毎日を人生最後の日と思って生きる
ナラティブというキーワードが人間の意識にもたらす意味について、折りに触れ考えています。久々に、感動する本に出会えたのでご紹介します。
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http://www.nhk.or.jp/professional/2017/0306/index.html
上記より、終末期医療に取り組む小澤竹俊医師の言葉。
人生最後のときが近づくというのは究極の苦しみだが、その苦しみの中から、自分が生きてきた本当の意味に気づき、幸せとは何かを知るのだという。そしてそれは死ぬためではなく、患者さんが今を生きていくための支えになるのだと。
治療方法がなくなってから亡くなるまでの間に関わることを得意とする人があまりいないのです。言葉悪く言うと負け戦です。それは従来の病気が治ることが良い、治らないことは良くないという条件にすれば、ですが。非常に残念な物事の見方です。
決して負け戦ではない。ただ単に苦しむのではないのです。
苦しみを通して人は学びます。健康な時には気がつかなかった大事な自分の支えを。病気や怪我、困難や悲しみから学びます。学ぶのは患者さんだけじゃない。ご家族も、関わる私たちも学びます。
何気ないことが嬉しんですよ。健康な時には気がつかない家族の手の温かさや友人の言葉が嬉しかったり、聞き逃した音楽に涙を流したり、庭の何気ない花に心を打たれたり。そこで大事な何かに気づくのです。
その苦しみから何に気がつくかです。そして、また自分を取り戻すんです。どんな自分であったのか。痩せて、自分で自分のことができない自分の過去を振り返りながらまた、自分を取り戻すことができるのです。
これまで述べてきたように、死に対面した時、物質的価値観では「失う」という負け戦になってしまう。そこで、物語というナラティブな力の助けを得ることができれば、自分自身の人生に意味を与える、意味を見出すことができるのではないか。
これは言うは易しで、その人その人にとっての歴史があり「こんな時はこうすればよい」といった何らかの方程式やフォーマットがあるわけではない。ほんのちょっとしたことの中に、その人にとっての真実、その人にとっての人生の意味を見出すきっかけとなる「何か」があり、それは他の誰かが「こうですよ」と提供するようなものでもない。
そこに至るには、その人との関係の中で生み出される「空気感」のような信頼関係が必要なのでしょう。それだけに、多くの方を看取ってきた小澤医師の言葉には重みがあります。
小澤医師の著書『今日が人生最後の日だと思って生きなさい』はこの点からも注目の書籍ですが、実はこのタイトル、アップルの創業者のスティーブ・ジョブズが若い頃から自分に問いかけていた言葉でもあります。スタンフォード大卒業式における伝説のスピーチのなかでも『今日が人生最後の日だとしたら、自分のやっていることは本当にやりたいことなのか?と毎日問いかけるんだ』と、聴衆に向けて語りかけています。
この短いスピーチ自体が、ナラティブとも言える物語のパワーを秘めています。ここには激動の人生を文字通り駆け抜け、何度も世界を変えたスティーブ・ジョブズの、人生の重みのエッセンスが詰まっています。
スピーチの最後に、彼が死について語っているのは象徴的です。確かに、生前に蓄えたお金も名声も、物質的な財産も、何も我々は死後に持っていくことはできません。死の瞬間において、我々はどんな感情を、考えを、思い出を、価値観を持っていれば、自分の人生に満足して終止符を打ち、次の人生に向かっていけるのでしょうか?
ダマヌール市民で催眠療法家であるアナコンダ・パパヤ氏は、催眠療法中にクライアントから引き出した談話を総括して、ほとんどの人が「何かをしなかった」ことを後悔しており、「何かをした」結果、たとえ失敗したとしてもその決断を後悔している人はいなかった、と自身の経験を話してくれました。
死の瞬間にあって、私たちは「何かをしなかった」ことを悔やむよりも、「何かをした」が故に失敗した経験から得られたものを、人生の宝であったと思うことができるのならば、例えチャレンジと失敗ばかりの人生であっても満足できるのではないでしょうか?
そして多くの人にとって人生最後のチャレンジが死へと至る病気だとしたら、それまでの人生の成功失敗に関わらず、すべての成果をチャラにすべく病気は我々に迫ってくるのです。聖杯(グラール)の新しい形が病気なのだとしたら、私たちはどうしたらそれを乗り越えていけるのでしょうか?
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