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豊後大友家臣団の戦国ネタ

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#宗麟

要地(かなめち) 日田氏

要地(かなめち) 日田氏

日田氏は大友宗麟(おおとも そうりん)の時代には、大蔵一族の堤・財津・高瀬・坂本・羽野・石松の六氏に命じて、郡政として統治させていた。
戦国時代まえには大蔵氏が1071年ぐらいから1432年まで300年以上も日田の支配者で。1432年の家督相続争いで没落。
大友氏がそこに目をつけて郡代として入る。応仁の乱以降は大友家の争いに巻き込まれ日田大友氏も没落。
再度、大友親明(おおとも ちかあき)の子親賢

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女好き 志賀 親守(しが ちかもり)

女好き 志賀 親守(しが ちかもり)

志賀 親守(しが ちかもり)は生誕不明。没年不明。

大友三家(田北氏、詫摩氏、志賀氏)の一つ。北志賀家は南軍衆の筆頭である。大友の主力ともいわれる軍を率いる頭として活躍した武将。

1550年二回崩れの変
大友義鎮(おおとも よししげ)の家督相続に尽力。
1552年親度(ちかのり)に家督を譲って隠居。隠居というぐらいですからこの時、30~40代ぐらいだったのかなとか年齢の推測をしてしまいます。

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大内義長(おおうち よしなが)

大内義長(おおうち よしなが)

生誕1532年。没年1557年。
大友義鑑(おおとも よしあき)の子。大友義鎮(おおとも よししげ)の弟。幼名、塩乙丸(しおおつまる)。元服の際には将軍 足利義晴より偏諱を与えられ、大友 晴英(おおとも はるひで)と名乗る。

父の義鑑の妻が大内義隆(おおうち よしたか)の姉妹であったことから大内義隆の嫡子が亡くなって(1543年)すぐに猶子(ゆうし)として大内氏に出されている(1544年)。しか

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吉岡 甚吉(よしおか じんきち)

吉岡 甚吉(よしおか じんきち)

生誕不明。死没も不明。
父は吉岡鑑興(よしおか あきおき)。
1578年耳川の合戦で父が戦死。家督を継ぐ。
1586年の豊薩合戦の際、大友宗麟(おおとも そうりん)が籠城する臼杵丹生城(現:うすきじょう)を守る。二王座(におうざ)を守り戦功をあげる。二王座の兵300~500に対し島津軍3千と戦いこれの撃退。後に甚吉坂(じんきちさか)なる呼び名もついている。
大友義統(おおとも よしむね)の時代に統

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吉岡 鑑興(よしおか あきおき)

吉岡 鑑興(よしおか あきおき)

生誕 不明。死没は1578年耳川合戦の討ち死に。父は吉岡 長増(よしおか ながます)。
父の死後、1576年に大友義統(おおとも よしむね)の加判衆になっている。妻は吉岡 妙林尼で豊薩合戦で活躍し秀吉に会いたいと言わせた女傑である。
元々、大友宗麟の時に側近であったようで1569年に立花城攻略の際の雨中在陣を賞されている。
あまり活躍はないのだが三老に選ばれるところから宗麟の重臣的な立場で息子義統

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