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シンジと緒方恵美さんのことも書かなくちゃ

と思いながらこの記事を用意していたのだけど、圧倒的に素晴らしい解説をCDBさんが書かれていたのでリンク貼ります(*^^*)

もうこのCDBさんの文章だけでほとんど言い尽くされているようなものなんだけど、やはり、声優とキャラのほぼ本人そのままと思えるような内面の一致、限り無くリアルに近づけた虚構の中で、声優の力によってリアルとは別次元のパワーを持つに至ったこの作品の凄さなど、この26年間にわたり主要なキャラが誰一人交代すること無く演じ続けられてきたことの奇跡と、その声優チームのもたらした影響はもっと語られても良いと思う。

そしてやはりアスカやレイと同様、シンジを演じる緒方恵美さんも、自分の内面と向き合うことを余儀なくされた。緒方さんの著書「再生(仮)」より、一部引用させていただく(引用元はこちら)。

長いこと「14歳」でした。14歳の心を、ずっと持ち続けて生きてきました。
 それはまず、エヴァンゲリオンを演るために必要なことだったからですが、同時に、私自身が生きるための、ただひとつの方法だったから。
 人は、生きている中で、鎧を身につけていきます。余計なことを言って傷ついた、これは言わないようにしよう。こう振る舞ったら拒絶された、こうしないようにしよう――ひとつひとつの経験から身につける、一枚一枚の皮。それは社会の「風」から身を守る鎧。空気を読むこと。人に合わせること。出過ぎる感情を抑制すること。まとうたびにひとつ大人になり、生きる術として身についてゆく。時間が経つと固くなり、もう要らないかなと思っても、ちょっとやそっとじゃ剥がれにくくなる鎧。

 だけど私は、それが苦手でした。極端に。未熟な自分を押さえ込もう、鎧おうとしてもうまくいかない。あまりにも下手で、もういいやと体ごとすべて封じこめ、ガードに徹した時期も何度もありました。結果穴だらけでいびつな鎧を無理矢理まとい、よろめきながら生きてきた。そんな自分が嫌だった。……でも。

 役を演じる時だけは、その鎧を外していいのだと知った。
 その役として必要な部分だけ残しつつ、あとは心のままに。むしろそうすべきだと。
 なぜならそうし始めた途端、役者として評価され始めた。「役が生きているよう」「芝居に共感する」「揺さぶられる」――そんな評価をいただけるようになった。必要とされるようになった。求められるようになった。こんな私が。

これってまさにATフィールドという仮面、鎧の話です。無意識に使いこなしている人はその存在にも気が付かない、しかし気になる我々にとっては扱いにくく、しっくりいかない仮面を被ろうものなら自分を見失ってしまい、自分でない何者かになってしまったと気づいたときには、周囲に甚大な影響を及ぼして取り返しのつかないこともある、たいへんに厄介なもの。仮面や鎧を被ることで社会生活は順調にいったりするその裏で、自分の内面はどんどん消耗し疲弊していく。そしてその鎧を嫌っている自分ですら、無意識にその鎧を武器(槍?)に変えて相手を傷つけていたりする。

マジで、知らない内に周りの人々を自分の槍(ATフィールド)で血まみれにしていたりしたことを、自分では気が付かなかったりするのだ。あとからその惨状に気づいた時の意識は、まさに世界をニアサードインパクトで滅ぼしかけたことを自覚するシンジの意識と変わらないだろう。破滅の規模ではないのだ、自分が嫌悪していた行為を自分自身がやっていたという自覚は、どこまでも自分を追い込んでしまう。

その中で、「14歳の心」を持ち続けるのは、――本当に大変なことでした。
 大人として振る舞いながら、大人の言葉に傷つく心。無防備であろうとすればするほど、言葉が、事象が鋭くえぐる。大人としても成長し、ギャップが大きくなればなるほど深く差し込んでくるそれに、たまらず鎧いかける自分を律し、心につきかけた新たな皮を、血を流しながら剥がす日々。

「いいじゃん、『ガワだけ中学生』で。そんな人たくさんいるんだし、それっぽい声さえキープできれば、できる仕事もあるんだし。そんな微妙な違いなんか、わかる人はそんなにいない。それより何よりあんたは大人。いい歳になってもそんな役、まだ来るとでも思ってる?」

