場合、その値上げを吸収することはできなかったんだよ。でも、短期間で代替する必要がある場合や、ゴルファーのように一定のボリュームを提供できる会社と協力する場合には、競争力を持たせることができたんだ。


HAND MADE IN USA ーアルミラグプロトの話ー

このポッドキャストを締めくくる前に、少しの間自転車オタクになってもいい?

もちろん、なろう。

ちょっとビジネスの話が多すぎたよね。昨日見せてもらったものが本当に素晴らしくて。まだ話せない部分もあるけど、一般的な話ならできますね。あなたのプロトタイピング施設について。ラグやアルミフレームのコンポーネントを加工しているんですよね。

はい。

https://www.pinkbike.com/photo/24214793/

カーボンチューブの型を加工しているんですよね。シリコンマンドレルも製造している。そして、ここで炭素チューブと金属ラグを使って自分たちのバイクを作っている。

ああ。

https://www.pinkbike.com/photo/24182235/

そしてそれらは、もう千回くらい言ったけど、本当に美しい。これを見たとき鳥肌が立った。素晴らしい。僕は多くのマウンテンバイクを見てきた。けど、最後に本当に心がときめいたマウンテンバイクはACTOFIVEとか、何か本当に斬新なもの。そして、ここに入ってきて裏手にあるあのバイクを見たときも、思わず「ヤバっ」と声に出してしまった。それほど素晴らしい見た目だ。でも、なぜこれをやっているの?


訳者注:
ACTOFIVEは2018年創業のドイツのMTBメーカー。


より身近でものづくりをして、より早く生産したいと思って始めたんだ。予定では最初のプロトタイプからモノコックで生産できるようにするつもりだったんだ。アジアでやってるみたいに。その方法で、チューニングや積層(の調整)などを行いながら、動作解析やヘッドアングルなども調整できると。そのプロセスはクールではあるけど、型の内部のツールを全て作ったりなんかしてたら、最初のプロトタイプに到達するまでに数ヶ月もの時間がかかってしまった。

もう一つの目標は、アルミニウムで行っていたプロトタイプのサイクルを短縮すること。そして、今やっている方法はいい感じのあいのこだね。Atherton Bikesがチタンラグとカーボンチューブでクールなものを持っているのは明白だよね。私にはIsoGridやExogridの技術でカーボンチューブを作れるというバックグラウンドがある。私たちは、シートチューブ、トップチューブ、ダウンチューブ、シートステー、チェーンステーなどの主要な部分の積層を製品レベルにまで引き上げ、同等の剛性や乗り心地を実現できると感じたんだ。また、ラグで作ることで、ジオメトリを変更できる。プロトタイプを素早く入れ替えられる。カーボンチューブやアルミニウム部品の加工を行い、それらを同時に完成させることができる。現在、このプロセスを確立し、図面のリリースから3〜4週間で、インハウスで製造したアルミニウムラグのカーボンプロトタイプに乗ることができているんだ。また、それらをどれだけ軽量化できるか、どこまでやれるかに継続的に取り組んでいる。そして、これはめちゃやばい。超クールなことだ。

https://www.pinkbike.com/photo/24182250/

見た目も本当にやばいよ。これからもずっと言い続けるからね。あそこにはすごい機械がいくつもある。そのうちの一つは、カーボンファイバーを切断する機械のようですね?

