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日本人の宗教観は、ウィキペディア的?

こんにちは。
私は、いまドイツで研究をしています。
ドイツで、住民票の申請や大学の入学申請をするときに、「これは日本にはあまり見られないものだな」と思う項目がそれらの申請書にありました。
それは、自分は何の宗教を信じているかというものです。
そこには、キリスト教やイスラム教や仏教や無宗教(無神論者)などを選ぶようになっていました。大学の入学申請書にいたっては、無宗教(無神論者)の項目がなく、必ず宗教を選ぶようになっていました。そのときの私は自分のことを「無宗教」だと思っていましたが、その項目がなかったので、とりあえず「仏教」を選びました。

それから、ときが経ち、ドイツで色んな国籍の友達ができました。仲が良くなるにつれて、いろんな話をする中で、宗教の話をしました。

友達が、私に「日本の主要な宗教はなに?」と質問をしてきました。
その質問に対して、「日本人は無宗教の人が多いよ」と答えました。
すると、その友達が「じゃあ、ほとんどの日本人は神様を信じていないんだ」と言いました。

正直なところ私は、返事に困りました。

日本では、厄払いをしたり、初詣に行ったり、お葬式の際には、お坊さんがきてお経をあげたりします。クリスマスも祝います。
また、そういった宗教的な行事を行わなくても、「げん」を担いだり、占いという非現実的なものを信じたりします。
そう考えると、日本人は、理屈では説明できないものの存在を、ほかの国以上に信じているなと思いました。

だから、そのときは、苦しまぎれに
「神様はいると思っているけど、1つの宗教を信じているわけではない」と答えました。
しかし、その友達からすると、この状況は理解ができないようでした。
「神様を信じているなら、無宗教ではないじゃん」ということを言われ、話は平行線をたどりました。
あまりにも私の説明が拙かったせいで、すぐに別の話題になりました。

この日を境に、いままで考えていなかった「宗教」について、少し興味をもつようになりました。それから、ちょっとずつ調べていく中で、日本人の根幹にある宗教観は「ウィキペディア的宗教観」ではないかと思うようになりました。

この宗教観の意味をもう少し説明すると
日本の神様は、誰もが作り出すことができ、誰もが編集することができる

ということです。
例えば、もともと「クリスマス」という文化はなく、それを日本にキリスト教が伝わってきた際に、そうした単語が認識されるようになりました。しかも、おそらくキリスト教が伝来してきた直後と現代のクリスマスに対する日本人の考え方や定義は変化しているでしょう。ウィキペディアのように、だれかの手によって、毎日編集されていくことで、その単語の意味や概念も変化していっています。

もちろん、日本だけでなく、ほかの国でも、時代によって言葉や単語の捉え方の変化はあるでしょう。しかし、日本は、宗教における概念がとりわけ変化しやすいと感じています。

もともと、日本は古来より「神道」が根付いています。
西洋的な宗教における絶対的な1人の神様がいるものとは違い、神道においては「八百万(やおよろず)の神々」と呼ばれる様々な神様がいます。
どんなものにも神様が宿るという考え方があるため、どんな神様も受け入れやすい精神があるのではないかと思います。1000人の神様がいるところに、もう一人、別の国の神様が加わって1001人になったところで、その違いは小さすぎてわかりません。

逆に、聖書に書かれた文章を勝手に編集するということは、なかなかできないことでしょう。急に、聖書のなかで新しい神様を作ろうとするのはむしろタブーではないでしょうか。

どんなものにも神秘的で神様のような存在がいると感じられる日本人の感性は、多様なものを受け入れることができる大きな器のようなものではないかと思います。
そして、日本人は「神様を信じていないから無宗教」なのではなく、いろんなものを神様として捉えすぎて、「神様が1人に決められないから、結果的に無宗教と言った方が楽だから」無宗教だと言っているのではないかと思います。

このような感覚をもった国はどのくらいあるのか、気になります。
アジア圏や密林に住んでいる民族などなら、日本と似た感覚をもっているのかもしれません。もし、これが日本人特有のものであれば、このユニークさを活かして、なにか新たな価値を生み出せないかなとも思います。

だらだらと書きましたが、やはり他の国の人や別の考えをもつ人と話すことは、新たに思考するきっかけを与えてくれるなーと感じる今日この頃です。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。m(_ _)m


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