Life Story Last 大日向小学校、退職。そして、これから。
新入生を加え、
約120人になった子どもたちと共に
2年目を迎えた大日向小学校は
緊急事態宣言の下、
オンラインで新学期を
スタートした。
誰もやったことのない形で
常に手探り状態。
同僚たちと知恵を出し合って
プログラムを改善していったあの日々。
毎日、たくさん笑ってた。
<2年目>
2年目は、担任をもたず、
1・2・3年生の下学年3クラスを巡回する担当。
担任じゃないのは寂しくもあったけど
あの仕事量に耐えられる自信がなかったから
正直、ほっとした自分がいた。
下学年は、
上学年と大きく違った。
上学年は、少なくとも
ほとんどの子が公立小学校の
一斉授業を経験していた。
問題を読む。
答えを書く。
そういう学びの方法は
教えなくてもできた。
まっさらな1年生に
自分で学ぶ方法を伝えながら
学力が身につくようにするって
本当に難しいこと。
教室中を動き回り
個別の対応に追われた。
学級全体を
観察できたのは
僅かだった。
これでいいのかを
問い続けた。
オランダで何度も聞いた言葉。
「イエナプランでの良い教師とは
一見、サボっているような教師だ」
ポケットに手を入れて
子どもたちを見守り
できるだけ動かない。
授業の終わりに疲れているのは
教師ではなく
子どもたちでなければならない。
私がしていたのは
それとは
程遠い仕事だった。
<イエナプランは良い教育か>
イエナプランが全ての人にとって
良い教育なのか。
私は違うと思う。
イエナプランは
見通しが曖昧な手法が多い。
ブロックアワー(自立学習)には、
臨機応変なプラン修正が求められるし
ワールドオリエンテーション(探究学習)は
好奇心の向くまま進んでいくことがある。
”一人ひとりに寄り添う”
”学校共同体”
それがコンセプトだから
手法にこだわることはない
と考えてきたけど
コンセプトはコンセプトのままではいられない。
具現化するときに、必ず手法は必要になる。
子どものリズムや、協働的な学びを
重んじるイエナプランでは
場の流れによって決まる活動や
他者と関わる活動が
多くなる。
大人も含めて
その環境が
心地よい人もいれば
そうじゃない人もいる。
そもそもペーターセンが
イエナプランに
インクルーシブ(どんな子も一緒に学ぶ思考)を
取り入れることができたのは
子どもたち同士が
自立的・協働的・持続的に学ぶことのできる
【子ども学的環境】を整えることで
教師に余白を生み
それによって
支援が必要な子の対応“も”でき、
より多様な子を教室に受け入れることを
”可能”にしたから。
どんな子でも受け入れることが
イエナプランではない。
あくまでも
“教師の余白”が前提。
その前提がなければないほど
より限られた子しか学べなくなるのが
イエナプランのリスクだと思う。
<体の異変>
春頃から始まっていた
お腹の痛みや、
喉の苦しさ。
気になり始めたのは
1学期の終わり。
夏休みに受けた健康診断。
どこにも異常はなかった。
2学期は
毎日、何かしらの薬を飲んで
働いた。
特定の状況になると
出てくる症状を
無視できなくなったのは
10月ごろ。
新しい病院に行き
症状を話しているうちに
涙が止まらなくなった。
自分でも何がなんだか
分からなかった。
体の検査と
心の検査。
両方を受けた。
診断名がつき
「休んだほうが良いよ」と
お医者さんに言われた。
その時は「まだ大丈夫です」と
伝えて、帰った。
仕事をしたい気持ちがあるのに
思うようにいかない体。
自分以外の人が
操作しているみたいに
コントロールできない。
子どもたちの前で
冷静な対応ができなくなってる自分に気がついて
11月から
1ヶ月間の休職を決めた。
<休職と退職>
休職する時は、
元気になって戻ってこよう
って思ってた。
人手が足りない現場を
同僚たちに任せることへの
心苦しさが大きくて
「1日でも早く戻る」
って言い聞かせることでしか
その気持ちが拭えなかった
休み始めてから数日間は
とにかく眠った。
昼夜の境もなく
眠り続けた。
少しずつ体が動くようになって
窓を開けた。
久しぶりに
風が顔に当たる感覚。
毎日、日向ぼっこして
ぼーっと暮らした。
外で誰かに会うのが怖かったから
夜だけお散歩をした。
「これからどうしたいのか」を
自分に聞いた。
何度聞いても
答えは一緒だった。
「自分らしく、暮らしたい」
その代わりに
手放さないといけないものが
私には大きかった。
子どもたちに会えなくなり、
学校づくりの夢を諦め、
イエナプランから離れることを
天秤にかけた。
横並びの文化が強い教員の世界でも
競争を感じてきた。
私は
“学び続け、実践し続ける教師のレース”を
走り続けていたと思う。
「行動する」ことだけが取り柄で
「動く」ことでしか、道をつくったことがない。
だからこそ、
『止まる』ということが
ものすごく怖かった。
でもこれまで
