49. 愛と死
イビサに到着した翌日の早朝に弟と連絡を取って父の様子を確認し到着日時を伝え、フェスティバルの疲れとアルプスからの長旅で少しまた”うとうと”とした2時間後、私は手に取った携帯のメッセージを見て固まった。時間差で2通、、、。
「容体急変って医者から連絡があった。今病院向かってる」
「亡くなった」
『え、、、、、』目を疑った。『え?嘘、、。そんな、、、』隣で心配そうに見ている彼に伝えたのか、自分に対してなのか「彼は私を待っててくれなかった、、、」そんな言葉が思わず口から出ていた。父が亡くなった意味だと彼はすぐに察した様だった。涙は出ずただただ唖然とした。彼は無言で私を抱きしめていた。『母の時みたいに、父は私の帰りを待っていてくれると思っていた、、、。私の甘えだった、、のか、、』
荷造りの最中、普段全く連絡がないトルコの日食の時のオーガナイザーからどういうわけか「オレゴンの皆既日食フェスには来るのか?」の電話があった。「父がさっき亡くなったばかりだから、そんな気にはなれないし多分行かないと思う」とは伝えたが、なんだか私はその電話が何かの予兆のような気がして帰国の荷物の中にフェス用の洋服を1~2着そしてヘッドセットを入れた。
通夜と葬儀は、普通よりも1日遅れで執り行われた。というのも’友引’だったからだ。その日本の風習がなければ、私の帰国はお通夜に間に合わなかった。家から出棺されるギリギリに私は到着し、亡くなってしまった父と対面した。
父の亡骸は、とても痩せてしまってまるで別人だった。「こんなになるまで、、、」
と、その時、まるで”悟る”ような感覚を覚えた。今、要約すると以下の文章になるが、本当にそれは一瞬で、’”思いの塊”の様なものだった。
『父は、もっとわがままで良かったし、人としてそれはおかしいだろうと言うことも、癇癪持ちであろうと、どんな親であろうが、どんなに怒鳴ろうが、母にとってどんなにひどい夫であったろうが、常識はずれであろうが、全て、それで良かったのだ。そうさせてやれば良かったのだ。こちらがネガティブだと思う部分は全部それで良かったのだ。そういう全てがあれで良かったのだ。完全だった。
人間はいずれ死ぬ。全部、無くなる。綺麗さっぱり。生きている間に何が起ころうが何を感じようが、何を考えようが、それらは消える。
宇宙の水雲にすら、ならず、、。残るは、愛のみ、、、』
父に対して抱いていたいろいろな過去の負の感情は、彼と共に全部一瞬にして綺麗に消えていくのを感じた。許しのような、、。許すも何もないのだけれど、、。家族というのは、お互いに癒しをもたらし、成長させ合う魂の仲間だ。時にハードだけれど、それは全て自分次第だ。自分のこだわりがハードにしてしまっているだけだと気づくには遅すぎた感もあるが、これからの生き方に活かせばいいのかもしれない。
通夜の中、どういう状況だったか詳細を聞いた。容体が少し思わしくなく、病室で付き添っていた皆が、その夜が峠になるかもしれないとのことで準備のため、夕方に一旦それぞれが必要なものを取りに帰宅した時のことだったそうだ。病院を出て30分もしない内に弟に病院から「容態が急変した」との連絡が入り、急いで戻ったものの3分ほど遅く、結局誰も”死に目”に会えなかったとの事だった。
お手伝いさんは全員で出てしまったことを悔やみ、父の”死に目”の様子をきちんと見届けて、私に語るつもりでいたのに申し訳ないと言って謝った。
『父は、私が世界で一番悲しいニュースを知った時に、娘が誰か安心できる人の腕に抱きしめてもらえるように取り計らったのか?』とさえ思えるような、そんなタイミングで亡くなったのだった、、。しかも私だけが死に目に会えないという事態を避けるかのように、、、。その時が来たら、絶対に父の手を握っているつもりだったのに、、、。『ごめん、お父さん、、』後悔先に立たず、、だ。
85歳だった。私に1年間の充実した親子の時間と思い出を残して旅立った。亡くなった今も尚、私にいろんなことを教えてくれている。
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