ローソンのPBデザインと、デザインという言葉の話

デザインという言葉は、日本語や英語と同じくらい_あるいはもっと_私たちの周りに溢れているのに、いやはや無理解に満ちているものだなぁと虚しくなる。

考えてみれば、デザインはひとつの言語であるということをちゃんと考えたのは10年前の学生の頃からだし、私も美術大学に行っていなければわからないこともあったので、誰かに責任があるとか、誰かを見下したいとかそういう話ではないのだ。

私がアラビア語を読めないように、一般の人がデザイン語を「間違いなく」読めなくても、それはいいのだ。ただただ、虚しい気持ちになる。このローソンのプライベートブランド(PB)のデザインを取り巻く無理解については。

デザインという言葉は、教育を受けない母国語のようなものだと思っている。父母の話しかける言葉から子供が言葉を学べるように、私たちは皆、デザインという言葉を産まれながらにして学び始める。誰から? 見るもの全てから。

ここにひとつの写真がある。部屋の内部を写したもので、ソファがあり、テレビがあり、テーブルがあり、棚には時計やカレンダーなんかの雑貨が置いてある。読みかけの新聞や、脱ぎ離した衣服があり、大きな窓からは光が差している。これはなんだろうか? これはリビングだ。

「これはリビングだ」と認識させたのは_あなたに話しかけたのは_紛れもなくデザインの言葉だ。私たちはリビングを見てリビングと認識できるし、車を見て車だと認識できる。そして、納豆のパッケージを見て納豆だと認識でき…なかった人が騒いでいるのがローソンのPBデザインの話だ。

デザインは「何かを伝えたい人」が「言語ではないデザインという言葉」で「あなた」に伝える行為だ。デザイナーは「言語ではないデザインという言葉」で「伝えたいもの」を表現する職業だ。

ローソンのPBデザインについて、私がデザインから読んだ言葉を_感じたことを_つらつら書いてみよう。

ローソンはきっと、大衆的なコンビニとして大衆を相手にするのではなく、より絞った相手_「あなた」_に伝えたいことがあったのだ。その「あなた」とは、インスタに写真を載せる若い女子であり、あるいはシンプルなものを好む人であり、味だけでなく見た目も重視する人であり、食べ物としてだけでなく雑貨としてコレクションしたくなる人なのだ。

へぇ、ローソンのPBデザインかわいいな! 初めて私がこのPBデザインを見た時そう思った。同時に、コンビニなのにめっちゃターゲット絞るなぁと感心した。

ナチュラルローソンの世界観を持ち込んでみたんだろう。きっと、このデザインを進めるにあたって、マーケティング的な根拠はあったに違いないし、今回のPBデザインで売り上げが上がれば、それは商業デザインとして成功なので、デザイナーとしては十分役目を果たしている。売り上げが下がればもちろんその逆だが、そこから先は部外者の問題じゃない。

いろいろなデザインが炎上のネタにされるたび、恒例的にデザイナーを批判する流れがあるけれど、そのたびにあぁまたか、と虚しくなる。

ローソンへの批判は、極端に言えば女性向けの下着屋に入って、男性トランクスが売ってないじゃないか、と文句を言うことに近い。あるいは、行きつけの中華料理屋で、中華風イタリア料理が並んでいるようなことだろうか。もちろんコンビニはすでにインフラ的役割であり大衆的なものなので、極端なPBデザインは批判の対象になるのも当然なんだけれど。

個人的にはこのままローソンには突き進んでもらって、加齢臭のしない「カワイイコンビニ!ローソン!」としての地位を確立してもらいたいと期待している。

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