 辛いことがあるたびに、囁きかけるもうひとりの自分。どうしたらいいかわからない。やめてしまえば楽になる。そしたら役者じゃいられない。私はそんなに器用じゃない――自分の「本能」に突き上げられるまま、一番苦しかった30代、ずっと皮を剥がし続けていました。
 状況に応じてつけ剥がしできるように、固まってしまわないように。
 いつでも流せる血を、少年の痛みを、役に注入できる自分で在るために。
 誰にも理解されないまま。いつかきっとと思いながら。

これってそのまんまシンジじゃん、これってまんま自分じゃん、と思う人は多いのではないか?エヴァンゲリオンに26年も惹きつけられ続けた人たちは、何かしら自分自身の苦悩をストーリーやキャラの演技に見出している、とはずっと言われてきたことではあるが、声優自身がこのように苦悩してきた、だからこそシンジの苦悩は我々にとっては絵空事ではなかったのだ。その声優自身の内面の葛藤から生まれた声こそが、作品と一緒に私達をここまで連れてきてくれたのだ。


実はレイ役の林原めぐみさんも、「林原めぐみの ぜんぶキャラから教わった」の中で、こんなことを書いている。

人間はもはや言葉を操りすぎて、自分の本当の心すらごまかせるようになっています。その本当の心の在り処を、彼女(レイ)は痛烈に教えてくれました。(p.117)

レイは、感情がないわけではなく、感情を知らない」というディレクションを受けての苦悩、それを体現するために自分自身の心を掘っていった結果、自分自身に対してすら、本心を隠して(仮面をかぶって)言葉という道具を操っているという人間の本性にたどり着いた林原さん。

レイは、あえて仮面を被って感情を隠す必要を感じていない(知らない)ので、「ふり」をしない(できない)のだと。

痛い、苦しいは本当。でも、心配してほしいがゆえの病みは演出しない。
「嬉しい」を上乗せして伝えない、「悲しい」を盛って伝えない。

そうやって出来上がった、綾波レイという少女の内面を表す演技。それはおそらく、ATフィールドという心の壁を降ろしてしまった姿、自我の境界が希薄な、所在があやうい魂。自分自身にすら仮面を被らない、ありのままでいるという、ある意味あこがれる、理想とも言える在り方。しかし現実の我々は、周りからの意識的無意識的な攻撃が怖くてそんなことはできない、無謀な在り方。

そしてキャラ設定の絶妙なバランスとして、過剰に「ふり」をするアスカ、「ふり」ができないレイ、そして二人に挟まれて揺れ動き自問するシンジ。この3人は庵野監督の分身であると同時に、我々自身の分身でもあるわけだ。どの分身にも似ていたり憧れたりする部分があり、しかしそのものにはなりきれず、現実的などこかで妥協し、ぼろぼろの仮面をまとい続ける自分たち、、。


シン劇場版では、覚悟を決めたシンジがそんなレイやアスカたちの心をいたわり感謝し、「自分はもう大丈夫だから」と見送った。言葉にはしていないが、「自分が変われたのだから、君たちも大丈夫だよ」と伝えたかったのではないか?そこには、あの極限状況を通して自立せざるを得なかった、友情という言葉ではくくりきれない絆、仲間に対する愛を感じずには居られない。

それがそのまま見ている我々へのメッセージにもなっているのだ。君たちももう大丈夫だろう?現にうまくやってきているじゃないか?

それは嫌っていた仮面をいやいや被る敗北を意味するのではなく、仮面を使いながらもお互いを思いやれる人間になっていこうよ、我々はきっとできるよ、いまや我々が社会を作っている側になっているのだから、もう虐げられてきた除け者としてのアイデンティティなんか捨てていこう(なんかかなり自分の僻み入ってるけど)という、こんな自分ですらその中に含まれているのだと、暖かく感じてしまうようなブロードなメッセージ、幅広い世代を勇気づけるものだと感じられた。


緒方さんの話題に戻ると、「緒方以前、緒方以後」という区分で呼ばれるほどの衝撃であった、女性声優が演じる少年役の革命についてはこちらの記事が参考になった。音楽家やライブ活動をしている同志たちや、若手声優を取り巻く環境についての緒方さんの問題提起にも注目していきたい。

ほかにも業界内のさまざまな出来事が語られる緒方さんの自伝「再生(仮)」は、緒方さんがセンシティブなアーティストだけではない、後輩のため、業界のために戦う闘士であった(今も)ことも淡々と語られている。ぜひ一読をおすすめしたい(踏破できる書店にはなかったため本日Kindleで購入した。5/12追記)



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