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「短編小説」夏 痕

定年間近の老刑事、重松弘。彼の右前腕には傷痕があった。
遠い夏の日の出来事……その記憶が蘇る。

文字数:約8000字 推定読書時間:14分弱



1 座間警察署捜査課

 「覚えていますか?」

 重松弘がコーヒーを飲み終え窓の外を眺めていると、城崎拓哉が隣に立ちおもむろに訊いてきた。

 座間警察署捜査課の一室だ。2人して、丹沢山系の雄大な景色を眺める。

 「何をだい?」

 彼に視線を向けながら、重松が訊き返す。

 「あれは何年前でしたっけ? その右腕の傷……」

 「ああ、あの時の……」

 知らず知らずのうちに、前腕をさすっていたようだ。そこには古傷がある。

 「30年以上経ちましたかね? 私はあの時から、重松さんを警察官の手本として追いかけてきました」

 「おいおい、大げさだなぁ」

 苦笑する重松。だが、城崎は真面目な顔で続けた。

 「警察は犯罪者を取り締まるだけではない。人を救うのも仕事なんだ、と。あの時の少年は、道を踏み外すことなく成長していることでしょう」

 「え? 何があったんですか?」

 不意に後ろから声がかかった。芳本京花巡査。今年から配属された新人女性刑事だ。何事にも一生懸命で頑張り屋なので、まわりを元気にしてくれる貴重な存在となっている。

 城崎が視線を向けてきた。話して良いか、重松に確かめているようだ。

 時折袖をまくると見えるので、同僚の多くはこの傷を知っているだろう。彼女も気にしていたのかもしれない。

 重松は近々定年を迎える。娘以上に歳の離れた京花がどう思うかわからないが、隠すことでもない。軽く頷いた。

 「あれは、確か××年の夏だったな……」

 城崎が懐かしそうに話を始めた。



2 回想

 半グレのグループが、この地域で覚醒剤を派手に売りさばく時期があった。その魔の手は、中高生にまで伸びた。

 万能薬だよ、集中して勉強ができるようになる、元気になる、気晴らしにちょうどいい……等と上手い言葉で誘い、真面目な学生達も客として多く取り込んでしまった。

 その影響は徐々に地域を蝕んでいく。体調や精神に異常を来してしまう少年少女が増え、中には事件を起こしたり、自ら命を絶つような者まで出た。

 県警からも応援を得て、座間署の生活安全課と刑事課で薬物売買に関わる者達を一斉に摘発することになった。

 当時は若手刑事の重松と制服警官だった城崎も加わり、犯行グループの拠点を急襲した。

 幹部の1人が逃げ出した。重松と城崎の2人が追った。そして、近隣の林へ逃げ込もうとしたその男を取り抑えた。

 「観念しろ!」と男の腕を捻り上げ手錠をかける重松。その時、背後に気配を感じた。

 見ると、まだ中学生くらいの少年がいる。悲壮感が漂っていた。

 重松が振り向いたとたん、突進してきた。手にはナイフを持っている。狙っているのは、逮捕した男だ。

 「な、何をする?」

 重松は慌てて少年を止めようとした。だが、突然だったこともあり、彼の突き出してきたナイフを右前腕に受けてしまう。

 ぐぅ、と呻き声をあげながらも、重松は少年からナイフを取りあげた。

 慌てた城崎が少年を取り抑えようとする。しかし、重松は彼を止めた。幹部の男を連れて先に行け、と指示し少年と向き合う。背中越しに、このことは誰にも言うな、と城崎に指示した。

