くすぐったいと彼女は言い

 神様は人殺し以外なら許してくれるもんだって、パパが昔言ってた。だから大丈夫。〈緑脈〉が根茎を張るミシミシという音を聞きながら、私は祈るように繰り返す。大丈夫、大丈夫だよ。リリコの呼吸は浅くなり、心拍も弱々しくなっている。〈緑脈〉は、メロンパンみたいな質感の瘡蓋状になって増殖し、彼女の痩せた体を覆っていく。発光生物のように薄暗い光を放ち始めた彼女を眺めながら、もし、このまま目覚めなかったらすぐに後を追うから待っててね、と私は呟く。
 リビングに置きっぱなしのタブレットからは、評論家とインタビュアーが話しているのが小さく聞こえてくる。
〈この大流行は、ほぼ、この南千住のラニ少年事件からはじまっているわけですよね、実の父親と母親そして妹を、家じゅうの刃物という刃物を使って刺し殺したという、一人五十箇所以上の傷が刻まれていてマンションは血の海だったそうじゃないですか、先生、いったい原因はなんですか? これはね、遠隔化と仮想化というリモート社会が生み出した悲劇なんだよね、人間関係がリアルじゃなくなっているんだよ。なるほど、興味深い話ですね? 最近はね、増え過ぎた人口が原因だと言ってる人もいるね、これはロシアの論文なんだけど、自然による人口調整だと……〉
 十五分程が経過し、リリコの心臓が静かに止まる。〈緑脈〉は、乾いた表面から徐々に崩壊し、薄緑色の煙となって寝室にたゆたう。その行方を目で追いながら、私の意識は目の前の現実から離れた遥か遠くに飛ぶ。時間がゆっくりと流れる。一生分の時間が再現されているように。人間の本質は時間だ。それは情報でもある。私の脳と身体を構成するすべての情報が、明るい一筋の道を通じ巨大な意思と融け合っていく。そんなビジョンが私を包み込んでいく。その後、幾重にも寄せては返す快楽の波が襲い、私は、気を失ってしまう。気がつくと大量の汗を噴き出ている。さっき評論家たちが話題にしてた、ラニ少年と同じだと気づき、私はぞっとする。クローゼットで発見されたとき、彼は汗まみれで、何度も性的絶頂に達していたそうだ。
 微熱が始まったのが三日前。少しばかり調子が悪いだけかと思った。今朝起きると、リリコを殺したいという感情が心の奥からもたげてきた。殺意は次第に激しい衝迫となり、居ても立っても居られなくなった私は、彼女にそれを告げた。桜子が〈怪物〉を患ってしまうとは驚きですね。世界じゅうで何十億人もなっちゃってるんだから不思議じゃないよね、殺す前に打ち明けてくれてうれしいよ、一緒に乗り越えようね。リリコはいつものように落ち着いていた。私の衝迫は、今にも彼女を殺してしまいそうなのに……。まず警察署に連絡だね。荷物はすぐ届くっていうから大丈夫だよ。ほんとにありがとう、リリコを失ったら生きていられないよと私は答えた。桜子、大変だけど、なんとか〈怪物〉を抑えこんでね、あたしを大嫌いだと思えば、少しは楽になるらしいよ。
 三十分して、ドローンが〈緑脈〉を運んできた。厳重にパッキングされた箱の中に、緑色の粉が入った真空袋、説明書、配給証明が入っていた。リリコはしばらく説明書を読んでいたが、それでは〈怪物〉を追い出しますかと言い、服を脱ぎ捨て全裸でベッドに横たわった。桜子は緊張してドキドキしてるんだよね、あたしも殺されるのは初めてだからすごくワクワクしているけど、やっぱり怖いんだよ。
〈……事件の半年後ですか、殺人は指数関数的に増えましたよね、世界で十億件ですか? 数十億だよ、全員恋人や家族という関係性の相手を殺した、愛の殺人だからね、これは。当初、医者たちは、感染症だとか言っていましたよね? そうそう、馬鹿馬鹿しい、彼らはすぐにそんな解釈をしますからね。でも、細菌もウイルスも見つかってないんだよ、今では、共時性みたいなもので伝播しているという考え方が主流だよね。《怪物》と名付けたのは? ああ、僕の友人でもあるハノイ大学のロン・タン教授だね、良いネーミングだよね……〉
 終わった? リリコが目覚め添い寝している私の髪を撫でる。大丈夫? どこか痛いところはない? 私はリリコの肌の感触を確かめながら言う。くすぐったいと彼女は言い、ありがとうと私は言った。それから私たちはとても柔らかなセックスをした。ゆっくりと彼女の舌と指を感じながら。今までとは比べ物にならないくらい大きな快楽に満ちた時間だった。それから彼女は、死んだときの体験を詳しく話し始めた。遠くに見える輝く光とそこに続く道を歩く話だ。一生分の時間がゆっくりと流れるのを体験したと言う。自分のすべての意識と記憶が、宇宙に溶け込んでいくような、大きな快感を何度も感じたとも。それは、私が彼女を殺した瞬間に体験したビジョンと同じだった。そのとき、私は気づいた。それは、ママと心中したときに、しばらく生き残ったパパが、その死の床で語ったビジョンともまったく同じだということに。

  〈怪物〉は原因も仕組みも不明なまま、まだ世界に蔓延している。〈緑脈〉は改良されより効果的で安全になり、生き残った人類の社会で、本当の殺人はほとんどなくなった。
 私は思う。強力な衝迫で人を殺させることは〈怪物〉の表層に過ぎなくて、愛している人と死に至る風景を共有することが本質なんじゃないかって。これから先の未来では、死を体験することが人間にとって普通のことになるんだろうなって。
 夏の終わり、夕暮れの空、私たちのマンションのバルコニーに一機のドローンが着地する。今度は、私がリリコに殺される時間だ。 (了)


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