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”変数X”とは何か? 『ハドソン川の奇跡』を起こしたものの正体を再考する

手元にあるメモ帳を整理していたところ、映画に関するいくつかのメモが出てきた。その中に2016年公開のクリント・イーストウッド監督作品『ハドソン川の奇跡』に関する論考があったので、若干の編集を加え、ここに公開してみたい。

イーストウッドの持つ、俳優としての顔と映画作家としての顔の連続性

クリント・イーストウッド。俳優業と監督業を通して、映画という表現様式に異なる角度からアプローチしてきた人物である。
しかしイーストウッドにとってそれら二つの兼業は、単に「二足のわらじを履く」ということとはわけが違う。自らの俳優としてのキャリアを踏まえ、それに対する批評的な言及性を伴いながら監督としてメガホンを取る。イーストウッドの内で俳優業と監督業は、技術的な次元のみならずもっと深い次元においても明らかな連続性を有しているのだ。
では自らの俳優としてのキャリアを批判的に踏まえた、イーストウッドの監督としての作家性とはいかなるものなのか?

映画作家としてのイーストウッドの作風をごく大雑把に概括するなら、それは「人間の倫理的葛藤を鋭く描く」というものである。
『ダーティーハリー』シリーズに顕著なように、イーストウッドが俳優業を通して演じてきた役柄の中にはアンチ・ヒーロー然としたものも少なくない。それらは従来のヒーローの偽善を告発する者としてギラギラした輝きを放つ一方で、血なまぐさい暴力を行使する蹂躙者として表情を暗く翳らせてもいる。そしてその両義性を何の留保もなく丸ごと肯定できるほど、イーストウッドは無邪気でも無思慮でもなかった。
したがって映画作家・イーストウッドの描き出す物語には、アンチ・ヒーローたちの浴びてきた返り血とそれに対する苦い認識がじっとりと染み込んでいるのである。

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『ダーティハリー』(1972)


「人間の倫理的葛藤」が重要なテーマとなるのは、イーストウッドのキャリアの歩みからしてごく自然な成り行きであったと言える。そして登場人物たちの置かれる状況は、「より先鋭的な形でのテーマ追求」という目的の下、作品を追うごとに苛烈さを増していった。
登場人物たちの葛藤を極大化するような設定とリアリティ溢れる演出によって醸成される緊張感・切実さは、スクリーン内部での完結性を放棄し、スクリーンのこちら側で現実を生きる我々観客にまで生々しく伝播する。


『ハドソン川の奇跡』において追及される「人間であることの業」

本作『ハドソン川の奇跡』においてもイーストウッド監督作品の通例通り、やはり「善とは何か」「正しさとは何か」といったテーマが極限状況下において吟味される。だが本作における倫理的吟味は、過去作において繰り返しなされてきたそれとはいささか質を異にしている。
というのも本作においては「(トム・ハンクス演じる)サリー機長が危機的状況の只中で経験に基づいて下した判断の是非が、アルゴリズムに基づくシミュレーションによって裁かれる」という基本構図の中で、そうした吟味が行われるからである。つまりそれは「人間的営みの圏内における倫理的吟味」という射程を超え、「人間的営みそのものの吟味」という意味をも帯びているのである。

冒頭付近、機長とジェフ副操縦士が並んで真冬の夜の街を歩くシークエンスにてイーストウッドは、我々が生活を営んでいるところの「現実」というものへの確信が揺らいでいる旨を機長の口から表明させているが、これはおそらくイーストウッドが「人間そのものの吟味」の序奏として用意したものではないかと考えられる。

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真冬の夜の街を並んで歩くサリー機長(左)とジェフ副操縦士(右)


尚、このシーンにおいてもう一つ重要な点は、隣を歩く副操縦士が機長の不安を打ち消すように「おじさん2人が凍えながら歩いているのが現実さ」と応答するところだ。ここには、彼らの立ち位置の差異が見事に集約されている。機長と副操縦士は同じ苦境に立たされているが、機長が「自分たちの判断の正当さを信じたい(が信じきれない)」のに対し、副操縦士は「自分たちの判断の正当さを信じている」というように、その心境は異なっており、それがドラマをより奥深いものにしているのだ。


さて「人間的営みそのものの吟味」は、公聴会のシークエンスにおいてクライマックスを迎える。

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公聴会に出席しシミュレートの模様が映されたモニターを見つめる二人


まず「前例のない状況ゆえの、判断タイミングの遅れ」を考慮したシミュレーションの結果、事故発生当時に空港への帰還が不可能な状況であったことが判明する。だが、それ自体は機長の判断の正しさを必ずしも意味しない。というのも通常、緊急着水が成功する(ここでは成功を「乗客・乗組員の内に死傷者が出ないこと」という形でひとまず定義する)確率は極めて低いからだ。だが結果として、機長は賭けに勝った。
そのことに関して機長は諮問機関の女性から、アルゴリズムでは導出し得ない奇跡を起こした変数X=「技術的熟練に裏打ちされた判断の妙」を褒められる。だが彼は女性の言葉を否定する。「自分一人の判断が功を奏したわけではなく、副操縦士を始め、CA、乗客、レスキュー隊がそれぞれ力を合わせた結果、乗客全員が生還できたのだ 」と。変数Xは自分だけでなく、全ての人間であり、その判断・行動次第で状況はどうにでも転び得るというわけだ。
これにて「人間的営みそのものの吟味」は完了する。まず「アルゴリズムに対する、機長という人間の判断の優越」が証され、次いで「機長一人の判断に対する、全ての人間の秘める可能性の優越」が、機長自身の口から確信に満ちた口調で(これが重要!)表明されるという流れになっている。


未決定的であるがゆえの危うさと豊かさ

そろそろ結びといこう。本作『ハドソン川の奇跡』はデータに還元し得ない「未決定的な人間」の勝ち取った奇跡を描いた作品であり、そうした意味で究極の人間賛歌であると言えるのではないか。
本作がイーストウッドの過去作、たとえば『許されざる者』や『ミリオンダラー・ベイビー』等における問題意識を踏襲していながら、その後味を大きく異にしているのは、「葛藤」を描くことから一歩踏み出して「希望」を描いた作品であるからだろう。もちろん希望を描いたからといって問題が消失するわけではないし、イーストウッド自身そんなことは百も承知であろう。だが、そこに一つの打開可能性が示されたという事実は重要である。そして苦境の打開を可能にするのは「善性」とか「愛」といった抽象的でスタティックな要素ではなく、「未決定性」という具体的にしてダイナミックな要素であるわけだ。
プログラミングされた機械と異なり、人間は未決定な存在であるがゆえに、その行いは想定外の悪い結果を招くかもしれない。だがそれは同時に、奇跡に対しても開かれている。そしてイーストウッドは個人の決意と行動の連鎖が奇跡を起こす可能性に賭けているのだろう。

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