「空」って、拘らないことなのかな
さて、前回の内容をもう少し端的に考えてみましょう
「空」の概念は簡単そうで意外と難しい物です。
というのは、言葉という制約のもとでは、到底伝えきれるものではないからです。ちょいと般若心経から外れますが、般若系の経典に、「般若理趣経」があります。
このお経は、冒頭にいきなり「性の営み」は清浄な物だとぶち上げていますから、字面で理解しようとすると、とんでもない誤解を招く物です。
ところが「空」という概念から見ると、「本来清浄」と「全肯定」という、ありのままの世界観が観じられるのです。むろん、それは理解するとかそういう次元ではなく、「観じる」というとても言葉では表しきれない感覚です。
たとえば、禅宗である曹洞宗の始祖の道元さんは、これを「不立文字」という表現をして、只管打坐という修行を提唱しています。かつて燃えよドラゴンという映画で、主演のブルース・リーが、弟子に「考えるな、観じろ」という台詞がありましたが、まさにその境地でしょう。
さて、このことについて般若心経では
もともとなにも実体がないのだということは、一切の現象は拘るべきものでもなく、どれがいいとか、多いとか少ないとかといった区別などは、そもそもないのだという事になります。
一見これは虚無的な事に感じますが、よくよく考えると「現象そのものはそのものとして評価なしに受け止める」ということだ。というメッセージであると言えます。つまり、すべての現象は「拘るべき対象ではない」という事になります。
ところが、そもそも「ない」ものを、「ある」と感じてしまうのが人の心の姿であるということです。で、それが「煩悩」という迷いの根源になるというわけです。しかも、それがなくなるということはないのです。それがあるが故に安楽の境地があるのだということは、マイナスがなければプラスは存在しないという事になります。
そして、その中点が「0」であり、このゼロを基点としたマイナスプラスの概念が「空」というわけです。
もう少しくだいて、今流行っている「○○ハラスメント」を例に採ってみましょう。
ある行為が、その受け手の「我慢」の基準を逸脱した段階で「○○ハラスメント」が生じます。これに限らず「~ゼロ宣言」というスローガンがやたら目に付きます。しかしながら、このゼロという基準は、よく考えたらきわめて曖昧なのです。で、そういった事に反した存在をよってたかって「叩いて」「炎上」させるのです。
こういったスキャンダラスなことに大騒ぎしている人に、なぜ問題なの?ときくと、大概は「みんなそうでしょ」とか「当たり前です」と応えますが、そこに垣間見る「自分の基準」は案外そういう曖昧な物であることが多いです。
これが絶対。という基準は何処にもないし、あっても常に変化しています。いい例が、「昭和」では許されたことが「令和」ではあり得ない。みたいな感じです。
よくよく考えると、基準なんてきわめて曖昧であることが解りますね。ですが、そのように移ろいゆくことが「真実」であるわけです。
ですから、目の前の基準に拘ることは、はっきり言ってむなしいことである。ということも、まぎれもない「真実」であると言えるでしょう。
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