 少年は逃げなかった。ただ、連行されていく男を悔しそうな目で睨み続けている。

 「なぜ、あいつを刺そうとした?」

 重松が訊く。少年はきつく口元を引き締め、今度は重松を睨みつけてきた。



 黙って対峙する時間が続く。重松の傷は大きかったが、何とかネクタイで止血処理をしたのでしばらくは大丈夫だ。

 心配した城崎が1人で戻ってきた。しかし、2人の間の緊迫感に息を呑み、何も言えない。

 「君はまだ子供だが、今のは立派な殺人未遂だ。何があったのか理由を聞いておきたい。話してみなさい」

 「あいつは、姉さんを殺した……」

 低いが重く響く声で、少年が言った。怒りと悲しみ、悔しさ、いろいろな感情がその声に混ざりあっているのを感じた。

 詳しく言ってみろ、と促す重松。少年は躊躇いながら、そして時に言葉を詰まらせながら、ゆっくりと説明した。

 彼には中学三年生の姉がいた。成績が思うように伸びず、進学で悩んでいたらしい。そんな彼女に、あの男は近づいた。言葉巧みに薬を売り、優しく接して親しくなり、彼氏のように振る舞うようになった。姉もそれを歓び、一時期は毎日嬉しそうにすごしていた。

 しかしもちろん、そんなのはまやかしだ。

 本性を現した男は、友人達にも薬を売ることを強要した。姉自身の薬の量も徐々に増え、情緒が乱れていく。

 不審に感じた両親が病院へ連れて行き、薬物の事実が発覚した。入院することになり、警察の取り調べも受ける。

 純真無垢だった姉は、急変し続ける日常について行けず、最後は家族へ詫びる言葉を書き連ねた遺書を残し、病院の屋上から飛び降りた――。

 拳を握りしめ、涙を滲ませながら、少年はそこまで話した。

 重松も城崎も辛い内容に息を呑み、目を伏せる。

 「警察がしっかりしないから、あんなヤツらが悪いことをするんだろ? あいつらをあんた達がもっと早く捕まえていれば、姉さんは死なずに済んだんだっ!」

 少年の怒りは警察にも向いた。目の前にいる重松と城崎はまさにその象徴だ。激しい言葉が浴びせかけられた。

 2人とも、返す言葉が見つからず押し黙る。



 「姉さんが死んでからあいつを捕まえたって、何にもならないんだ。姉さんは帰ってこないんだよっ! だったら、せめて殺させろよ。なんで止めるんだよっ!」

 ついに少年は泣き叫んだ。

 くってかかってきそうな程の激情を迸らせる彼を、城崎が抑えようとする。それを、重松は手を上げて止めた。そして……。

 「すまなかった。本当に、申し訳ない」

 深々と頭を下げる重松。

 えっ……?!

 城崎も、そして少年も、驚愕して目を見開いた。

 「君の言うとおりだ。我々警察がもっとしっかりやっていれば、救うことができた人はたくさんいるだろう。すまなかった」

 「重松さん……」

 城崎は何か言おうとするが、言葉が見つからないようだ。簡単に警察の非を認めるような発言を咎めたかったのかもしれない。いずれにしろ、重松が目を見て頷くと、そのまま押し黙った。

 「君の悔しさや警察に対する怒りも、そして、お姉さんの悲しみも辛さも、ここにしっかりと刻み込ませてもらった」

 刺された右腕を示す重松。少年の視線が、その傷に向けられる。瞳が震えているのは、まだ怒りが強いのか、それとも悲しみか?

 「だから、ここまでにしておいてくれないか?」

 「え……?」と少年の掠れたような疑問の声。



 「あんな男を殺すことで、君のこれからの人生の、様々な可能性を閉ざすことはない。きっとお姉さんもそう思うんじゃないかな?」

 「それは……」少年の瞳の揺れが大きくなる。

 「君のお姉さんはとても不幸な目に遭って死んでしまった。もう戻っては来ない。だから、お姉さんが悲しむとか言われても、きれい事だと思うかい? でもね、こう考えてみてくれないか? あの男を殺しても失われた命は戻らない。しかし、君が忘れない限り、お姉さんが生きていた証しは消えない。命は失われても、その存在は君や残された人達の胸に生き続ける。いつでも思い出せば、会うことはできる。そんな時、君が仇を討ってあの男を殺したことを、喜んでくれると思うかい? そのために君が残りの人生を殺人者としてすごすことを、悲しまないと思うかい?」

