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綾波レイと林原めぐみさんのこと

アスカと宮村さんのことを書いた記事を投稿したら、レイと林原さんのことも書かなくてはと自分の無意識が蠢くので、つらつら書き始めるとしよう。

林原さんのラジオ番組を聞いていると、とてもあっけらかんとしてポジティブな方だなあと、なんだか元気をもらえてしまって嬉しくなるのだが、もともとは元気いっぱいな役柄の多い声優だった林原さんを、こんなミステリアスな役に採用した庵野監督の嗅覚というかセンスはすごい!という理由を人類補完計画と絡めて書く、というのがこの記事の意図である。

ちなみに一通り書き終えてから拝見したマライ・メントラインさんの記事「ドイツ人が見た『エヴァンゲリオン』のヒロイン像。」にかなり共感し、インスパイアされて書き足した部分があるのを予め記しておく。特にヒロインたちの描写が「男性のエゴの中に存在する女性像を、あきれるほど的確に描き抜いている」と評価されていることに清々しく同感である。

この方は日本語が完璧な上にオタクとしての自意識もパーフェクトであるので、勝手に「同志よ!」とリスペクトして、ここにご紹介した次第。

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レイの描写に母性を感じさせるものがある、というのはよく言われる(例えば教室で雑巾を絞る場面とか)。それはユイのクローンだから、ということを切り離してもそう感じられるように描写されている。これは、わずかな出番しかなかったユイを除けば、シンジの周りの女性陣が見事に母性とかけ離れたキャラクターに設定して描かれていたこともあるだろう。特に同じ部屋に住むことになるミサトとアスカが殊更に母性と対極なキャラとして描かれているが、もちろん意図的だろう。その対比もあって、レイの潜在的な母性が観る者に無意識レベルで刻まれてくるのではないか?(余談だが、シン・エヴァンゲリオン劇場版が感動的なのは、ミサトもアスカもそれぞれに母性を感じさせる描写があることも要因で、Qに至る描かれていない14年間に何があったのか、何が二人をそのように成長させたのか、我々の想像力を膨らませる原動力となっている)


胎内回帰または胎内回帰願望という概念があるが、これは生まれつき備わっている元型的願望というべきもので、母親の胎内で羊水に漂い暖かく守られていた時の充足感や愛に包まれていたい、その原初の記憶のなかの、自己と母体の区別のない満たされた状態への憧れ、そこへ回帰したいという根源的な欲求と言えるだろう。そこに繋がる母性を超越した何かを、レイに見出している人は多いのではないか?

ひとたび母胎から外に出れば、そこには様々な外部刺激が(良いものも悪いものも)あり、自己と一体化していた母親すらも一人の他人となる。その恐怖は図りしれないものがあるだろう。幸いにも?私達はその時の記憶がないか、生まれたばかりで外部というものの認識が未発達なのでその恐怖は無意識のどこかに追いやられ、何かの刺激がトリガーとなったときに私達をその恐怖から逃れる方向へと導く(パッと思いつくのが人見知りや対人恐怖)。この世に生まれたばかりの私達は、本能的に唯一の繋がりと言える母を求めて泣くのだろう。これは最初の分離の恐怖と呼ぶべきものだ。


その後、私達は成長するに従って社会性という仮面を獲得し、分離の恐怖は次第に忘れ去られていく。しかし、その仮面を獲得しなかった、あるいは拒否したのが我々オタクであるとも言える。この仮面や自我境界をATフィールドと表現したのはこの作品のエポックだ。オタクではない、通常の社会性を獲得している(ように見える)人々は、仮面やATフィールドがないのではなく、当たり前に使っていて意識していないだけである。彼らは分厚い仮面とソードや槍と化したATフィールドでお互いに打ち合いながら、社会生活を送っている、そのことに何の疑問もない。

自分も「あなたは他人の感情がわからない」と言われてしまうタイプの人間だが、これは主観的に言わせてもらえば、そう言っている人間のほうが無自覚に武器としての仮面・ATフィールドをぶん回して他人を傷つけていることに気が付かないだけである。

