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「ソビエト時代のタルコフスキー」より『ストーカー』

2021-02-24

承前。すっかり遅くなってしまったが、先日タルコフスキーの『ストーカー』(1979年)を見た。これでアンドレイ・タルコフスキー特集「ソビエト時代のタルコフスキー」6作を映画館でまとめて見たことになる。『ノスタルジア』と『サクリファイス』の2作は、彼がソビエトを出国した後の作品なので特集には含まれていないのでまたいずれ。

自分が学生の頃は、タルコフスキーは美大生が「勢い」で見るような映画だったが、今の学生さんたちはタルコフスキーというソビエトの映画監督を知っているのだろうか。少なくとも私たちの世代はソ連崩壊の1991年を知る者であり、改めて見直してみると色々と感慨深い。ノスタルジーではない。その後30年を経て資本主義、自由主義ともに崩壊状態ではある。

さて、「ストーカー」はここでは案内人ぐらいの意味合いだ。映画は「ゾーン」という立ち入り禁止区域の中の案内人/ストーカーと、その噂を聞きつけ、区域内にある「ある場所」への案内を求める小説家と物理学者をめぐる話になっている。振り返ってみれば、この案内人は確かに先導はせずに彼らの後方から行き先を見極め、指示を出す。そういう意味では、人を背後から追いかける(追い詰める)ストーカーかもしれない。いずれにしても日本にはまだストーカーという言葉自体無かった時代の映画だ。

ところでこの「ゾーン」の様相をチェルノブイリ原子力発電所事故と結びけ『ストーカー』をタルコフスキーの預言的映画と捉える向きもあるが、やはりそれは否定しておきたい。結局のところ、場所はともあれタルコフスキーが描きたかったのはこの「案内人の男」なのだから。「ゾーン」からの帰還後、彼の妻の唐突とも言える「独白」はそれで説明ができるはずだ。

ともあれこの『ストーカー』は驚くべき映画ではある。先に書いた「ある場所」とは、その人の「望みがかなう部屋」のことなのだが、小説家と物理学者がその場所に至る道筋で起こる様々な不可思議な現象に翻弄されつつ部屋の入口にまでたどり着きながら、2人ともがその中に「入らないこと」を決断してしまうのだ。我々が「ゾーン」をめぐるファンタジックな、あるいは破滅的な「結末」を求めてしまった「物語」自体からは完全に宙吊りのまま。しかしながら私たちはその過程の描写で彼らの人生の「絶望」について理解をするだろう。真に絶望を抱えてものだけがこの部屋の入口にたどり着くことができるのだ。

『アンドレイ・ルブリョフ』や『惑星ソラリス』がシネスコでワイドな画角で撮られた映画であるのに対し、『ストーカー』はスタンダート(4:3)画面で、横幅が狭く苦しい。また「ゾーン」内の映像以外はモノクロ(というのかセピア色)で画面は暗い。彼らは結局「手ぶら」で、もとのモノクロームの世界に戻ってくる。もちろん彼らが本当に「手ぶら」なのかは映画を見る私たち誰にもわからないのだが。

この映画で何よりも強く美しい瞬間は、このストーカーの男の足の悪い娘が出てくる最後の「長回し」のカットとして描出される。このシーンのためだけにこの『ストーカー』という映画があると言っても過言ではない。それは「希望」ではないにせよ「絶望」でもない。

監督:アンドレイ・タルコフスキー  
出演:アレクサンドル・カイダノフスキー | アナトリー・ソロニーツィン | アリーサ・フレインドリフ

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