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70年代に聴いて影響を受けたアーティスト達 邦楽編 その1

こんにちは、Hideです🎵

私が一番多感で感受性の強い時期だった、中学生から高校生そして20代前編頃に聴いていたアーティストやバンドを古い順番に紹介していきます。

これまでも、テーマを変えて、70年代〜80年代の音楽を洋楽邦楽問わずお話ししてきましたが、今回はアーティストやバンドについて書いていきますので最後までお付き合い下さい。

若き日の西城秀樹 歌謡界に初めてロックテイストを取り入れた激しいライブパフォーマンス
日本のデビットボウィと呼ばれ奇抜なファッションと驚くような演出でファンを魅了したジュリー
男臭いロックティストを日本のお茶の間に届けたツイスト

西城秀樹 日本の歌謡界にロックを取り入れたシンガー

まだ自分が本当に子供で小学4年生の頃に、テレビを観てヒデキの野生的な魅力に取り憑かれましたね。

最初に買ったヒデキのレコードは「激しい恋」で当時歌謡曲全盛の時代日本では珍しいサウンド作りがされたダンサブルな曲でした。

思春期の少年が悪さを覚えていく様子が描かれていて、子供だった私には、刺激的でしたね。

昭和の歌謡界の中で、”新御三家”と呼ばれ、郷ひろみ・野口五郎とアイドルとして活躍していました。

その中でも郷や野口とは、一線を画してロック路線をヒデキは走っていたように見えました。

子供の頃から、自分の心の中でロックというものに興味を持ってしまったきっかけを作ってくれたのが西城秀樹だったように感じます。

「傷だらけのローラ」や体で文字を表現する「ヤングマン YMCA」、叶わない不倫の恋を描いた「ブルースカイブルー」等数々の名曲を世に送り出しました。

マイクスタンドアクションで歌う「薔薇の鎖」なんかは、特に影響を受けました。

当時ビデオのない時代でテレビの前に齧り付いて、そのアクションを覚えましたね。

歌謡界に身を置きながら、海外のアーティストの演出を取り入れて、野外コンサートなど他の歌謡曲の歌手がしないことをしていたのもヒデキでした。

外国人ロックアーティストのライブを観に行き、マイクスタンドの材質を確かめる為、こっそりステージ裏に忍び込んだこともあるそうです。

父親もジャズギタリストで、子供の頃から、音楽に触れていたヒデキ少年は、中学生のからロックに目覚め、高校時代プロを目指して、親から反対を受けたので、広島から夜汽車に乗って、家出し上京してきたそうです。

なんかどっかの誰かに、出身地や上京の仕方も似ていますよね〜

映画やドラマでも活躍し、日本の音楽界にそれまでとは違う影響を与えた功績は大きいと思います。

本当、子供の頃にロックへの扉を開けてくれた西城秀樹は、私が最初に憧れたロックスターでしたね。

2023年5月16日63歳で逝去 黒頃からご冥福をお祈り致します。

沢田研二 奇抜なファッションセンスと美貌を持ち合わせた実力派エンターテイナー

西城秀樹に出会い激しいロックの音楽に目覚めてから、3年後に歌が上手くてイケメンで、これまでにないファッションや演出をして私の心を揺さぶる歌手に出会いました。

1960年代後半に流行したグループサウンズ出身の歌手沢田研二です。

中学1年生になった時でしたね。以前からテレビで歌は聞いていましたが、なんか中性的な感じでそれまでは興味を持ちませんでいた。

しかし、イケメンで艶のある声と派手な演出、男性でもメイクをするといった海外のデビットボウィみたいで格好良かったのです。

そして、前述の秀樹との違いは、GS出身ということもあって、昔のGS仲間をバックバンドにつけていて、そのキーボードメンバーが作曲を担当していました。

そう当時人気だったドラマ「太陽にほえろ」のテーマ曲などを演奏していた、井上堯之バンドと一緒にやっていたのです。

それは他の歌謡曲とは違ってきますよね。

西城秀樹は、作家の方が作った楽曲を歌っていましたが、沢田HA、バンドメンバーの大野克夫氏がほとんど作曲していましたからね。
沢田本人作の曲もありましたが、とにかく歌謡界あっても一線違うものを感じましたね。

