見出し画像

「自粛」が普通に求められるって、やっぱり、変なんじゃないかなという疑問。

副題・・・「自粛」という言葉が頻出したのは、「昭和末期」、「東日本震災直後」、そして「コロナ禍」

自粛とかというムードが
異様に漂っている感じがするのは
あたしだけかな。

初めは、「気遣い」であったのが、
だんだん一人歩きしている様相が見て取れます。
過剰な自粛ムードは経済を停滞させ、
人の心を沈ませるが、もはや一人歩きした場合は、
「自粛」のための「自粛」に自己目的化して、
そうでない者を攻撃するようになっている。
今回に限らず、えてして、この世の中には似たようなことが多い。過剰ではないのかとも思われる規制や「常識」がはびこり、それを人に強要することがかなり見られるのである。たとえばいつの間にか、「喫煙者」の居場所はなくなってしまい、午後9時以降は翌日運転する者は個人差さえあれ、酒も飲めなくなってしまっている。最近では、車を運転しなくても、二日酔いの匂いやタバコの匂いすらも「糾弾」される始末である。
 当然こういう規制はその成立には理由はある。だが、それが目的化してしまうと、規制するための規制が始まり、結局牛の角を詰めて牛を殺すようなことが起こっているのだ。 このバックボーンには「正義」という二文字がいつも振りかざされる。これが掲げられるともう何も言えないのだ。
だが、法令違反はともかく、ただ自分の感覚や好き嫌い、自分だけの道徳観で「正義」を振りかざしているきらいはないだろうか。今まで親しんできたタバコを急にやめろと迫るのはあまりにも無慈悲であるし、就業時に飲酒しているのならともかく、前の晩に楽しかったり憂さを晴らしたりの飲酒があっても、何も他人が目くじらを立てる必要がどこにあるのか。ということである。
 
糾弾する人々は、「そうあってしかるべき」というべき論をよくぶつ。だが、べき論は期待値であり、決定値ではない。世の中には多様な考えがあり、人々はその価値観に基づいて動いている。ただ、それが本当に反社会なのかは、その集団の価値観にゆだねるしかないのだろうか。だとしたら、その社会の価値とは、実は脆弱であり、絶対的なものではない。つまり、白がなければ黒はないからである。したがって、白という価値から黒を無くせと言うことは、自らの白をも否定することになるからである。

この文章は、今から約10年前に
ブログに書いた記事です。

この頃の「自粛」は自由意志というか、
「同調圧力」というものでした。
どちらかというと、「自粛」はマナーの世界だった。

「不謹慎」と言う言葉で表現されました
が、妙な違和感がありました。
時の政権は、べつにそれを求めてはいませんし
あくまでも「同情」による
おのおのの「自由意志」によるもの
だったように思います。

ですが、いまはどういうわけか
これが「半強制」に近い
そんな風潮になってしまった感じがします。

かなり昔。
「ぜいたくは敵だ」
と言うスローガンのもと、「同調圧力」

が「国家総動員法」という法律で
見事に合法化された時期がありました。

見込みのない「先行き」のなか。
そのことが本当に「有効」なのか
客観的なエビデンスはあるのか。
その情報にバイアスはないか。

十分考えることが必要ですが、
まだまだ、わが国の社会には

「世間」

という魔物が生息しているようにも思います。
ですが、これがあってこそ、あたしたちという「我」が存在するわけです

仏教では、これを「彼我」という。

極端に快楽に走るのも、極端に禁欲(苦行)するのも、
どちらもブッダは同じ事だと述べていますが、
「自粛」というのは、こう言った面で微妙な立ち位置ですね。

強制もできないけど、しないことも何かなぁ。

ただ一つだけ、「社会心理学」的な観点から言うと
今回の自粛は、前回までのそれと大きく違う点があります。

それは、「自粛の暗黙の強制」は
「エゴ」から出発しているのではないか。

と言う感覚です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?