37. ブーム・フェスティバル
3万人規模のこの’ブームフェスティバル’は、メインとサブの大きなダンスフロア二つを筆頭に、ダンスエリアと同等ほどの大きさがあるチルアウトステージ、ライブミュージックが中心に行われるセイクレッドファイヤー、そしてヒーリングエリアなるものが主要なエリアになっている。その他、キッズエリアやアートギャラリー、エンターテイメントなダンスが披露されるステージ、他のステージやショッピングモール、各エリアにある数々のレストランやカフェの他にも、一度に1000人ほど収容できそうな大きなフードコートエリアもある。
湖を取り囲むようにセットされた会場はバーニングマンほどではないにしろ広い。隣のエリアに行くまでには10分ほど歩くような感覚だ。一番、端から端のエリアにストレートに歩くと、試したことはないが40~50分ほどはかかると思うし、キャンプエリアを含めたら1時間以上はかかるかもしれない。
会場には、その他、畑や庭が作られ、トイレは今では会場の全てのものがコンポスト。小さな池やら噴水、オブジェも各所に作られ、生鮮野菜や食品、キャンプキットなど品揃え豊富なスーパーマーケットもあるし、救急施設、ATMもある。1週間だけのいわばコミューンだ。数年前にこのフェスティバルはクラウドファンディングによって、この土地を購入した。
日中は灼熱の太陽が照りつけ、土地は乾ききっていて砂埃が舞い上がっている。夜は日が落ちた途端、寒くなる。砂漠のようなその気候であるけれど、会場は湖に沿っているので、あちらこちらで水浴が出来るし、湿気が少ないので木陰やシェードのあるところに行けば涼がとれる。
この2006年の回から、サウンドシステムが格段に良くなったらしいこと、毎年変わるステージデザインは、この年はものすごく太い竹で織り成され、メインステージに至っては遠くから見ると日本のお寺の五重の塔のようなデザインで、チャクラの色がその塔を彩っていた。フェスティバル途中で遭遇したセミナーで分かったことだが、バンブーマスターと竹をインドネシアからわざわざ呼び寄せていた。毎年、変わるそのデザインが楽しみでもあるし、会場全体、あれからものすごくブラッシュアップされて、クオリティーは更に上がった。
この2006年のDJ出演をきっかけに、2018年まで毎回、このフェスティバルの元々の創始者のいるバンドにボーカルとして招待され、出演を重ねてきた。そして2年毎に行われるこのフェスティバルは、一回コロナで休息したため、2022年に引き続き2023年の今年また開催されるのだが、ボーカルで出演することになっている。
このフェスティバルのヒーリングエリアは、各フェスティバルを渡り歩いてきたから言えるが、この時点で格段に群を抜いていた。その後10年で、世界中の大きい野外フェスティバルのロールモデル的な役割も果たし、ヒーリング·ワークショップエリアが付属するのがスタンダードになったのは、このフェスティバルの功績が大きい。こういうエリアは次元が違っていて、エネルギー的にも視覚的にも綺麗で居心地が良く、瞑想的でいられる。かく言う私も、このフェスティバルのヒーリングエリアにものすごくインスパイアされた一人だ。
ヨガクラス、気功、タントラ、コンタクトダンス、クリスタルボールやゴングなどのサウンドセラピー、トランスダンスやエクスタティックダンス各種ダンスセラピー、ブレスワーク、水の中で行うマッサージのワッツ、火渡り、スウェットロッジ=テマスカル、世界各国から最先端のウェルネス系の、しかもその中でも有名どころのインストラクター達からフリーで学べるから、10年ほど前まではどっぷりとそのエリアに入り浸りだった。今はクラスを受けたい人々で溢れかえっていて、中には入れないほどのことも多々あるので、ちょっと遠のいている。
そのエリアとは別に、サスティナブル、エコロジー、テクノロジー、アグリカルチャー、シャーマニズム、世界各地でコミュニティを作っている組織から来ている代表の話とか、さながらテッドトーク並みなセミナーが朝から夜中過ぎまでやっている。ギャラリーでは、有名ヴィジョナリーアーティストの例えばアレックス・グレイやリューク・ブラウン、アンドロイド・ジョーンズのライブペインティングが見れたりもするし、巨大スカルプチャーやインスタレーションも所々にある。
踊るのが好き、ワークショップが好き、セミナーが好き、アートが好き、きっと誰もが、人生において学びたいことに出会えるショーケース的なこのフェスティバル。そして、何よりアーティストとして参加出来て、いつも一週間では足りないと思う。おまけにキャンプを一週間続けると、何か人間の本能的な部分が蘇って来ると言うか、リセットが出来る。普段の生活圏に戻れば、身体は確かに疲れているのだけれど、一年に一度でも、こういう時間がとれると新たなメソッドに出会い、多大なインプットが出来る。
インターナショナルなフェスティバルが初めてのランは目を輝かせて、体験すること全てが新鮮なようだった。勿論、私にしても同様だった。二人で炎天下の中、あれも行ってみよう、これも行ってみようと歩き回った。一度だけ、私がつまらないことで拗ねてしまい逸れてしまったが、ダンスフロアの真ん中で再会し、また元通りだった。夢の様に楽しい1週間はあっという間だった。
戦争が終わっていないイスラエルには入国できない為、ブームフェスティバルの後、ランだけがイスラエルに戻り私はしばらくイビサに身を寄せることにした。幸いまたエバが面倒を見てくれた。1ヶ月ほどで停戦となり、イスラエルのランの元へ戻ったが、初めてイスラエルを訪れてからちょうど1年経った頃、ランとお別れして、私はまた旅に出ることにした。
「ヨーロッパで音楽活動がしたい」という私の思いにランが答えてくれたのだった。そんな1行で片付くような経緯ではなかったけれど、「もう僕の為にイスラエルには戻ってこなくていいよ、、」と悲しそうに一礼しながら伝えられた。ショックが身体を貫いてがっくりと膝から力が抜けていくのを感じた。
今でもかけがえのない友人で、その後、2度イビサへも会いにきてくれた。彼は、付き合っている頃からの夢だったセーリングボートでの大西洋横断を果たし、一度結婚して離婚し、あちらこちらを旅して、少し大きめの”三角ハウス”に戻っている。私が落ち込んだり寂しくなった時はいつでも気兼ねなく電話が出来る人でいてくれているし、誕生日には必ず連絡をくれる。
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