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松前藩の正史 「新羅之記録」解説3

武田信廣の反撃と知略

 コシャマインはウスケシの「箱館」に拠点を置くと、そこから和人が立て籠もる「茂別館」に攻撃を開始しました。

 下ノ国守護代・下国安東家政は、待避してきた志苔館館主・小林良景、箱館館主・河野政通と共に必死の防戦をこころんだのでございます。茂別館は険しい段丘の上にあって、その四方を山や海、崖に囲まれた天然の要害でございます。さすがのコシャマインもこれには相当手こずり、しばらく膠着状態になったのでございます。

 業を煮やしたコシャマインは、兵を二手に分け、別働隊を西の大館に向けて進軍させました。当時の和人の本拠地は「松前」であると考えられており、その守りである大館を攻め落とすことで、和人すべてを追い出すことが出来ると考えたのであろうと思われます。

 コシャマインの別働隊は西に向かって中野館(木古内町中野)、脇本館(知内町涌元)、穏内館(福島町吉岡)、覃部(およべ)館(松前町及部)と次々と攻略し、各館主たちは西へと敗走しました。そして、コシャマインの別働隊はついに松前「大館」を包囲したのでございます。

 大館の松前守護代・下国定季は、花沢館の上ノ国守護代・蠣崎季繁に援軍を要請し、これを迎え撃とうとしたのですが、派遣されたその援軍は途中で蝦夷の伏兵によって撃退されてしまいました。そのため、孤立した大館は落城。下国定季はコシャマインの軍門に、生け捕りにされてしまったのでございます。

 コシャマイン軍別働隊は、大館陥落後、禰保田館(松前町館浜)、原口館(松前町原口)、比石館(上ノ国町石崎)を次々と攻略し、上ノ国の本拠地「花沢館」に迫ったのでございます。各館主たちはすでに花沢館に敗走して集結しており、そこで今後の対応の評定が行われました。

 そして、各館主たちは武士団の総指揮を、花沢館客将、武田信廣にゆだねることに決定したのでございます。

 一方のコシャマインは、茂別館の攻略に手こずっていましたが、一気に花沢・茂別の両館を攻撃する策に出たのでございます。副将級の「タケナシ」に2000人の軍勢を与え、花沢館攻略にあたらせました。そして自分は3000人の軍を率い、茂別館の攻略を図ったのでございます。

 花沢館の全軍の指揮を執った信廣は、先頭に立って、タケナシの軍勢を迎え撃ちます。タケナシ軍の放つ附子矢によく防戦し、時には流れ矢や、わら俵に当たった敵の毒矢を使って逆に放ち、相手に損害を与えるなどして智略共に優れ、奮戦しました。

 膠着状態に持ち込んだ信廣軍は、タケナシ軍が潜む森を焼き討ちし、逃れて出てきた軍勢を待ち伏せして、これを殲滅したのでございます。
 
 反撃を開始した信廣軍は、間にある敵の地におちた館に籠もる蝦夷軍との戦いを避けて兵を温存し、一挙に大館を攻略して、囚われた下国定季を助け出そうという作戦を試みたのでございます。

 夜陰に紛れ、1500人の兵を率いて、花沢館を出た信廣は、隊を二手に分けて片方は石崎川・左股川を登らせて山の上から、もう一方は攻略された館を避けながら直接大館へと向かいました。

 こうして、背後の勝軍山からと、正面からの挟み撃ちを持って、信廣は大館を陥落させ、下国定季を助け出したのでございます。

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