長宗我部信親(ちょうそかべ のぶちか)のお墓
大分県戸次の地にて長宗我部信親のお墓があります。戦国時代、長宗我部といえば四国の武将です。なんでこの地に?と思い立ち寄りました。
長宗我部信親は1565年(永禄8年)、土佐の長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)の嫡男として誕生。幼少時から聡明であったため父から寵愛され、時期当主として期待が厚かった。元服後は父に従って転戦、四国統一のために尽力した。
1585年(天正13年)豊臣秀吉の四国攻めに長宗我部元親は降伏。土佐一国の大名となる。
1586年(天正14年)大阪にて豊臣秀吉、大友宗麟と面会により、島津侵攻の援軍を出すことを決定。黒田官兵衛に毛利軍と共に先発させ、さらに讃岐の仙石秀久、長宗我部氏、十河氏に豊後の救援を命じた。
同年12月 島津家久 豊後侵攻
鶴ヶ城を攻撃され、仙石秀久ら援軍は戸次川に陣をしき、対応にあたった。豊臣秀吉はこの時、「主力が来るまでは防戦」と告げていたが仙石秀久、十河氏らが主戦を主張。合戦となった。(戸次川合戦)
合戦の結果は島津軍の大勝利となり、仙石秀久、長宗我部元親、大友義統は敗走。長宗我部信親と十河存保らは討ち死にとなった。
というわけでこの地に長宗我部信親のお墓があります。
実際にはここにお骨はないのですが終焉地としての供養墓ですね。戦後、元親は信親の戦死を悲しみ、使者として島津の陣に遣わし、信親の遺骸を乞い受けて、高野山の奥の院に納めたが、のちに分骨して高知市長浜の天甫寺に埋葬したそうなので。
十河氏らの墓もあり、当時の合戦の結果が語られている様な不思議な気分になります。
島津家久、豊後侵攻は大友氏を一時的に滅ぼしたと言っても過言はないでしょう。大友氏の町は廃墟となり、豊臣秀吉が到着するまで島津軍の侵略で多くの財宝がなくなりました。
援軍に来た四国勢も元は敵同士。意思の統一も無く守るより攻めた方がいいと仙石秀久は思ったのかもしれませんがこの失策で彼はすべてを失います。
長宗我部元親はこの敗戦で嫡男、重臣を失い、やる気をなくし、没落していきます。そういう意味では「戸次川合戦」のこの地に敗者を偲んで長宗我部信親のお墓があるのも納得です。
いがいと見落としがちな場所にあるので行くときは注意してください。
長宗我部信親のお墓でした。
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