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家族を想うとき/ケン・ローチ監督

ケン・ローチ監督の『家族を想うとき』をみました。原題は宅配業者の不在票の言葉『Sorry We Missed You』。
https://longride.jp/kazoku/intro.html

前作『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016年のカンヌのパルムドール)も辛い映画だったけれど、少なくともそこには人間の「尊厳」がありました。しかし...。

ニューカッスルはイギリスの北の端に位置します。もともとは産業革命を支えた重工業の町ですが、産業の衰退があり、また産業構造自体が大きく変わってきたわけですが、それでもある時期までは労働者も自分の生活に「誇り」を持っていた時代がありました。自分がロンドンにいた1990年台半ばでも、形だけとはいえ、まだそういう感覚は残っていました。

ここにあるのはごく普通の素朴な家族像です。彼らは北イングランド特有の訛りある英語を喋ります。母のアビーは介護福祉士(この仕事も非正規のパートタイムなのですが)。父のリッキーは職を転々とした挙句、一念発起し「個人事業主の請負宅配運転手」という仕事に就きます。会社とは雇用関係が無く、配達に使うバンも自前で用意すべく、そのお金の頭金を工面するため、アビーの車を売ることに決めます。1日に何人もの「顧客」を抱える彼女にとっても車は大事な「足」だったのですが。

ところで、日本語版の予告編では「こと」の始めを「マイホームの夢のため...」と語りますが、日本人のマイホームの感覚とは多少開きがあり、要するに「週払いの賃貸住宅生活から脱したい」というくらいの質素な望みなわけです(しかも一度はマイホームを手にしていたと確か言っていたと思う)。イギリスでは土地を買う必要はないので。

アビーも時間もやり繰りが困難になり、子供たちとのコミュニケーションが疎遠となり、家族の歯車が狂い始め、気がつけば「家族を想う」リッキー自身の人間としての「尊厳」はことごとく踏みにじられていた...簡単に言えばそういう話です。それでも仕事に、高度にデータ管理された機器(1000ポンドのスキャナー!)に縛られなければならない理由は何なのでしょう...。ひとつに「男らしさ」の幻想というのはあるのかもしれませんね。そういう意識の構造と新自由主義的な産業構造とは、あるいは親和性があるのかもしれません。そんなことを少し考えました。

俳優さんたちはほぼ無名の方だと思いますが、素晴らしい演技をしていました。私は何度か泣きましたよ。決して他人事ではない、大事な映画です。

監督:ケン・ローチ  出演:クリス・ヒッチェン | デビー・ハニーウッド | リス・ストーン
2020年1月14日鑑賞

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