 「そ、そんなこと……。そんなこと……」

 少年は戸惑っている。怒りも疑問もその表情からは消えていない。しかし同時に、大きな迷いも垣間見える。

 「この腕の傷を見るたび、この事件のことを思い出すだろう。そして君のお姉さんのことを悼み続ける。警察の力が足らずに犠牲にしてしまったことを詫び続ける。約束する。だから、君はここまでで、その怒りのやいばを収めてくれないか。悪に対する強い怒りがあるのなら、それは別のかたちで発揮して欲しい。そして、君の中で生き続けるお姉さんを喜ばせてやってくれないか」

 もう一度深く頭を下げる重松。

 「そんなこと言われたって……」少年は後退った。声が震えている。瞳からは涙が零れ続けていた。「そんなこと言われたって、わけわかんないよっ! ばか野郎っ!」

 最後に叫ぶように言うと、少年は走り出した。そして、あっという間に去っていった。



3 座間警察署捜査課

 結局あの少年とは、二度と会うことはなかった。

 「その人も立派な大人に成長している、って信じたいですね。いえ、私は信じます」

 京花が神妙な顔をしながら言った。

 「俺もだよ」と城崎が大きく頷く。「直後は、少年の身柄を抑えるべきかとも思った。でも、重松さんの話で彼は踏みとどまったんだろう。あれで良かったんだ。身柄を抑え形式的に取り調べて、情状酌量の余地はあるとしても何らかの罪に問うていたら、また違う道に進んでいたかもしれない。法や規律、規範は大切だけど、時にはそれを外れて対応した方が良いこともある。その見極めをきちんとできるのが、刑事として必要なことだと教えられた……」

 「私も今、しっかりと教えていただきました」

 ニコッとしながら敬礼する京花。その仕草に、重松も城崎も微笑む。しかし……。

 「だからこそ、私、決めました」

 「え? 何を?」

 怪訝な顔をする城崎。

 「署名です。やっぱり、重松さんが監察を受けるなんて納得いきませんから。署の人達もみんなそう思ってるじゃないですか。皆がどれだけ重松さんを信頼しているか、訴えかけてやります」

 意気軒昂に語る京花。

 実は、現在重松は、ある行動が問題視され監察の対象となっていた。

 「いや、やめなさい」慌てる重松。「監察官に睨まれたら、警察官としての将来が閉ざされてしまうよ。私なんかのことはどうでも良いから……」

 「どうでも良くありません。窮屈な警察組織に居心地の悪さも感じていたんです。場合によっては、ここでの将来なんてなくたっていいです」

 「おいおい、せっかく刑事になったというのに、もう嫌気がさしたのかい? 京花ちゃんは良い刑事になれると思うから、もうちょっと辛抱して頑張ってほしいけどね」

 城崎が苦笑しながら言った。

 「重松さんの監察がどうなるか次第で、私も身の振り方を考えるかもしれません」

 意地になって言う京花。

 やれやれと思いながら、重松はまた窓の外に視線を向け、丹沢山系を眺めた。



4 神奈川県警察本部 監察官室

 数日後、重松は監察のために呼び出しを受け、神奈川県警察本部へ赴いた。

 監察官室に入ると、目の前には3名が並んで座っている。対面にイス。そこに座るように促された。まるで取り調べだ。実質その通りなのだが……。

 「監察官の片桐恒彦です」

 中央に座る男性が言った。非常に鋭い目つき、冷徹さを感じさせる表情だった。その名を聞き、重松は顔には出さないものの内心驚いた。

 県警監察官室の氷の刃――その異名は広く知れ渡っている。

 鋭利な刃物のごとく、規律違反の警察官を容赦なく斬る男。不正を微塵も許さず、誰であろうと苛烈に断罪する。

 片桐はキャリアだ。警察庁から派遣され、いずれはそこへ戻り日本の警察組織の中心の一人となる男に違いない。神奈川県警の監察官室に一時期身を置くのは、警察庁長官官房首席監察官の任に着くのを目指しているからではないか、と言われている。

