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沈黙 -サイレンス-/マーティン・スコセッシ監督

マーティン・スコセッシ監督の『沈黙‐サイレンス‐』を見ました。自分は「信仰」というものを一切持たないのですが、10代の半分以上の時間をカトリックの、それもイエズス会の外国人神父がいる環境で過ごしたので、ある「信仰」というものが人間の中に存在するという感覚は、少なからず体に染み込んでいたりもします。
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映画のはじめの方で、ポルトガル人宣教師ロドリゴとガルペが、キチジローに「私たちの言葉がわかるのか?」と「英語」で訪ねた時は、さすがに映画館の椅子からずり落ちそうになりましたが、最後まで見てみれば、ある種「翻訳文学」として示される『沈黙』は(おそらく日本語で書かれた原作より)、その距離感がほど良い位置にあり、台湾で撮影されたという、微妙に日本の風景でない「17世紀の日本」の描写と相まって、この映画が「信仰」を持たないものあるいは「異なる信仰」を持つ者にとっても普遍性を持つ、「人間」について、あるいはその「弱さ」について描いた作品になっているように、日本人である私は思うのです。それはある種の信仰(これは宗教としての意味だけではないと思いますが)の「傲慢さ」の裏返しでもあり、スコセッシ監督は現代的視線でそのことを鋭く捉えているとも感じました。

この映画では特に日本人俳優陣の好演が光りましたね。井上筑後守を演じるイッセー尾形さんや、通詞の浅野忠信さん、モキチ訳の 塚本晋也さんは特に凄かった。こういうのは映画監督の能力なのです。恐るべしマーティン・スコセッシ。それにしてもスコセッシ監督が描く日本という国の「沼」という概念描写はかなり恐ろしいものですね。現代の日本にも通じているように思えます。自身も元キリシタンであった「井上さま」がこれほど酷い拷問に手を染めること。

監督:マーティン・スコセッシ  出演:アンドリュー・ガーフィールド | アダム・ドライヴァー | 浅野忠信
2017年1月31日鑑賞


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