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ルイス・ブニュエル監督特集より「昼顔」他

美術の人間からすると、ルイス・ブニュエル(1900〜1983)といえば、まずはサルバドール・ダリとの共同監督作品「アンダルシアの犬」(1928年)だろうか。ブニュエルはシュルレアリストなのだ。映画冒頭の女性の眼球を剃刀で切り開く衝撃的シーンはとりわけ(これだけが?)よく知られているが、その後の映画監督ブニュエルについては、少なくとも美術の枠では言及されることはほとんどない。

今回のルイス・ブニュエル監督特集で上映された後期作品6本のうち、「昼顔」(1967年)「哀しみのトリスターナ」(1970年)「自由の幻想」(1974年)「欲望のあいまいな対象」(1977年)の4本を見た。

一般的にはヴェネツィアで金獅子賞を取った「昼顔」(Belle de jour)が有名だろうか。カトリーヌ・ドヌーヴが主演する映画で、ひと言でいえばセヴリーヌが娼婦となり売春宿で働く話である。客を取るのが2時から5時まで限定だから「昼顔」。夫は医者で上流階級、優しく申し分ない人物である。若妻セヴリーヌは不感症ということになっていて、しばし悪夢を見るのだが、彼女を抑圧する過去のトラウマの克服のために娼館に入るという、それだけ聞けばなんのことだかよくわからない代物ではある。映画の質からすれば、同じくドヌーヴ主演の「哀しみのトリスターナ」の方が格段に高く、面白さ、否馬鹿馬鹿しさに及んでは「自由の幻想」が数段もぶっ飛んでいる。なんとなくこういうフロイト主義的な精神分析的な思考を良しとする風潮が、当時のフランスに活気を与えていたこともあろうか。

しかし例えばマノエル・ド・オリヴェイラ監督も「昼顔」から40年後のセヴリーヌと夫の友人アンリとの再会をテーマに「夜顔」(原題はBelle toujours -「つねに美女」を意味する)という映画を撮っているぐらいであって評価は高いのだ。実はアンリはブニュエルの「昼顔」でも鍵となる人物ではあって、セヴリーヌの不義の秘密を手に、夫(半身不随の)のもとに訪れる…というところで映画が瓦解する仕組みとなっている。セヴリーヌのトラウマは解消されはするのだが、そもそもどこまでが夢でどこまでが現実なのか、とかく不確かな現実なのだ。

オリヴェイラ監督の「夜顔」は、そのブニュエルの曖昧さを引き継ぎ(あるいは逆手にとって)、未亡人となったセヴリーヌを、アンリがネチネチ口説くやりとりが映画の主題となる。ちなみにアンリは「昼顔」と同じミシェル・ピコリが演じ、セヴリーヌの方はドヌーヴの代わりにビュル・オジエが演じる。映画のラストは何故か扉の後ろを「立派な雄鶏」が横切るシーンで終わるのだが、つまりオリヴェイラ監督は、セヴリーヌを支配するのはトラウマと言うよりは男性性の原理そのものであると看破するわけだ。

ちなみに余談だが、娼館の「昼顔」のもとには、これがまたキンキイな男どもたちが次から次へと訪れるわけだが、その中には「日本人」と思われる男も登場する。「欲望のあいまいな対象」に於いても、ヒロインで踊り子のコンチータのショー(闇営業の方)に訪れるのもまた日本人の男たちで、こういう物語の本質以外の味付けとして、ありがたくもない名誉をフランスでは頂いているようである。

さて、「欲望のあいまいな対象」はブニュエル監督の遺作で、これは実に傑作と言っても良い映画なのだが、この老紳士をたぶらかすコンチータを、フランス人のキャロル・ブーケとスペイン人のアンヘラ・モリーナという二人の女優が演じるという摩訶不思議な、しかしおそらく人間の持つ二重性を描いた映画であろうか。そういうブニュエル監督の演出は、目立たぬところでは例えば「昼顔」の娼館を営むマダムとセヴリーヌとの関係(鏡像と言っても良い)とか、もっとあからさまなところでは「自由の幻想」の、ある男の娘アリオットの本人不在の(いや存在のか?)失踪騒ぎや、二人の警視総監とか、常にそういう同一性の幻想を問うていたりもする。それが超(まさに)現実なのだよと。


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