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フラッグ・デイ 父を想う日/ショーン・ペン監督

最近ではアクティビストとして話題に上るショーン・ペン監督の「フラッグ・デイ 父を想う日」を見た。

アメリカ人にとってフラッグ・デイ(6月14日)と独立記念日(7月4日)は感覚的にどう違うのかと、ふと思う。50個の星が刻まれたその旗は、誰にとってもわかりやすい表象としてのアメリカの自由とその繁栄を、ナショナルなアイデンティティとして支えてきたとは思う。少なくとも20世紀のアメリカの歴史はそのような形をしており、さらにいえばその旗には家父長制的な「家族」という幻影が、ひとつの信仰のように縫い込まれているようにも見える。

映画「フラッグ・デイ 父を想う日」の原作は、ジャーナリストのジェニファー・ヴォーゲルの回顧録による。1992年、警察で父ジョン・ヴォーゲル(ショーン・ペン)の死について説明を受けるジェニファー(ディラン・ペン)は、そこで初めて父の犯した罪が全米最大級の偽札事件だったことを知る。印刷の色具合も紙質も、偽造防止の為の透かしや小さく貼られた箔に至るまで、すべてが完璧なその偽札を手に触れ、彼女は最愛の父との懐かしい日々を思い出す。

ジョン・ヴォーゲルは、6月14日、アメリカのフラッグ・デイ(国旗制定記念日)に生まれた。そのことは、あたかも彼自身が彼の誕生日と同様に、国民皆から祝福されるべき特別な存在であるという、何というか、自負のようなものを生んだという。そんなことあるか…とは思うが、ジェニファーが思い出としての父親ジョン・ヴォーゲルは、「平凡な日々を見違えるほど驚きの瞬間に変えた」とあるように、愛する家族への溢れる程の愛情であり−裏返せばそれは肥大したナルシスティックなそれでもあるのだが−経済的に考えてその身の丈に全く符合しない虚飾への願望というのか逃避というのか、諸々が合間って人生の収支のバランスを超えてしまうのだ。

この映画の監督であり、主人公のジョン・ヴォーゲルをも演じるショーン・ペンが、「映画に於いて」何が描いたかを言い当てるのは実際のところ困難でもある。もうひとりの主人公ジェニファー・ヴォーゲルを演じるのがショーン・ペンの実の娘であるディラン・ペンでだということもある。ショーン・ペンは言わずもがな、このディラン・ペンの物語へ肉薄する度合いは飛び抜けており、「家族の絆」とか「それでも不完全な人間を愛する」云々、こうして日本語にすると随分と浅薄な言葉とはまた不釣り合いにも感じる。

ジェニファーの母親もまた依存的な人間ではあり、高校生のジェニファーが問題行動を重ねるのも、彼女を再び父親の元へと向かわせる「家出」の直接の原因も母親のそれと関係するのは明らかではある(もちろんその原因は夫であるジョン・ヴォーゲルに端を発しているわけだが)。

ジェニファーは久しぶりに父親ジョン・ヴォーゲルと会い、そこで現在の父親について、おおよその状況を知るわけだが、それでも何とか父親を「普通の人」に更生させようと努め(それはまた彼女自身の依存とも関わってくるのだが)、小さなケーキで父の誕生日を祝い、小さく丸められた1枚のドローイング、それは彼女が肌身離さず持ってきた「お守り」であり、父親との間の深い記憶の繋がりでもあるそれを手渡す。

「あと5キロ走ると美味しいディナーが食べられるよ」(文言は極めて不確かだが…)と書かれたステーキハウスの、カウボーイの腕の部分が振り子のように稼働する巨大看板をサラサラと描いたドローイングだ。それは極めてアメリカらしい、おそらく彼らアメリカ人のノスタルジーを誘うだろう道路脇の風景を描き留めたものである。

そして父ジョン・ヴォーゲルが、暗闇の道中、目的地に向かう車の中で 10歳のジェニファーだけに伝えたおそらく唯一の大切なこと(言葉)が、彼女自身の人生を前に進めることになる。そして、彼女に対して依存を強めつつある父親から距離を置くことを決意し、その後の放浪の末に、クリスマスプレゼントを母親に残し、自分の生きる道を進み始めるのである。

無論、そこから先がこの物語の真のクライマックスとなるのだが、自分は今、この映画の冒頭の、警察で説明を受けるジェニファーの(否ディラン・ペンのというべきか…)、大きく映し出された横顔の、左目の下あたりの小さな「アザ」のようなものについて思い出している。16ミリのフィルムで撮られた「美しい」追憶の家族とともに、父親ショーン・ペン譲りのディラン・ペンの、青く美しく澄んだ瞳の下の、小さな傷のようなそれは、このカットで意図的に写し出したものであろう(子役のジェニファーの目の下にもあった)。

ここから既に粒状感のあるフィルム撮影が始まっているのだが、おそらく監督であるショーン・ペンは、「家族の絆」とか、そういう物語や幻影についての映画を撮ったのではなく、ただただ、この小さな「アザ」のような「傷」のような小さな「美しさ」について、偉大な20世紀アメリカの歴史にこそ刻まれはしない、小さな小さな「記憶」として、そこに留め置こうと考えたのではないか。

全く前には進まないロードムービーとして。「美しい」とはそういう「アザ」のようなものである。

監督:ショーン・ペン  
出演:ディラン・ペン | ショーン・ペン | ジョシュ・ブローリン


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