 それほどの男が、地方の所轄にいる老刑事の監察を……。

 息苦しさを覚えるほど緊張した。そのため、他の2人も名乗ったが頭に入ってこなかった。

 「まず最初に、これですが……」

 片桐の手に冊子があった。それをデスクに叩きつけるように置く。バンッという音が響き、重松は思わず身震いした。

 「芳本京花という巡査が発起人らしいですが、あなたがどれだけ信頼の置ける人物かを訴え、監察の対象となるのは間違っていると記され、100名を超える警察官の署名がしてあります」

 京花の顔が思い浮かんだ。彼女は本当に署名を集め、提出したのか……。

 「芳本巡査には、あなたからも言っておいてください。このような物で監察に影響を及ぼすことなどあり得ない、と。我々は明らかになった事実のみを判断の基準とします。署名など、例え何万人集めたとしても無意味です」

 キッパリと言い放つ片桐。両隣にいる2人の監察官達が、一瞬哀れみのような視線を重松に向けた。

 そして右の男性が「本題に入りましょう」と告げる。左の男が頷き、質問を開始した。



 「重松弘巡査部長、あなたは、座間市内の『倉木医院』の院長、倉木昭秀氏に、座間警察署捜査課が調べていた『人材派遣会社アクア』に関する捜査情報を流した。これは事実ですか?」

 「事実です。しかし、捜査情報全てを伝えたわけではありません。また、その情報を倉木医師が悪用することはないと信じておりましたし、それは今も変わりません」

 「あなたの主観は関係ありません。事実のみを述べてください」

 ピシャリ、と左の男が言う。片桐の表情は全く動かない。何の感情も感じさせない瞳で重松を真っ直ぐ見続けている。

 「失礼しました」と頭を下げ、続きを待つ。

 「あなたにとって、倉木氏は主治医と言って良い存在でしたね?」

 右の男の質問が来る。

 「はい」と応える重松。自宅が近いこともあり、自分だけでなく、妻も2人の子供達も、長年世話になっているのは事実だ。

 「その人物がアクアと係争中であることは、知っていたんですね?」

 「はい」

 「どのようなかたちで知りました?」

 「倉木医師本人から相談を受けました。名目上人材派遣会社となっているアクアが、契約するホームレスと思われる人々を、ケガを負ったとして何名か送り込んできた。必要ないのに強引に長期入院をさせるよう迫り、断ると脅迫や嫌がらせのような行為をする、ということでした」

 アクアは悪質な企業だ。裏では反社会勢力とつながっているという噂もある。倉木医師への入院強要は、巧妙な保険金詐欺の疑いがあった。

 ホームレスや一人暮らしの障害者等を巧みに騙し契約させる。その際保険会社とも契約を行う。そして、無茶な仕事場に送ってケガをさせたり体調不良にさせる。通院や投薬で済むのに入院に持ち込み、代理人として保険金を詐取するのだ。



 倉木医師は毅然として対応し、要請に応えることはなかった。するとアクアは、別の小さな医院の言いなりになる医師のもとに、入院させなかった患者を連れて行った。

 倉木医院で入院を拒否されたため悪化した、という偽りの診断書を書かせるためだ。それを元に、アクアは顧問弁護士を使って倉木医師を訴えた。協力しないなら訴訟に持ち込んであわよくば賠償金を得よう。そこまでいかなくても、悪評を怖れて示談金くらい払うはずだ、という算段があったのだろう。

 「アクアが悪徳企業かどうかは、今は関係ありません。あなたは、本来外へ漏らすべきでない、アクアに関する捜査情報を流した。その行為について、あなた自身はどう思いますか?」

 右の男が切り込んでくるような口調で言った。中央に座る片桐の目が、ぎらりと光ったような気がする。このように、左右の男がきびしく詰問し、片桐はそれを見据える、という感じでやり取りは進む。

 「倉木医師は悩んでいました。常からの医療行為だけならともかく、裁判への対応や、密かに続けられる嫌がらせ行為等で疲弊の色も濃かった。彼は地域の医療や福祉のかなめでもありました。個人病院ながら数名の医師を率い、入院病棟も持ち、近隣の高齢者や障害を持つ方達などを率先して受け入れていた。倉木医院がトラブルに巻き込まれるということは、あの地域に住む人々にとっても大きな災厄でした。なので、倉木医師一人を助けるということだけではなく、地域の治安を揺るがす悪徳業者への対抗措置として、協力関係を築く必要があると考えました」

