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壁は語る/カルロス・サウラ監督

先週の「情熱の王国」(2021年)に続き、カルロス・サウラ監督(1932〜2023年)の遺作となった「壁は語る」(2022年)を見る。一見すると古代の洞窟壁画と現代のグラフィティーを繋ぐドキュメンタリー映画と思うかもしれない。

「壁は語る」はドキュメンタリー映画ではあるが、例えばほぼ同世代のフレデリック・ワイズマン監督(1930年生まれ)の系譜(?)のような「静的な」それとは対照的に、監督自身が映画に主演しながら「興味対象に向かって」ぐいぐいと突き進む、そんな演出となっている。メキシコで撮影された前作「情熱の王国」では、「監督・制作側」をフィクションに据え、その物語には多分にドキュメンタリー要素を取り入れた映画(ミュージカルが形作られる過程自体はリアルな若者たちの葛藤であろう)となっており、つまり映画における演出(監督)の位置が今回の「壁は語る」と「対」になっていると考えて良いはずだ。

さて「情熱の王国」の中でサウラ監督は、若者たちのアイデンティと情熱とを代弁させるべく、あるいは象徴として「壁画」を映し出しているわけだが、むろんそれは「メキシコ壁画運動」を想起させるだろう。おそらくこの映画の製作で見出された「壁画」の概念が、同時期に進められたであろう「壁は語る」の導入となったと、まずは考えられる。翻り現代スペインの都市の、建築・建造物の壁面に描かれた「グラフィティー」、そのスプレー缶とモダンテクニックとで描かれるビジュアルイメージの源泉とは何か。「とりあえず」ここで軸線が引かれたのが古代洞窟壁画ということになろうか。有名なアルタミラ洞窟はスペインにあるのだから。

そういえば「情熱の王国」も「壁は語る」も、そのオープニングロールに絵コンテのような、サウラ監督自身が描いたインクと水彩の魅力的なスケッチを配している。映画本編が映画監督の「思想」であるとするならば、これらのスケッチはサウラ監督自身の映画と不可分な「思考の過程」としてそこに刻まれているはずだ。さらに「壁は語る」では、サウラ監督は(スチル)カメラを持ち歩き、スナップを撮っているのが確認できる。彼の「写真」も映画に挿入されているのはかなり特徴的だ。

古代洞窟壁画は「絵画」の起源とも「映像」の起源とも言われる。19世紀の写真/映像の定着術の発明によって、「絵画」から分離された「写真」という映像表現も、20世紀中盤には、再び絵画表現に還流されることになる。ここで、抑圧された近代都市/壁への落書きから「グラフィティー」という表現が「アート」に取り込まれていく過程、例えばキース・ヘリングとかジャン=ミシェル・バスキアとか、そういう「あれこれ」に興味を示すことなく、代わりにサウラ監督が映画に引いてきたのは、現代スペインを代表するアーティスト、ミケル・バルセロ(1957〜)であったりする。

自分はコロナ禍の東京で開催された「ミケル・バルセロ展」は見逃しているが、表現主義的な画風で知られる彼のアトリエの窓全面に、泥のような素材でおそらく手を使って描かれたであろうプリミティブな造形が目に飛び込んでくる。バルセロはサウラ監督との対話の中で、近年は洞窟壁画の表現に回帰/興味を持っていることを打ち明ける。

ただサウラ監督が、アーティストのミケル・バルセロやフアン・ルイス・アルスアガという思想家を取材しつつも、おそらく一番興味を持って接していたのはSuso33を始めとした「街場の」グラフィティー・アーティスト/クリエイターたちであるようだ。壁に描くとは何か、壁が語るものは何か。メキシコからスペインへと若い世代に目を向けながら、「壁画」というメディアを通じて、「最後の」映画を撮り終えたサウラ監督の思想がここにあるはずだ。フランコ政権に強く反発したカルロス・サウラ監督の。


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