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「ソビエト時代のタルコフスキー」より『ローラーとバイオリン』

2021-02-20鑑賞

承前。「ソビエト時代のタルコフスキー」の三つ目は『ローラーとバイオリン』(1961年)。映画大学の卒業製作で、アンドレイ・タルコフスキーはこの作品でニューヨーク国際学生映画コンクールで第一位を受賞したそうです。42分の尺は卒業制作としては長編のようです。

今回初めてこの映画を見たのですが、実は、自分はずっと『ローラとバイオリン』だと思っていました。スチルにはバイオリンを弾く少年の姿が写っていますが、彼サーシャと「ローラ」という女の子との「交流」を描いた映画だと…(考えて見れば、ロシアには「ローラ」という名前の少女はいませんよね)。映画を見ている途中で「あれっ…」と。

それでその「ローラー」というのは、道路を整地する車「Steamroller」のことなのですが、つまりバイオリンを弾く少年サーシャとローラー車を運転する労働者であるセルゲイという青年との「交流」を描いた映画が『ローラーとバイオリン』。バイオリンなどを習っている子は、要するに「ブルジョワ」なのでしょうか。周りの悪ガキどもはサーシャのことを快く思っておらず、彼らにいじめられているところを、整地作業の仕事で現場に来ていたセルゲイが助けてくれるわけです。

映画には「鏡」とか「水」の反射とか、実験的な手法が様々に試みられていて、それが「タルコフスキーらしい」という評価もあるのですか、いや、なんだかこれは「変な」映画なのですよ。ある意味で「社会主義リアリズム」的な物語ではあって、だからこそソビエトで国内でも評価され第1作目の『僕の村は戦場だった』の監督に抜擢され、その後のキャリアに繋がることになるのですが、ただ、タルコフスキーの実力から鑑みても、少年サーシャの描き方はわりと「浅い」と思うのです。これはわざとそのように描いているのではないか…。

というのは、先日見た『僕の村は戦場だった』のイワン少年の内面の描写は、すでに尋常じゃないタルコフスキーぶりを発揮していることに比べて、という意味なのですが。そもそもサーシャのような年頃の少年が、「労働」とか「家族以外の大人」に興味を持つことはわかるのですが、逆にセルゲイが、同じ労働者の若い女性の誘惑すらものともせずに、そこまでサーシャに優しく接する「理由」がよく分からないのです。

ただ、それまでサーシャ少年を捉えていた来た「カメラ/眼」が、一瞬セルゲイの「内面」に反転する場面があって、それはサーシャがセルゲイに「戦争の体験」について尋ねた時なのですが、つまり、おそらくは少年と青年の階級を超えた交流についてサーシャ少年の目線から描いているのは「表面上」の課題にすぎず、実際にはセルゲイという青年の内面を描いた、あるいは描くために撮られた映画なのでは、と個人的には疑ってみるわけです。

「戦争」によって少年時代のセルゲイに生じた「何か」があって、そのことで彼は現在の自分の立場を受け入れざるをえなかった。そのことが「社会主義リアリズム」映画の体裁を取って刻まれているのではないか、とも思えてくるわけです。タルコフスキー自身の生い立ち自体が、つまり自伝的な映画『鏡』でも見られるように「複雑」な反射を持っている。考えすぎかな。

監督:アンドレイ・タルコフスキー  
出演:J・フォムチェンコ | V・ザマンスキー | N・アルハンゲルスカキ

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