私が子どもたちに望んできたことは
“自分が心地よいと思う人生を、
自ら選び、作り、生きていってほしい“
ということ。
それができていない自分に
何ができるんだろう
そう思い至った時、
退職を決めた。
退職をするのであれば
学年を終える3月までは
子どもたちと過ごしたい。
同僚たちと働きたい。
って思った。
だから、体が全快ではなかったけど
予定通り、1ヶ月後、復帰をした。
でも結局、体はもう頑張れなくて、
1月中旬から再度休職。
そのまま3月末で退職という方法を選んだ。
<Life Storyを書いた理由>
いろんな葛藤はあったけど
体のことがなければ
今でも大日向小学校で
働いていたと思う。
そうでなければ
辞める勇気なんてなかった
「あなたの居場所、ここではないよ」
体が出すサインの意味は
最初から分かってた
それを受け入れるために
私は、”それなりの理由”を
用意した。
でもやっぱり
どんな立派な理由をつけようと
結局、私は
何一つやり遂げることなく
何かも嫌になって
大日向小学校から逃げたのだと思う。
退職を決めて以降、
現場で葛藤し続ける仲間を見て、
私も頑張らないと
って思った。
大日向小を辞めるなら
それに代わる何かをしないと
って思った。
逃げる自分を弁明するためだった。
”教育でやりたいこと”を書いた紙は
すぐにいっぱいになった。
でも、動こうとすると、
これまでの苦しさが蘇った。
学校という組織に属しているとき
私は表現力を失った
教師としての服部秀子
イエナプランナーとしての服部秀子
”誰かが作った何か”に
自分を当てはめていくと
自分が何を感じているか
分からなくなった
それがもう
うんざりだった。
今、こうして
大日向小のことを言葉にできたのも
そこから離れ、自由になったから。
あの場所を離れて3ヶ月。
自分にとって何が苦しかったのか
ようやく言葉にすることができた。
休職中、ある人から
“あなたは教師に向いていない”と
はっきり言ってもらえて
安心したのを覚えてる。
協調性はないし
足並みを揃えるのが苦手。
理論より感覚を優先するし
考えるより先に、やってしまう。
組織には向いてないし
私のような人がいると
組織にとっても厄介だと思う。
人生はまだまだ長い。
苦しい思いをする場所からは
早めに抜け出して
新しい世界へ行くことを
考え始めた。
そんなとき、
とある農家さんのLife Storyを読んだ。
こんな風に、
これまでの人生を振り返るって
いいなって思った。
書き始めると
忘れていた、いろんなことが
ドドドって出てきた。
記憶を辿って
自分の行動とその理由を
思い出す。
その繰り返し。
でもその記憶が正しいかなんて
自分でも分からなかった。
結局、私ができたのは、
起こった出来事に
今の自分で、”意味づけ”する
ってことだけだった。
<今の気持ち>
まず
私、よく頑張ったな。
って気持ち。
本気で
教育を変えたい
と思って
自分にできることをやり
少しくらいは
何かの役に立ったはず。
決してムダではなかったし
全部が経験として残った。
これには
誇りをもちたいと思う。
“学校”という場所を離れて3ヶ月。
大人にだけ接する暮らし。
もちろん、それも楽しいけど、
物足りなさも否めない。
たくさんの可能性をもって
真っ直ぐ生きようとする
”子ども”という存在が
私の人生にとっては
“彩り”になってたのかもしれない。
何をするのか
何を言うのか
予想外のことばかりの
あのワクワクする感じ。
やっぱり
まだ、やりたい。
教育のこと。
それだけは分かった。
ふみ出す勇気のない私を
体が助けてくれた。
乗ってたレールから無理やりおろして
新しいレールに乗っけてくれた。
それは
17歳から始まった
「誰かのための人生」を終わりにするため。
もう
息子のためでも
社会のためでも
子供たちのためでもなく
自分のために生きること。
体は、それをさせるために
すぐに治せるくらいだけ
壊れてくれたんだと思う。
これが
起こった出来事の
私なりの“意味”づけ。
Life Storyはここで終わり。
<最後に>
できるだけ、主語は自分だけ。
できるだけ、誰かを傷つけないように
できるだけ、正直に書いた。
今のところ、どこからも
クレームは来てないから
ホッとしている(笑)
私は、
思ってることと
言ってることと
やってることが
同じじゃないと
死んでしまうみたいだから
自分が何を思っているのか。
それを見つけるために
これからもnoteを続けていこうと思う。
コメントやメッセージで感想をくれた人たちに
とても助けられました。
本当にうれしかったし、
それがなければ、
ここまで自分に向き合って書くことは
できなかったと思う。
読んでくれてありがとうございました。
こんなめんどくさい私ですが
これからもよろしくお願いします。
Top photo: Hayashi Hikaru
End photo: Kume Yuki