ああ、カーボンファイバーのプロッターまたはカッティングテーブルがあるよ。これは基本的にプリンターやビニールグラフィックスを切る機械と同じ仕組みだね。ただし、技術レベルがはるかに高い。カッターヘッドがあり、プログラムを設定すると、全てのパターンや部品を切り出してくれる。

https://www.pinkbike.com/photo/24182254/

彼らはカーボンを積層している。プロセス全体が本当に洗練されてるね。ただ、量産向きではないようにも思える。プロトタイプやテスト用のもの向けってことでしょうか?

https://www.pinkbike.com/photo/24182238/

将来的には、本当に精鋭向けの、少量生産のものを提供できるレベルには増産できる可能性があるね。我々はそのために製造プロセスを発展させ続けているんだ。ただし、現時点では(カーボン積層担当の)チェイスがダウンチューブの積層に3時間かかったと言っていたように、それほど…

アジアだと、めっちゃ有能なアジア人の女性がいて、同じ時間で8個のダウンチューブを完成させるんだろうね。どちらにしても、今のところそれほど大量生産はできないということですね。

しかし、効率上げて時間を短縮しつづける。将来の展望については、今後の進展を待ちたいところだね。

この話題についてはここまでにしておくよ。


他社のバイク ー買うとしたらどれ?ー

バイクテストについて。あなたは他社のバイクにもよく乗っているんでしょうね。

そう努めている。

他のブランドのバイクを評価して、気に入った点や気に入らなかった点を見極めるのは重要だね。このポッドキャストを難しい質問で締めくくりたい。これは一部の人やブランドにとって難しい質問みたいなんだ。クリス、Pivotのバイク以外で数台のバイクを購入するために予算があります。何が頭に浮かびますか?何が欲しいですか?何が好きですか?

私は、作り手の芸術性が反映され個性的でありながら、クールで独特なものが好きだな。同時にシンプルなものも魅力的に感じます。そして、周知の通りDWリンクが好きなので、アイビスの仲間たちが射程に入るかな。でも、もし今日すぐに何かを買わなければならないとすれば、手に入れられる可能性があるとすれば、ドイツのラストというブランドにするかな。

ああ!はい。

すごく軽量で、本当に手作業で作られている。1年に10台くらいしか作っていないかも。でもとても美しい自転車なんだ。実際に1台見る機会があったんだ。あるブランドのプロダクトマネージャーと一緒に、ドイツの丘を上り下りしてみた。サスペンションデザインはベーシックで、ホースリンクやフレックスステイ、現在ではどうなっているかまでは覚えてはないけど、手作りで世界にほんの数台しかないという点も含めて素晴らしいつくりだったよ。かっこよかったな。

よくそのラストのフレームにインテンドのサスペンションの組み合わせを見るけど、自転車オタクの僕はただニヤニヤしちゃうよ。欲しい!って。

だね。内心では、ShimanoやSRAM、Foxなどは本当に精密な仕事をしてて、隙がない。でも、心の中の自転車オタクは、「このバイクを入手困難な、一番クレイジーな小規模生産のパーツで組み立てることができたらなあ」と思ってる。以前はよくそうやってたけど、最近はそうでもないんだ。どちらかというと基本に忠実にやってる。こだわるのも楽しいけど、金がかかる。そして、今までたくさん見てきた通り、必ずしもうまくいくわけではない。何年も変なクソパーツをテストしてきた経験があるから、理論上や写真では素晴らしく見えても、実際には良い製品は見劣りすることがあったりするね。

まさに。さて、ここらへんで締めくくろう、クリス。もう2時間になる。さぞかし…

6時間番組になるっていってなかったっけ?

ああ、高い目標を掲げてたけど届かなかったよ。まだ話せたけどね。

そうだね。

会計の仕事があるよね。溶接とかマシニングとかもするのかな。僕には分からないけど。

やることがたくさんだ。

だね。

君にもやることがあるだろうから。

その通り。では、ここで失礼します。皆さん、ありがとうございました。質問があればコメント欄にお書きください。このポッドキャストがお楽しみいただけたら幸いです。次のエピソードでお会いしましょう。クリスさん、ありがとうございました。とても楽しい時間でした。

来てくれてありがとう。

みなさん引き続き、目をかっ開いてご注目を。たくさんの新しいものが出てきますから。

ちがいない。

2023 Pivot / prototype DH bike
https://www.pinkbike.com/photo/24973650/