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どうせなら「東洋思想」の沼にはまってみるか・・。その8

朱子学を深掘りする

 さて、朱子さんは基本的に「理」と「気」を論ずるのですが、
どちらかといえば「理」を優先させた事に特徴があります。
ですから「本来善」である「気」の作用は
理によって理由や価値が与えられるから意味を生じるのだ。
という考え方です。
これが発展して「名分論」になるわけです。

前にも述べましたが、道徳とは「本来善」に立ち返ることです。
しかしながら、「地」から生じた気によって、
「清濁」が生まれるのだとしました。

これが「欲」であり、「理」から外れてしまう事になります。
ですから、これを制する事が必要であるという
「禁欲主義」の立場をとるわけです。
これが孔子さんが述べた克己復礼こっきふくれいであるとしました。

 ただし、ここでいう「欲」とは、あくまでも「私欲」のことです。
朱子さんの言う禁欲とは「私欲」をやめよということで、
情が、理を上回れば欲が生まれ、このことが天地を動かす気を乱し、
万物の生育を止めてしまう。
即ちこの状態が「悪」であると定義しました。

 情は徳のもとでもあるから否定はしないけれども、
バランスが必要だろう。という中庸ほどほどにし、
情の過不足は避けるべきだろう。という考え方です。

 この考え方は仏教における「三法印」にも通じていますね。

難しく言いましたが、ぶっちゃけこの理気二元論とは、
そもそも我らを形作る基本となる道としての「理」、つまり理由があった。 そして、その理由を具現化する「気」が器としてある。
 この二つによって我らの存在や現象があるというわけです。

 ですから、それは天から理を授かり、
この理にそって気が生まれるのだということです。
当然ながらその二つにはきっちりとしたけじめが必要であるよ。
というわけで、これを乱すことは天の意志に反することである。
という論法が生まれます。
即ちこの秩序こそが「善」と言うことだと朱子さんは体系づけたわけです。
後で述べますが、「文治政治」とはこの理念を基本としているわけです。

では、どのように「教育」され、「学ぶ」事が肝要なのか。
朱子さんは儒学の分析として以下に挙げ、修学の基本であるとします。

 そもそも「儒学とは「修養(修身・養生)」であると規定しました。
そして、まず修身とは存心持敬そんしんじけいという言葉でまとめます。
    これはどんな意味なんでしょうか。というお話になります。
 あらあら、思いの外深い話になっています。


じゃあ、あたしも仕切り直し

以下は次回にと言うところで

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