そうなると(乱暴にもまとめてしまえば)、オタクに限らずあらゆる人は、他人という恐怖のない世界、ATフィールドの必要ない世界を潜在的には望んでいると言える。それは母体回帰として言語化・概念化されているが、それをもう一つ推し進めれば、それは分離前の世界、分離の恐怖のない世界、他人も自分も一体化した世界、精神のみの世界、精神を宿す基盤としての形をもはや必要としない世界、というところまで行くと、いわゆるワンネスという概念に行き着く(精神的な進化の行き着く先がワンネスである、という考えはスピリチュアルに限らず、さまざまな神秘主義や宗教でも語られているがここでは深入りしない)。

こう考察すると、人類補完計画というものが、庵野監督がひたすら自分の無意識を潜って潜って発見した人類の根源的欲求と呼べるものであり、単なるオタクの妄想レベルのものではないと捉えることができる。


そして人類補完計画へと主人公たちを導く綾波レイという存在は、クローンゆえに最初の分離の恐怖を持たない存在、おそらくその故に自我境界が希薄な傷つきやすい存在、LCLの匂いや母性のイメージ、月をバックに描かれた姿(月は女性性の象徴でもある)などが意識的無意識的に描かれたことと、そこに林原めぐみというこれ以上ない声優を持ってきたことが、エヴァンゲリオンという作劇を構築する上で大きなファクターとなった。

林原さんがどのように声の演技をするかを若い人に向けて解説している動画があるが、雰囲気や思い浮かんだ感情で声を出すのではなく、明確にその状況を解釈した上での声の演技のベクトルというものを志向している人なのだ。

レイは感情がないのではなく、感情をどう表現してよいかわからない人」という困難なディレクションに、ここまで応えられる人がいるのだろうか?無機質なクローンではなく、ちゃんと人格を宿しているレイは、TVシリーズでも新旧の劇場版でも決して人形のような存在ではなく、自分で考え必要なときには行動を選択できる自由意志を持った個人として描かれている。エヴァに乗る理由を「絆だから」と答えるレイは、相当に内省的な人格を持っていると言えるだろう(現実の14歳女子はそんな返事をするのだろうか?)。意思表示が少ないのはそれがかなうだけの体験がない、或いは足りないだけなのだ。このことはシン劇場版における第三村でのレイ(仮)が、様々な体験からどんどん感情や概念を獲得していく過程に見事に表現されている。

そのレイが絵空事のキャラではなく、自分の意思を持ってゲンドウの命令に逆らう選択ができる存在として納得できるのは、林原めぐみの声や演技があってこそ、文字通り血肉を与えたのだと思う。それができると見抜いた庵野監督は本当に鋭い嗅覚(センス?)の持ち主なのだ。余談だがNHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」に映り込んだレイの演技に注文をつける庵野監督と林原さんのやり取りのシーンがあったが、「綾波レイならどうするの?」のセリフでの「の?」のニュアンスを細かくディレクションをつけていたのが印象的だった。特に監督の指示にレイの声のまま「うん」と返したところは数百万人の綾波ファンをキュン死させたに違いない(笑)。

ここからレイの持つ微妙な特質がどういうものなのか、庵野監督の中には明確なイメージがあることがわかる。あまり肉感的な生身の女性に見えない、しかもアスカやミサトが体現しない母性を匂わせ、しかしアンドロイドや無機的な人形ではなく、時には明確な決意を行動で示す。レイが庵野監督の内なる女性像、アニマと呼ばれる所以である。この、ものすごく狭いゾーンをちぐはぐな演技なしにドンピシャで貫いているのは林原めぐみあってこそといういことは、きっと綾波ファンでなくとも同意できるだろう。

