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最後の忠臣 吉弘 統幸(よしひろ むねゆき)

生誕 1563年。死没 1600年10月19日。
大友氏の家臣。父は吉弘鎮信。
屋山城城主。弟に田北統員(田北鎮周の婿養子)。
子に吉弘政宣、吉弘正久。
豊後高田市を所領とした吉弘一族で、立花宗茂のいとこにあたる方です。
朝鮮役で明将・李如松の軍旗を奪った功により豊臣秀吉から「無双の槍使い」と賞讃されて一対の朱柄の槍を許されていた豪傑です。

1578年 耳川の戦いで、父・吉弘鎮信が敗死し、家督を継いだ。
この時16歳。吉弘一族は文武に優れた武将が多く。信長の野望でも能力が高めです。個人的には立花宗茂クラスの能力だといいたいのですが・・・。
衰退する大友家の勢力挽回を目指し忠誠を尽くす。父の鎮信同様、平時は筧城により、詰城として、屋山城を保持していた。

1580年 田原親貫の乱においては、鞍懸城の攻略等で活躍。

1586年 戸次川の戦いに破れ、島津軍の追撃を受ける主君・大友義統(おおともよしむね)や長宗我部軍、仙石軍らを救援するため、たった300の手勢で殿役に抜擢。300を三隊に分け、一陣:鉄砲、二陣:弓、三陣:長槍の三段構えを取り、島津軍の渡河を中断させたといいます。残念ながら長宗我部軍では嫡男の信親が奮戦の末に討ち死にしてしまいましたが、大友義統は無事引き上げさせることができました。また、これによって島津軍の府内侵攻を一日遅らせることに成功しています。島津軍の追撃を受ける大友義統を救援し、高崎山城、豊前へと逃す。このとき統幸23歳。すごいですね。なんでこのクラスの武将が先陣切らないのか?不思議です。

1592年 文禄の役に参陣。
翌年に大友氏が改易。
一時、豊前国中津の黒田如水に招かれ、黒田家の重臣・井上之房の家に預けられる。この時に井上之房と親交ができたようです。
その後に従兄弟である柳川城主・立花宗茂の下へ身を寄せ、これに2,000石で仕え、慶長の役においては立花軍の4番隊を任された。

1600年 関ヶ原の戦い。豊後では石垣原の戦いとなります。

関ヶ原の戦いが起こると、立花家は西軍につくことを表明。
統幸は大友家当主・大友義乗が徳川家に仕えている為、大友家の旧恩に報いようと宗茂に断って立花家を出て、義乗の元へ向う。
その道中に大友家の再興を狙う前当主・大友義統に出会う。
義統が武力蜂起で豊後を奪うと聞いて絶句。
「あんた。そんな覇気あった?そのカス武力で?」
その一言がいえない。
統幸は義乗のこともあり義統に東軍加担を進言するが、義統は聞き入れず西軍に加担するという。仕方ないので義統に従軍することを決める。この時38歳。戦国武将として負けっぱなしの義統にかけたというより。立花宗茂と4歳年上で自分の境遇が許せなかったのかもしれません。宗茂は大名ですし大友家存命なら立場は逆だったかもしれないのですから。おそらく死に場所を決めた決断でしょう。
そして、豊後国奪還を図って義統が豊後に攻め込んだ際、細川家の松井康之が守る杵築城を攻め、二の丸まで落とすも黒田軍の援軍が近づいてきたため攻略を断念。大友義統の兵力がせいぜい二千から三千。島津の名将が落とせなかった杵築城。義統じゃ無理でしょう。
黒田如水の軍勢と豊後・石垣原で激突した(石垣原の戦い)。
黒田軍は、主力が関ヶ原に行っており、浪人がメインの部隊でした。統率も何もない浪人部隊。それでも一万近い兵力。大友軍も義統はぼんくらですが大友再興を願う武将、田原紹忍や志賀親次らも集まり、勢いがあります。
統幸は、得意の槍を振るって奮戦し、緒戦でこそ母里友信の率いる隊を破り、小田九朗左衛門等30~40人を自ら討ち取ったとされるほどの獅子奮迅の活躍をし、一時は数の上でこそ大友勢を上回っていた黒田勢を相手に優位に戦を進めた。
しかし大友軍は、黒田如水の本軍がいつ到着するかわからないという戦況であった為、全体の士気が振るわず、次第に大友勢が劣勢となっていった。
この辺は戦上手の官兵衛ですよね。しかも細川軍の援軍も連れてきて大友軍は改めて戦ベタの義統にかけたことを後悔するのです。
そんな中、吉弘統幸は大友義統に別れを告げ、残りの手勢30余騎で黒田勢に突撃、七つ石において旧知の黒田家臣・井上之房に功を挙げるため、自刃して討たれたといわれています。この辺が戦国武将ですね。粋な死に方です。
かつて養ってくれた井上之房の軍に手柄をあげて自刃。戦国武将あるある美談ですが秀吉の治世になってこのような武将が残っているのが珍しいのではないでしょうか?おそらく大友家最後の忠臣でしょう。
統幸の討死によって大友勢は事実上壊滅し、大友義統は母里友信を通じて、黒田如水に降伏した。
統幸は死後、熊本藩士となった子孫によって、大分県別府市にある吉弘神社へと祀られた。
吉弘統幸は忠義、武力どれも立花宗茂や志賀親次にも劣らないものを持っていたように思われます。
義統に会わずに義乗の軍に行ってたらなあ。
豊後高田に所領復帰ぐらいできたかもなあ。
吉弘統幸の辞世の句
明日は誰が草の屍や照らすらん 石垣原の今日の月影

最後の忠臣 吉弘 統幸でした。



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