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ピアノ・レッスン/ジェーン・カンピオン

ジェーン・カンピオン監督の「ピアノ・レッスン」を見る。1993年公開のこの映画は、女性監督として初めてカンヌ映画祭パルム・ドール受賞した。自分は30年前に留学先のロンドンでこの映画を見ている。

30年前も同様に感じたのだが、「ピアノ・レッスン」という日本語タイトルはいささか不正確で、この映画がエイダと不倫相手ベインズとの「関係性」(あるいは恋愛)を主題に描いているという誤解を与えかねない。そうではなく、この映画の英語タイトル「The Piano」が示すとおり、アイダの「分身」であるピアノをめぐる彼女自身の「再生」の物語であるはずだ。だからこそ、波打ち際に放置されたあのピアノ/The Pianoの「孤高」とも言えるカットが意味を成すわけであろう。

今回4Kリマスター版としてあらためてこの映画を見直したが、鍵となる諸所のシーンについて、意外なほどに正確な記憶があった。無論「声」を発しない主人公エイダの人物像を描写するため、マイケル・ナイマンの音楽の効果はもとより(あるいはそれ以上に)、カンピオン監督が「視覚的な」カットを積み重ね、彼女の「輪郭」を際立たせるようにこの映画を編んでいるからではある。

時代は1800年代半ば。父親が決めた相手と結婚するために、エイダ(ホリー・ハンター)は娘フロラ(アンナ・パキン)とともに、スコットランドから植民地であり未開の地であるニュージーランドの孤島にたどり着く。6歳の時に「話す」ことをやめたエイダは、彼女の一部である「ピアノ」を携えて来ていた。「ピアノ」は彼女にとって「声」のかわりなのだ。

雨季のためか、ぬかるんだ山道を歩かねばならず、夫になるスチュアート(サム・ニール)は「重すぎる」ピアノを自邸まで運ぶことを、こともなげに拒んでしまう。

先住民のコミュニティで生活し、彼らの通訳を務める白人ベインズ(ハーヴェイ・カイテル)は、娘とともに置き去りにされたピアノを弾きに訪れるエイダに惹かれ、土地と「交換」にピアノを引き取ることを、エイダの夫スチュアートに持ちかけ、夫の方もそれを快諾する。自分のピアノを「頭越しに」取り引きをした(妻は夫の所有物なのだ)二人の「男」に、エイダは憤るわけだが、今やピアノの所有者となったベインズに対し、渋々ながら「レッスンする」ことを受け入れる。少なくとも彼の家でピアノを弾くことは可能だからだ。

19世紀当時の(そして現代の)「女性」の地位について、ここまでで十分に描写されていると言えよう。ベインズの方も「レッスン」を口実に、ピアノの黒鍵分を担保にエイダとの「接触」を求めるのだから、善悪の二項対立で「男性」を切り分けた映画ではない。少しもやっとするのはそのためだが、もっとも「その曖昧さ」無くしては、「男性社会」そのものともいえるカンヌ映画祭で、カンピオン監督が賞賛されることも無かっただろう。

それを置いても、ベインズの方は「エイダ=ピアノ」という構造自体を見抜いてはいて、彼女を「個」として尊重する姿勢では夫スチュアートに優位には立っている(モテる男である)。彼女との「レッスン」を始める前に、ピアノを調律に出すという挿話も見逃せないプロットのひとつである。

また、娘のフロラも映画では重要な役割を示す。彼女は母エイダの「声」あるいは「代弁者」としてだけの存在ではなく、この年代の少女だけが持つ自由奔放な「言葉」を持ち、意思を持ったひとつの人格として描かれる。村祭りの劇中で、天使の翼を背負う幼いフロラの存在は、エイダの運命「翼を折ること=ピアノが弾けなくなること」の象徴性を示唆する重要な役割も担っている。おそらくはエイダが声を失った6歳にフロラの年齢は設定されているはずだ。

映画の公開から30年を経て、「翼」を奪われたエイダが、最後の最後に自らの意思で「何」を選択するのか。映画の結末とはまた別の可能性を考えてみたりもする。

監督:ジェーン・カンピオン  
出演:ホリー・ハンター | ハーヴェイ・カイテル | サム・ニール

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