来週出版されるシンジ役の緒方恵美さんの著書「再生(仮)」に、レイを演じる林原さんのことが書かれていたので紹介記事より引用してみる。

さらに勉強になったのは、綾波レイ役を演じる林原めぐみさん。元気な女の子役が多かった林原さんが、消え入りそうな声でしゃべるのも初めて聞いたのですが、それだけではありません。林原さんは、庵野監督に「この子は感情がないんでしょうか、それとも?」と質問をされていて、その結果、「感情を持っているけど表現する手段を知らない」ことを踏まえた淡々と深みがある芝居に。その後アニメ界で「綾波っぽい役」はたくさん量産されるようになりましたが、棒読みのような芝居は多くても、そこに「深み」を感じさせる演技はなかなか出てきませんでした。やはり林原さんはすごい。

この人間としての綾波レイが的確に描かれたからこそ、人類補完計画発動の重要なピースとなるミステリアスさ(人間ではない部分)が際立ってくる。旧劇でLCL化する人々の前に現れるレイの姿は、死を前にした戦士の魂をヴァルハラへと導くヴァルキューレあるいはバンシーを思わせ、TVシリーズ冒頭や旧劇ラスト、そしてシン劇場版で第3村廃墟でのシンジの前に制服姿のフラッシュバックとして現れるのは、シンジに何かを伝えようとする幻影あるいは過去のループのシンジの記憶のフラッシュバックと解釈することもできる。それが何なのかは見る者の解釈に委ねられ説明はされないが、それは必ず制服姿のレイなのだ。


レイの人間としての描写はかなり表現の幅が狭められているが、いわゆる白波、ぽか波、黒波にそれぞれ感情表現の微妙な違いがあったように、その感情の幅にはディレクションされた狭さがある。その人間の領域を狭く設定し、女性の内面のミステリアスな部分を増幅するように描くことで、結果的に人類補完計画の描写を支える基盤・足がかりとなっていたように思う。その人間の部分・人間外の部分の両者を表現するのに林原めぐみという存在が不可欠だった。中性的ではないが女性的すぎない、陽キャラではないが陰キャでもない、母性と神秘を秘める声と深みを醸し出す演技。庵野監督が言う「作りごとの中のリアル」を構築する最重要ピースとしての林原めぐみなのだろう。

TVシリーズ、旧劇、新劇特にシン劇場版のそれぞれのレイの描かれ方は微妙に異なっていて、そのどれもがミステリアスな魅力を放っているが、個人的には旧劇での人類補完計画遂行における器であり、個々の魂を導く(ワルキューレのように)役であり、最終的に保管計画の行く末を委ねられたシンジと溶け合っていたレイ、同時に巨大化して羽を拡げ月を掲げる姿に、神話的・元型的イメージの頂点を見るように思う。そこには元型的な女性像であるイヴ(ラテン語ではエヴァ)を呼び覚ます何ものかがある(ストーリー上でレイと繋がりがあるのはむしろリリスであり、神話で最初の女性とされるのもリリスのほうだが、これも諸説入り乱れているので深入りしないことをオススメする)。

冒頭に挙げたマライ氏の記事でも「しばしば現世的に理想化されながら語られる古代宗教の「大地母神」なるものの核心って実はこんな感じなのではないか? と思わせぬでもないあたりが素晴らしい。」と書かれているのが、自分が感じた神話的・元型的イメージと近いものがあると受け止めた。

後世の心理学者神話学者たちにはぜひ綾波レイという存在の分析研究をしてもらいたいものである。オイディプス的に解釈すれば「性交可能な母親の分身の発明」と捉えられるだろうが、それを更に遡る「根源的願望」たる人類補完計画の器となる存在、人類を神話へと進化させる女神の化身、新世代の大地母神、まだまだ新たな考察は可能だろう。そしてそこには、エヴァンゲリオンという物語全体の神話的かつ心理学的な女性性の元型的表現を一身に引き受けた林原めぐみの名前も刻まれることだろう。

林原めぐみのエヴァ関連歌唱についてもいつかまとめたいナ。


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