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官能小説|接待、道具妻 第3話

 僕の身体のいつものサイン―――、少し頭が痛い。
 自分ではセーブしていたつもりだった。でも知らず知らずの内に飲み過ぎてしまっていた。
 それも甲斐甲斐しく夫の接待に協力する妻を隣で見ていたからだろうか。
 
 先にトイレに立った井上部長と入れ替わるかたちで、僕は妻の葉子を残してダイニングを後にした。
 
 廊下に立つと、止まる間際の緩やかな水洗の音が聞こえた。
 ドアを開けて中に入る。すると床面を汚す濃い黄色の飛沫が視界に入ってきた。自分でも分かるくらいに苦い顔になる。
 トイレットペーパーを長く引き出して両手で巻き取ると、嫌々ながら井上部長の放尿の残滓を拭き取った。
 
 いつも葉子が清潔に保ってくれている我が家のトイレ。それを他人に、それも自分ではない他の男に汚される感覚―――、簡単には言い表せないほどに不快なものだった。

 除菌スプレーを使用して拭き上げ、汚れを落とす。よく観察すれば、壁面にも飛び散っている。
 入念に掃除をしたので時間が掛かってしまった。急いで用を足した僕は、井上部長と2人きりになっている妻が心配になった。
 
 ◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇
 
「―――ぶ、部長さん、ちょっと、だっ、あの、結構です」
「いいじゃないか、奥さん」

 ダイニングへ戻ると、僕の座っていた椅子には井上部長が座っていた。つまり葉子の隣ということになる。

 そして、あろうことか、嫌がる葉子の肩に腕を回して酒をすすめていた。
 上半身を捻りながら懸命に距離を取ろうとしている葉子の顔の前には、日本酒で満たされた井上部長の杯が掲げられていた。

「ご返杯だよ、ご返杯。ビジネスマナーも忘れたのかね」
「部長さん、少し飲み過ぎですよ」

 自分が口をつけた杯で返杯をすすめる井上部長の目は完全に据わっていた。悪酔いしているのは明らかだった。
 回された手は、逃がさないように葉子の肩先をがっちりと掴んで離さない。どうしても葉子に酒を飲ませたいようだ。

 僕の昇進祝いという名目の接待。過剰に反応することは避けなければならなかった。敢えて葉子の心情を読み取るのは止める。とりあえず空席の井上部長の椅子に腰を下ろした。
 すると、いやらしい笑顔の井上部長の視線と、困り顔を作った葉子の視線が同時に僕に向けられた。
 
 トイレから戻った僕の存在を認めた井上部長は、悪びれもせずに葉子の肩を抱いたままで、手を引っ込めようとはしなかった。

 本来なら、家庭の温かい雰囲気に包まれているダイニングの空間だ。でも今夜は、目に見えない力関係が作用する寒々とした空間になっていた。

 妻を守るべき立場の夫として、悪酔いしている井上部長の行き過ぎた行為を注意すべきなのは当然だった。そんな事は誰に言われなくとも分かっている。
 縋りつくような葉子の視線。内助の功を引き受けてくれてはいたが、心の中ではきっと助けを求めているだろう。

「さぁあ飲みなさい。夫の祝いの席で無粋じゃないかね」
「部長さん、本当に―――」
「―――つべこべ言わずに飲みなさい!」

 頑なな葉子の態度に、しびれを切らした井上部長が語気強く言った。それを聞いた僕は、どうしようかと迷っていた井上部長を諫める言葉を完全に飲み込んでしまう。

 情けない夫である。目の前で、妻の肩を抱かれている状況に声を上げることが出来ないなんて。
 けっして打算的に将来の昇進を考えて、なんてことではないんだ。そう、妻の献身を無駄にしたくはないだけ・・・・・・、ここで井上部長の機嫌を損ねる訳にはいかないのだ。
 こんな情けない僕を、世間ではサラリーマンの鏡と呼ぶのだろう。