 「それを判断するのは、あなた個人の役割ではない」

 「もちろん、課長にも事情を伝えました。事後報告にはなりましたが」

 「事前に話をし、判断は然るべき立場の人間に委ねるべきだった、と思いませんか?」

 確かにその通りだ。しかし、その時倉木医師は限界を迎えていた。すぐにも、踏ん張ればいずれアクアを検挙する流れがくると励ましたかったのだ。実際、倉木はその後しっかりと裁判の場で悪意ある訴えに立ちむかっている。捜査課も徹底的にアクアを追求し、代表者の検挙も視野に入ってきた。

 「職務規定上はそうだと思います。しかし、その時は、そうすべきだと確信しました。それは、私の個人的信条によるものであるのは確かです。それをどう捉えるかはお任せします。違反行為として何らかの処分が必要とされたなら、従います」

 そう応えるしかなかった。重松は真っ直ぐに片桐を見つめる。彼も強い眼光で見つめ返してきた。



5 座間警察署捜査課

 更に数日後、重松が捜査課で書類整理をしていると、京花が仏頂面でやってきた。

 「どうしたの?」

 「これですよ」と彼女は冊子をデスクに置いた。憤慨しているようで、ダンという音が強く響く。

 例の署名の冊子だった。その上に一枚の紙がつけられている。赤で大きく「不要」と書かれていた。

 こんな物で監察に影響を及ぼすことなどあり得ない――そう断言していた片桐の顔が思い浮かぶ。

 「わざわざこんなふうに送り返すなんて、酷いと思いません? 氷の刃だか何だか知りませんが、人の気持ちを何だと思っているんですかね?」

 怒りを顔一面に浮かべながら、京花が言った。そして、一通の封書を重松に差し出す。

 「一緒に入れられていました。重松さん宛みたいです」

 手書きで「重松弘様」と書かれている。差出人には「片桐恒彦」。

 重松は息を呑んだ。一体何だ?

 「もしかして、監察の結果の通知ですかね?」

 表情を強ばらせながら、京花が訊いてくる。

 「いや、それなら署長宛に届くだろう。もしくはまた呼び出されて、直に言い渡されるかのどちらかだと思う」

 「じゃあ、どうして……?」

 首を傾げる京花に「まあ、見てみるさ」と応えて封を開ける。

 便箋が一枚出てきた。手書きだ。達筆だった。



 『重松弘 様

 先日はわざわざ県警までご足労いただき、ありがとうございました。

 今回の監察に関しましては、実施されなかったことにいたします。先日の面談は、単に事情を伺っただけとして処理します。

 私は、重松様の警察官としての信条につきましては、すでに存じ上げているつもりです。

 そう、あの、××年の夏の日に――。

 覚えておられますでしょうか?

 あの折、重松様にケガをさせてしまった上、罵声を浴びせて逃げてしまったこと、大変遅くなりましたが、深くお詫びいたします。

 現在は監察官室の一員という立場ゆえ、軽々とご挨拶できないことをお許しください。

 聞けば、重松様は、次の年度末をもって退職なさるとのこと。できましたらその後すぐにでもお目にかかり、人生の恩師としてお話を賜りたく存じます。

 その時を楽しみにしております。

 重松様の、長年の警察官としてのご尽力に、心より敬意を表します。

                           片桐恒彦』

 あの時の少年が……。

 片桐の顔と、遠い過去に見た少年の顔が重なる。便箋を持つ手が思わず震えていた。

 「重松さん?」

 京花が心配そうにのぞき込んでくる。

 「芳本君……」

 「はい?」

 「警察の仕事も、捨てたもんじゃないぞ」

 そう言って、重松は窓の外に目を向けた。

 相変わらず丹沢山系が見える。その姿が、いつも以上に雄大に感じられた。

                                 Fin

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