易行による「瞑想」
さて、前回ご紹介した「真言密教」「天台止観」は
ともに厳しい「荒行」が修行プロセスとしてセットされていました。
滝に打たれたりとかひたすら山登りと断食行をするとか、
「瞑想」への方法はきわめて過酷であったわけです。
瞑想とはすなわちトランス状態になることですから、
自分をとことんまで追いやって、そこから見えたものは何か?
ということを重視したわけです。
ですから、その最も有効なのは荒行だったり、
火をひたすら焚く「護摩行」であるということになります。
でも、こんな修行は、一般庶民には無理な相談ですよね。
そこで、出てきたのが「末法思想」というやつです。
つまり、「ブッダの教えの力はもうすでにこの世にはない」
という考えです。ですからこの世においては
どんなに頑張っても「悟る事はできない」という考え方です。
その時期がまさしく平安時代の末期に合致したわけなんです。
むろんこの考えは、日本のみならず「仏教圏」、
特に大乗仏教の世界では言われていたことでした。
ブッダのあとには数億年後に「弥勒菩薩=未来仏」が出現するのを待つしかない。
ということですが、それを救う考えが法華一乗という考えだったのです。
すなわち、「仏性」はすべてのものに存在しているのだ。」
という考えです。
ですから、おのが持つ仏性は、環境さえ整えば、
すべての存在は悟りの境地にいけるのだという「環境論」というわけです。そこで大日経や法華経で示されたのが、
「即身成仏」や「仏国土」という概念です。
誰にも邪魔されずに
「瞑想して」、「真理に目覚める」という環境があれば、
みな悟りの境地に至るという壮大な思想と言えるでしょう。
それを現世に求めるか、現世に見切りを付けて
仏国土に「往生」して修行に打ち込むか。
という二つの考え方に別れたと考えてもよいでしょう。
前者は「鎮護国家」や「見性」、後者は「極楽往生」
とでも言いましょうか。
当初は、山に籠もり世間との関係を絶つという修法が行われました。
しかし、それでは特殊なものしか救われないし、
現に「末法」を思わせる社会事情が蔓延すると、
やはりこの世ではない別の仏国土に生まれ変わって
「修行」したいと考えるようになります。
それが「浄土信仰」を生み出したわけです。
そののちこの信仰は、「HEAVEN願望」に変質していくわけですけれども、その方法論としての専心念仏が「瞑想」の手段として、
はからずも確立するわけです。