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43. 帰国

 本格移住した翌年の2012年初春。2ヶ月ほど帰国した。2006年に見つかった子宮筋腫が、どうにも手に負えなくなっていた。レーザーや少し穴を開けるだけでは除去が無理な場所に見つかって、その翌年には手術を勧められていたのだがどうしてもお腹を開けるのが嫌で、6年もそのままにしていた。子宮を全摘すれば、お腹に傷をつけなくて済むが、子宮が無くなるのはどうしても嫌だった。なので開腹手術しか無かった。

 この年には筋腫は誰が見ても、3~4ヶ月ほど妊娠してるのかと思うほど大きくなってしまって、お腹のそれが邪魔をしてヨガのポーズもどんどん出来なくなっていた。その帰国時のある朝、以前まで開腹手術を嫌がっていた父までもが「病院に行って来い」と言いだした。父のことは住み込みのお手伝いさんが身の周りの世話からスケジュール管理までしていたのだが、もはや家族も同然の彼女は、私の恋愛のことから体調まで全てを把握していて、頑なに”自然療法”でどうにかしようとしていた私を見かねて、父から伝えるように促したらしい。

 即座に国立病院のウェブサイトで、一番腕の良さそうなドクターを選んで検査してもらい、手術の日程を決めた。予約は3ヶ月先までいっぱいで、一旦、手術日の初夏までイビサに戻ってまた帰国し手術を受けた。全身麻酔だったから一瞬だったけれど7時間ほどの手術だった。

 子宮筋腫は多くの女性が患ってしまうものらしいのだが、主な原因は医学的に分かっていない。私の場合、”あの妊娠時”にはなかったものなので私の勝手な憶測で『許せない気持ちや怒りや悲しみという負の感情が、1年の間にそれを作り出したのだろう』と思っていた。だから一生懸命、”許せる自分”になろうとした。許せた時に筋腫が無くなるんじゃないかと思っていたからだ。加えて、血をクリーンにすれば良いのかと思い、さらに厳格なビーガンやローフードを実践していた。だが終ぞ、それが無くなることはなかった。

 手術後数年経って、栄養のことをもっと詳しく学んだ時に、私のその食事法ではタンパク質が圧倒的に足りず、強い健康的な血やホルモン、そして健康な細胞を作り出せていなかったことが、主要な原因の一つだったかもしれないという考えに至った。圧倒的に鉄分やらその他の栄養が足りておらず、鉄分のサプリも医者から処方されていたが、自分の食事を健康的だと盲信的に信じていた私は、それすら飲まずに過ごしてしまった。今はベジタリアンはやめて動物性タンパク質を摂っているし、血液検査でも全ての数値は安定している。

 術後は、身体はもちろんのこと、全てが軽くなり意識も変化した。『もっと早く切れば良かった』と、随分と時間を無駄にした気がした。筋腫が原因で膀胱が圧迫され、頻尿になり何年も朝まで眠れず睡眠の質が落ちていたこと、浮腫んでしまい人相が変わってしまっていたこと、膝に水が溜まるようになって歩きづらかったこと、エクササイズが難しくなってしまったこと、これらの症状のいくつかは年齢のせいかと勘違いしていたが、全く違った。

 このことで、私はそれまでの「西洋医学の対処療法は絶対に受け付けない」という自分の偏った考え方を少しづつ払拭するに至った。病気になってしまってから東洋医学を軸にした予防医学を実践しだしても多分それでは遅く、症状が出てしまってからは西洋医学に任せた方が良いこともあると考えを改めた。健康な時に免疫力を高める東洋医学をベースにした生活をしなければ意味がない。病気をしてない状態が健康なわけではなく、そこから数段階、質の高い”超健康”を目指すときに、東洋医学は力を発揮するのだと思う。この過去5年ほどは、自分の能力のポテンシャルを上げる”バイオハッキング”に傾倒している。

 何はともあれ全ての不調が歳のせいではなかったのがわかり、よく眠れるようになり、むくみも取れ、お腹周りはスッキリし、膝も治り、手術後の回復と共に10歳ぐらい若返ったような気持ちだった。その後、夏のブームフェスティバル、ハンガリーのオゾラフェスティバル、11月のオーストラリア‧ケアンズの皆既日食フェスティバル、そこでの9年ぶりのコージとその子供たちとの再会、彼女を訪ねてのバリ再訪。

 身体が絶好調になった私がフェスティバルライフを存分に謳歌していた時同じくして、父が’進行性格上性麻痺’という病気にかかっていることが分かった。この病気は、1万人に1~2人ほど程度の発症率で原因も治療法も分からない奇病だ。脳の中の大脳、脳幹、小脳といった部位の神経細胞が減少し、身体の各部位が動き辛くなって行くため、転びやすくなり、眼球も動かなくなっていくので下方が見えにくい、しゃべりにくい、飲み込みにくいといった症状が徐々に進んで行き、やがて寝たきりとなる。既に発症しているらしく、発症すると平均5年ほどで亡くなるということだった。

 当時で既に母が亡くなって12年、父は年齢にして82歳だったので、寿命といえば寿命だった。ある意味、死期が予測されて良かったとも言える。そこまで進行していないようだったので、私は父がある程度のサポートが必要になった時には実家に戻って介護をすることを決めた。それまでは頻繁に帰国した。

 その数年の間の帰国時には、少し世代の若い有識者らが政治を変えようと立ち上がり、東京でその運動に熱心に関わった。戦争を身近に感じたこと、原発事故のこと、外国人の間では自分の国の政治に関して意見を持ち投票するのが当たり前なこともあり、政治に対して少しづつだが向き合うようになっていた。国の制度を変えられるのは政治家で、その政治家を選ぶのは有権者の私達しかいない。未来の世代にもっと”真っ当な政治家”が活躍出来る日本を渡したいじゃないか。

 イビサに定住し始めた3年間で2枚のソロアルバムをリリースし、別のコラボアルバムをレコーディングした後の2015年秋、とうとう”その時”が来た。何年かかるか分からないこともあって、秋に全ての荷物をまとめて処分し実家に戻った。

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