「わ、わたし、本当に弱いんです」
「そんなことは昔から知っているよ。祝いの席の一杯だ。それとも私の注いだ酒は飲みたくないのかね」

 険悪な雰囲気になりかけていた。得意先の接待だったなら、失敗と言えた。それでも最後の抵抗を見せる葉子は、目の前に掲げられた杯に片手をやり、やんわりとした仕草で断るように言った。
 それを聞いた井上部長は、苛立ちを隠さない態度で嫌みっぽく言って食い下がる。

「・・・・・・」
 夫の後ろ盾の上司であり、葉子にとっては元上司でもある。どこまでもしつこく絡む井上部長―――、返す言葉が見つからない葉子は困り顔で俯いてしまった。

 そして井上部長の次なる一手。
 俯く葉子を横目に、「ふんっ」と鼻を鳴らして僕に同意を求めてきた。

「なあ、藤田君。君の奥さんも飲まないとダメだろう。祝いの席ということもあるが、これからの我々の固い絆のためにも」
「はぁあ、そ、そうですね・・・・・・」

 自分でも情けない声だった。井上部長の言葉は、酔っ払っている僕の頭でもその内容が理解できた。
 まあ単純な話だ。逆らえば会社での明るい未来はない。

「ほら奥さん、藤田君が困っているぞ」
「は、はい。それじゃあ、一杯だけ」

 ぎこちない笑顔を見せて、諭すように井上部長が言った。現実、夫の上司の意向にどこまでも逆らえることはできない。
 接待という意識を僕と共有している葉子は、井上部長の言葉に諦めた様子で返答した。
 
 我が家のダイニングは、力関係がはっきりした空間だった。
 行われている祝宴は名ばかりで、その実態は接待そのものと言えた。
 
 有無を言わせない強引な運びで、嫌がる葉子に自分の杯を舐めさせようとする井上部長。
 仕方なく杯を受け取った葉子が、チラリと僕の顔を見た。一瞬、目が合う。感情は読み取れない。僕は黙ったまま唇を固く結んだ。

 井上部長が舐めた杯に、ゆっくりと葉子が口をつけた。
 普段は飲まない日本酒を一気に呷る―――。

 その様子を嬉しそうに見守る井上部長の視線には熱がこもっていた。
 懸命に飲み干そうとする口元と、上を向いて露わになった真っ白い喉元に下卑た視線が纏わりついた。
 ゴクゴクと飲み干す葉子の喉元が妖しく上下に動く―――、今夜の妻は、なんだか艶めかしい。

「あぁあいいねー奥さん。いい飲みっぷりだ。さあ次もいこう!」
「えっ!? あ、あの―――」

 飲み干した杯に井上部長が酒を注ぐ。慌てた葉子が助けを求めるように僕の方を見た。

「い、井上部長!」
 一杯だけだと言ったのに―――、見かねた僕は口を開いた。しかし上司の名前を呼んだだけで、後の言葉が続かない。

「何だね? 今夜は君の昇進祝いだぞ。藤田君、分かっているとは思うが、野暮なことを言ってはいかんよ」
 井上部長は低く冷たい声で言った。有無を言わせぬ態度。まるで、ここは職場か、と錯覚するように・・・・・・。
 言葉が続かない僕は、口をつぐむしかなかった。

 チラリと葉子の顔を見る。その表情は、「しっかりしなさいよ」と言っているみたいだった。嫌そうに肩を抱かれたままだが、アルコールの影響もあってか、落ち着きを取り戻して、情けない夫よりは冷静に見えた。
 心の中で、「すまない」と詫びた。

 接待というものは、時に忍耐と諦めの気持ちが必要だ。
 理不尽な会社組織の中で、僕はその事をよく知っている。嗚呼、せめて葉子の肩を抱く手をどけてもらいたい・・・・・・。

 サラリーマンとしての弱点を曝け出している僕の態度に、葉子は小さな溜息を漏らした。
 そして井上部長のすすめる2杯目に口をつけた。

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