その日はいつになく早起きした。
滅多に降りない、上野の「公園口」から恩賜公園に向かって歩いてみたのだ。
早朝6時。
用がある時間には、まだ3時間もある。
考えれば、新幹線ができてからは、上野駅すら滅多に降りたことがない。
況んやおや、この出口など何十年ぶりだろう。
右手には西洋近代美術館の銅像たちが出迎えていた。
当然ながら、門扉は固く閉ざしたままだ。
正面に見える東照宮すら開業前だ。
上野大仏も拝めず仕舞。
どこかから「ラジオ体操」の音楽が聞こえ、
ジョギングする人が追い越していった
右手に精養軒を臨みながら、五條天神社の参道を降りる。
動物園入り口の脇を抜けながら、いつしか不忍池の畔にたどり着いた
不忍池には、蓮が所狭しと密集していた。
弁天堂に向かう参道では、屋台の準備を始める商売人たちがせわしなく動いていた
それを尻目に向こうでは、早起きのマダムたちが太極拳にいそしんでいる。
弁天堂のどこかエキゾチックな意匠と相まって、
まるで台湾か香港にでもいるような気がする。
蓮の群生を横に見ながら進むと、あちこちからはじける音がした。
見ると、蓮の花があちこちで咲き誇っているではないか。
「開いた蓮の花は、早朝しか見られないのよ」
彼女がいつしか言った言葉を思い出した。
至極幸運な、有り難い気持ちになった。
なるほど、「蓮華」のありがたさとは、こういうことを言うのか。
確かに開花した蓮の花は、言いようもない神々しさを感じざるを得ない。
仏陀が蓮に乗っているという表現は、あながち誇張ではないだろう。
それに対して、蓮の花以外の意匠や、環境は決して良いものではない。異常に大きな葉や茎、そしてよどんだ沼水だ。しかも早朝にしか
その美しい花は見ることができない。
だからこそ希有な「神々しい有り難さ」が生まれるのだろう。
池のあちこちに、蓮華座がどんどん生まれていた。
その一つ一つに「仏」が乗っているのではないかと、無理なく思えてしまう。
しかし、その水面下では無数の鯉がうごめいていた。
鯉というのは、その貪欲さが目に見えて解る。
水面でバチャバチャと音を立てて見せる、
あの丸い口に、美しさは感じられない。
蓮に乗った仏から見たら、あの貪欲な口はまさに「煩悩」そのものではなかろうか。
しかし、うごめく鯉は、蓮の花すら見えず、ただ目の前の欲に溺れている姿にも見える。
ふと、芥川の「蜘蛛の糸」の冒頭が思い浮かんだ。
不忍池をあとに、上野の駅の方に向かう。
早朝のアメ横は、昨夜の残滓と、今日の始まりに向けての慌ただしい動き。
道に横たわる、巨大なドブネズミの死体とともに、
うごめく人と鯉の姿が、自分を含めて重なって見えてきた。
昼に向かい、仏の乗った蓮の花はやがて閉じるのだろう。
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