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伊集院研究室

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たのしく「そうだったのか!」とうなずける、オールジャンルの研究レポート。
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シンメトリーの研究

「シンメトリー」とは「対称」のことです 最も象徴的なのは「左右対称」のように、一つの中心軸や点を基準にして、同じものが相対することを言います。  なぜこのテーマを選んだのかというと、歴史的な建造物や、思想、宗教にしてもこういったシンメトリーが希求されている点にあります。  あたしなりに、人々が古来はもとより、なにゆえシンメトリーを希求したのか、あたしなりに考察してみたいと考えました。  それになんとなく気づいたのが、台湾でいくつかの寺院を訪ねたときでした。これらの

「こころの命」に対する不安

現代は「殺心」が蔓延している これは、あたしもたぶんあちこちで犯してると思うので、本当に偉そうなことは言えないのです。  まず、このことをお断りしてから、お話を進めていきたいと思います。 「殺心」とは、あたしが考えた造語です。現在、なんとかハラスメントなどという言葉がやたらはびこるようになって、皆さん何も言えず萎縮してる感もありますね。こういう風に何かしら「萎縮」させる状態がそうなのかな。という意味で使います。  あたしらが育った「昭和」の時代なんか、いまここに持ってき

人を殺してはならないという理由は何か

「殺人は良くないことである。」 この命題は誰もが同意することです。ところがそれはなぜかと尋ねると、大きく二つの意見に別れます。 「人を殺したら罪に問われるから」という意見と、 「そもそも人を殺してはならない」というものです。 これは「倫理道徳」を考える上では当然現れるものです。前者を「目的論」とよび、後者を「義務論」とよびます。 そして、二つの意見はどちらも「正しい」事であるからです。  しかし、その正しさとは何でしょう?  正しさが担保された世界は、人々の心

宗教が生まれる心理的なメカニズム

さて、前回は投影化のお話をいたしました  ここでは自らのパーソナリティを確立させる心の動きをお話ししましたが、ひとつ課題が生まれたことに気づいたと思います。  すなわち、自分の外にあるものから、自分の投影した自我を防衛するには、作り出したパーソナリティを閉じ込め、外界と遮断する事が第一段階であるわけです。  ところがここでひとつの不安がさらに広がります。それは遮断したはいいけれど、自分の根底にある超自我に対する不安です。わかりやすくいうと「価値観」とでも言いましょうか、

#3 父と母との「縁」を探る

「まずは、キーパーソンやな。」 ニーチェちゃんは唐突に言った。 「はるかちゃん、あんたのおとんおかんに一番近い人は誰や?」 なるほど、その通りだ。  そうなると、おばあちゃんか飛鳥お姉ちゃん、そして村野先生ってところか・・。 ・・・・でも、ちゃんと話してくれるかなぁ・・みんななんとなくその話題には触れたくない空気が満載だし。  こいつは難問かもしれない。  ニーチェちゃんにそのことを告げると、 彼女はまるでシャーロックホームズのようなポーズで呟いた。 「それは、

「不安」解消作戦における防衛アイテムとは何か

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芭蕉の人生観

ちょっとした機会があって、松尾芭蕉さんをテーマにお話しすることがありました。 という理由もあり、芭蕉さんをいろいろ調べた事が過去にありました。今回は、そこで得た雑感です。  芭蕉さんと言えば、日本を代表する「俳諧」の始祖のおひとりです。  さて、この方に関して、真っ先に思い浮かべるのは、やはり「奥の細道」という紀行文です。  内容は、自身を西行法師になぞらえ。各地での行状に「俳句」を添えて章を綴っています。考えてみれば現代の「フォトエッセイ」のような感じですね。

対立と正義と

あるテーマで「ディベート」演習を行うことがあります。 この演習は、いわゆる討論するプロセスを習得することが目的なので、最終的な結論を導き出すことはありません。 コンテストとか大会などもありますが、基本的には勝負を目的とはしてないのです。 さてディベートでは、あるテーマについて、あえて「立場」 を分けて討論します。しかも「対極」で。  ですから、その場では必ず互いの「正義」がぶつかることになります。  すなわち、人為的に「対立」の場を設定するわけです。 そうして「対戦

独坐大雄峰とマウンティング

今回は「禅の公案」の紹介から始めましょう、出典は「碧巌録」という公案集です。とりあえずは、読んでみてください。 さていかがでしょう。 なんとなくわかるような、なんかちょっと違うかな?みたいな印象ではないかと思います。 「独坐大雄峰」という言葉は、山のてっぺんに俺一人いるぞ。みたいな印象を受けるのですが、実は「大雄峰」は地名であって、百丈懐海が住んでいる場所でもあるのです。  だからちょっとややこしいというか、「大雄峰に囚われてはいかんぞ」という仕掛けにも思えるのです。

「法界定印」         =大安心のメッセージ

座禅を組むとき、手を身体の中心において親指そっとあわせ、左右の手で一つの器を作るように手を合わせる。これを「禅定印」といいます。  仏像を観ると気づくと思いますが、様々な手の組み方や、パフォーマンスをしています。  あたしたちも、プレゼンするときにジェスチャーして、アピールするのと同じく、各仏像もじつはこの「印相 」でおのが思いをアピールしているのです。 それゆえ、仏像に接するとき、その印相を観ることで、その仏様のメッセージをくみ取ることができるというわけです。  こ

「不安」の正体

 この課題も東西問わず、人間が人間たる故に避けて通れない心の働きであると言えます。  すなわち、人間が人間たるが故に、「不安」は常に存在するものである。というわけです。 「人間とは考える葦である。」 とは、パスカルの有名な言葉ですが、この言葉は何の存在目的もなく、厳然と法則のままに存在する宇宙の機械的な在り方と、そこに存在させられた「人間」の存在を言い得ているのかもしれません。  すなわち、宇宙に対する無限の恐怖の前に、たまたま迷い込んだのが「人間」である。ということです

己の存在とはなにか?

 この命題は古来から存在し、それゆえに「哲学」や「宗教」が生まれたのだと言っても過言ではないでしょう。  たとえば、自分の存在が「人間」であるには、「知」という人為があると西洋哲学は捉えています。  すなわち、タレスが言う「万物の根源は水である」というように、すべての存在は「自然」からなっているという自然哲学から、「人類は万物の尺度である」とする、「人間中心」の哲学に変化しました。  そこから「人間」とはいったいどのような存在なのだ。という問が生まれるわけです。 西洋哲学

「応身変化」の意味

さて、観音経では、このように記述しています さて、この文面で考えるのであれば、「観音」という存在は、「どのような場面においても、観音の誓願は行き渡っているのだ。だから、心に観音を念じることが肝要である。」  という風に解釈できます。まずは、「仏陀の智惠」を着けている観音は、あらゆるところに存在する。という前提条件がここで出されています。  すなわち、そのどこにでもいる「観音」は、あなたがその姿を見たり聞いたりし、その観音の智惠を念ずれば、苦を滅することができるよ。  と

観音菩薩という存在

 今まで何度も「般若心経」を写経したり読経したりして参りましたが、最近「まてよ?」と思うことがありましたので、感想程度に書いておきましょう。 ですから、解釈論だのあ~たこ~だの内容ではないことを最初に申しておきます。  さて、お経でも最もポピュラーな「般若心経」ですが。冒頭からいきなり「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時」  と切り出します。直訳すると観自在菩薩(観音菩薩)が真の智恵の本質を究めたとき。となります。そして  「照見五溫皆空、度一切苦厄」 と、いきなり結