古くからテレビで活躍していた沢田でしたが、当時日本のロックフェスの走りとも言える、1974年に福島県郡山市で行われた”ワンステップフェスティバル”にも出演していたくらいですから。

とにかく曲も良かったし、歌も上手いSI、観ていて楽しませてくれた歌手でした。

レコードも買ったし、地元の県民会館まで足を運んで生で観ましたからね。

その時中学生でしたが、初めて生でプロの歌手のコンサートを観ましたが、ブラウン管を通してみるのとは違う!と感じ強い衝撃を受けましたね。

沢田研二は、じっくり良い曲を聞かせてくれて、おまけに視覚的にもあっと驚く演出も観せてくれる、まさにエンターテナーでしたね。

今でも沢田研二から受けた影響は大きいと感じています。

TWIST 日本のお茶の間に日本のロックを届けたバンド

今でもミュージシャンや俳優としても活躍している世良公則が中心になってお茶の間に日本のロックを鮮烈に届けてくれたのがTWISTでした。

西城秀樹をもっとワイルドにした歌い方と、日本人が歌う少し演歌の雰囲気も交えているが、ロック色も強い、そんな曲をテレビを通して観せてくれました。

空手をやっていたという世良公則のワイルドなアクションと、しゃがれた声、男臭い雰囲気だが、イケメンだったので、若い女性から瞬く間に人気を得ました。

私も当時中学生でしたが、よく世良公則の歌を真似するとクラスの女子からウケましたね。

ただし、顔が世良とは違うので、そこまでめちゃくちゃモテたわけではありませんでしたがね(笑)

日本のロックを日本全国に広げた功績は大きいと思います。

ヤマハのポプコンの出身だったので、音楽的にも優れていました。

作詞作曲は、ボーカルの世良が作っていて、ロック色は強くても化粧品のCMソングに起用されるほどポップかつキャッチーで、聞きやすく耳に残るメロディーラインでした。

シングル曲もヒットチャートの常連で、当時のテレビの人気ランキング番組だったTBSの「ザ・ベストテン」にも常連のように出演していたし、1978年に10週連続1位を「銃爪 ひきがね」で記録を打ち立てました。

それだけ当時の彼らは凄い勢いでしたね。

ちょっとマニアックな話をさせてもらうと、彼らの曲は世良自身が詩と曲を製作していましたが、後から聴くと結構斬新な試みをしていたのです。

彼らの2曲目のシングル「宿無し」でそれは披露されました。

当時TWISTのベーシストだった鮫島秀樹(後にHoundDogに加入)が、バンドのアレンジをほぼ担っていたそうで、イントロや間奏、ギターのアレンジもアイディアを出していたそうです。

ベースギターには、チョッパー(スラップ)奏法というのがあって、要は弦を引っ張ってそれが戻るときにネックというのにぶつかってバチンバチンと弦とネックがぶつかる音がするのです。

基本ロックでは、使われない奏法でしたが、ベーシスト鮫島のアイディアで、外国のファンクというジャンルからパクって遊び心で取り入れたそうです。

それが右音にはまり、格好良く聴こえるのです。

宿無しはシンプルなロックンロールでしたが歌の部分にチョッパー奏法を織り交ぜることにより、今までに無い絶妙なスパイスになっていました。

それって、何気に曲の雰囲気がガラッと変わって聞こえるのですよ。

意外と聞き流してしまいますが…その後も杉山清貴とオメガトライブの大ヒット曲「二人の夏物語」にもその手法が取り入れられて、曲にちょっとしたアクセントを付けています。

そうやって、誰かがやったことが、のちの音楽にも引き継がれていきのですね。

話はそれましたが、ワイルドなアクションとしゃがれ声のTWISTのロックにも大きく影響を受けたのも間違いないです。

それに世良は、歌や曲作りだけでなく、昨年の紅白で観せたようなギタリストとしての腕もピカイチです。やはりセンスが良いのですね。

驚くことにこの人も広島県出身です。大学は大阪ですが。

私も世良のように歌って曲も作れて巧みにギターを弾けるミュージシャンになりたいと思っていました。

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