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ヴェルクマイスター・ハーモニー/タル・ベーラ監督

もう10年以上も前のことだが、タル・ベーラが最後の監督作と公言する「ニーチェの馬」(2011年製作)の衝撃が忘れられない。ハンガリーの寒村を舞台とした映画だが、場所性からも時間性からも逸脱した密度の濃いモノクロの長回し映像が、観者の時間軸に雪崩れ込んでくる…唯一無二の映画作品である。

今回の4K修復版「ヴェルクマイスター・ハーモニー」もまごうことなき傑作であった。「伝説」とも言われる、上映時間7時間18分の「サタンタンゴ」(1994年/自分は輸入版のDVDで見た)と比べれば、この「ヴェルクマイスター・ハーモニー」(2000年)は多少短め(それでも2時間25分ある)だ。

夜10時閉店の場末の酒場はある意味で健全だと思うが、それはかつての共産主義国家の名残りなのかもしれない。いずれにしてもこの国が複雑な歴史を抱えているだろうことは否めない。

登場人物が話す聞き慣れないがどこか懐かしい響きの言葉はハンガリー語である。皆に招き入れられたヴァルシュカ・ヤーノシュ(ラース・ルドルフ)は、フロアの椅子とテーブルを片寄せ、男たちにその役割を指示しながら、太陽とそれを中心に自転公転を繰り返す地球を、続いて地球の衛星の月について、「天文学」を説く。大の男たちの、やや滑稽にも見える一幕なのだが、これは何らかの「システム」についての話なのだろうか。あるいは「秩序」や「調和」についての話なのだろうか…。ヤーノシュの無垢な「瞳」が印象的だ。


ヤーノシュは、叔父で音楽家のエステル氏(ペーター・フィッツ)の身の回りの世話をしている。手慣れた仕草でソファーで眠りかけた叔父を揺り起こし、ベッドで眠るよう促し、着替えをさせ、寝室の灯りを消し、ついで台所を手際よく整え、窓にカーテンを掛けて、叔父の家を後にする。もう真夜中なのか。新聞配達の仕事に向かうヤーノシュは、その途中で巨大なトラックとすれ違う。


書斎でのエステル氏は、ヤーノシュに向かい「ヴェルクマイスター音律」への批判を口にする。何やら口述で記録を続けてもいる。注釈すれば、「ヴェルクマイスター音律 」は17世紀の音楽家・音楽理論家のアンドレアス・ヴェルクマイスターが開発した調律法で、彼は同時代の天文学者ヨハネス・ケプラーの影響を受け、「熟達した対位法は天体の運行と結び付けられる」ことを説いたという。ここでヤーノシュの酒場での行為とその意図が回収され、物語が急速に進行していることが見えてくる。

不穏な空気が漂う中、街の広場に巨大なトラックが到着する。移動サーカスの興行で、荷台の中は20メートルはあろうかという「世界一巨大なクジラ」だという。エステルは小銭を払いその巨大クジラと対面する。剥製なのだろうか。その大きな「瞳」に魅了されたようだ。


ヤーノシュの家に、叔母(ハンナ・シグラ)でエステルの別居中の妻が訪ねて来る。民衆の「風紀」を正す運動にエステルを協力させるよう、ヤーノシュに説得にきたのだ。嫌々ながらもヤーノシュは叔父エステルへ叔母からの伝言を伝え、叔父の方もまた、渋々と彼の妻の依頼を承諾する。

再び広場を訪れたヤーノシュはで、クジラのいる巨大トラックの荷台に入り込み、そこでプリンスと呼ばれる「扇動者」の存在を知ってしまう。その夜、不満を抱えた民衆たちは何者かに先導され、暴力的なエネルギー爆発させて病院を襲撃する。誰かが仕掛けた罠なのか。どこからが現実でどこまでが虚構なのか。

翌朝、軍部によって押さえ込まれた群衆の姿はすでに街から一掃されていた。だがそこにいたのは…。

頭の中で、幾度となくこの物語を再生している。タイトルの「ヴェルクマイスター・ハーモニー」が示す「ハーモニー」の実態が、個の調和/天文学的な均衡関係から、気がつけば全体主義的な「システムの統制」へと移行していることに気づく。小さなズレがより良き調和へと集約されるのではなく、より大きな「力」を誘導し、その力から統制を受け支配されることになっているではないか。それはまた私たちの世界で、タル・ベーラ監督がこの映画を製作したた20年前よりもはるかに顕著になっているともいえよう。

病院のベッドに腰掛け呆然と「 くう」を見つめるばかりのヤーノシュ。その「瞳」。エステル氏は、ピアノの「調律」を「元に」戻したことを彼に伝える。「ヴェルクマイスター・ハーモニー」そういう物語である。

誰もいない広場に足を運んだエステル氏は、そこで白日にさらされた「巨大クジラ」を見つける。彼はそのクジラを、その「瞳」を見つめるのである。

監督:タル・ベーラ  
出演:ラース・ルドルフ | ペーター・フィッツ | ハンナ・シグラ

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