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茶の本

記念すべきnoteの初Postタイトルは「茶の本」。

それはそれは立派な経営者の皆さんと一緒に、「明富会」という明治時代の歴史を勉強するサロンのようなものに参画しています。

昨年末に立ち上がって昨日は3回目の学びの場。岡倉天心の「茶の本」を題材にして、明治時代の精神や日本人の生き方やあり方を再認識する事が出来たし、現代にも通じるところが多いどころか、現代だからこそ学ばなければいけない事だらけだなと思いました。

岡倉天心の「茶の本」。昨年末に読んだ本の中で、誰かの「私のおすすめ三冊」の中に入っていて、読んでみたいなと思っていながら読まなかった一冊。

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今回はこの一冊を法澤建築デザイン事務所 代表取締役、一級建築士の法澤龍宝さんが解説してくださった。本当に素晴らしい解説。感謝です。

「茶の本」というタイトル通り、お茶や茶道の話かなと想像していたのですが、違いました・・・。

「茶は風流な遊びではなく、自性了解の一つの方法。」

お茶やお茶にまつわる文化、芸術を通して、自己の内面と向き合い、新たな価値を産み出す日本精神を西洋に示す一冊でした。

日露戦争で勝利し、世界が東アジアの小国の凄さを実感しだした時、アメリカで刊行された「The book of tea」という本。内村鑑三の代表的日本人や新渡戸稲造の武士道同様、外国に向けて日本の精神性を知ってもらう為に書かれたもの。

昭和の初めに日本語訳が出されるくらい、当時の日本人は誰も知らなかったというから面白い。
今回、法澤さんの解説を聞いて、学んだ事、考えさせられた事が多かった。

日本の茶の湯は、中国の茶の文化を受容するところから始まったが、文化や思想という面で全く新しいものを生み出した。文化、芸術、思想、あらゆる面で同じ事が言える。

岡倉は、「純粋と都雅(上品で優美なさま。みやびやかなこと。)を崇拝し、主客協力して浮世の姿から無上の幸福をつくる儀式」である。と言っている。ここに真理があるなと感じる。

不完全な美。完成ではなく完成する事。

すごく日本的だと思う。

西洋のそれと対比してみると分かりやすくなるかも。(決して西洋批判ではありません。)
西洋の特徴はいかに理性的に「自慢」するかであり、日本の特徴は「内省」によるものである。と岡倉も言っているように・・・

西洋は絶対的なものを好む文化かなと思う。一神教というのもあるかと思うけど、美しさや信じるものが分かりやすく提示されていると思う。ある程度の主張があって、(言い方は悪いけど)それを押しつける文化だと思う。外に美を求めるところや美しい人工物を作る文化。

一方、日本的な美や信じるものは、その人の解釈やその人の心の中に見出される。「目の前の現象や作品を見た私の中に美しさや芸術がある」という相対的なものかな。だから、創作物よりも自然を愛でる感覚。自然の中に美や神様をみる。整い過ぎていないある意味カオスな状態。日本的な文化は心の内面に求める。

茶室とかが良い例かなと思う。

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茶室は、いわゆる「虚」。何も無い狭い空間の中へ、躙口(にじりぐち)で刀を置きその部屋に入る。
身分など関係なく、誰もが内面的精神と直接の交通を求められる。

簡素な装飾の中、自己と向き合う中、自己の想像によって「美」を完成させる。

まさに不完全な美。完成ではなく完成する事。

この「完成ではなく完成する事」というのが非常に興味深かったし、私自身の心の中にも、この真理の芯を立てたいと感じた。

太閤秀吉の話当時、珍しい朝顔を庭全体に植え、丹生込めて培養した。噂は太閤の耳に入ると太閤はそれを見たいと利休宅へ招く。しかし、利休は庭の朝顔を全て刈り取る。秀吉はムッとした表情で茶室に入るが、床の間には珍しい青銅の器に一輪の朝顔があった・・・という話。

秀吉は心の中で庭全体の朝顔を咲かせたんだと思うし、そうする事の方が本当の美しさに出会える事を利休は伝えたかったんだと思う。伝言と共感。

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主客で一つの芸術的な関わりを完成させる事が「おもてなし」。
もてなす側の主が思いが客に伝わり共感する事で完成する。おもてなしは人との心が通う芸術かもしれない。

このお話を聞いていて、一人の経営者の方が加賀屋の伝説の女将の話をされていました。
詳細はお聞きしていませんが、加賀屋の伝説の女将さんはお部屋の外でも丁寧に美しいお辞儀をされるそうです。お客様からは決して見えないところ。

これも芸術かなと思いますね。美しさ。

美しいものがそこにあるのではなくて、心の中に美しさを見出す。
日本人は、そう言った精神性があるんんだと強く感じる事ができた。

今、私たちは毎日の中でそのように生きられているのかな?
経済合理性の中で自然を征服しようとしたり、効率化の名のもとに余白を排除したり。
それぞれの心の中に「真理」を求めていたのに、皆んな同じような価値観を植え付けられているような気がする。

「これが正しいでしょ!」が強すぎるような気がする。

茶室と違って、情報の量も多過ぎるから、働き方や仕事、生活が、どんどんどんどん人工的なものに支配されているんじゃ無いかな。

おそらく岡倉天心がこれを書いた時代も、同じような時代だったのかもしれない。激動の明治時代の後半。国際社会に躍り出て存在感が増す中、いわゆる西洋的幸福が正しいと信じ込まされそうになっていた時代かもしれない。

多分、そう。今と同じ。今と同じというか、その時代から現代までずっと、西洋的近代化を追求し続けたんだと思う。

150年くらい。

けど、長い歴史から見たら150年なんて一瞬!

もう一回、この近代文明社会の中で心を大切にして、生き抜くという事を考えてみたい。私たちの先人はそう出来ていたと思うと、すごく楽しみ。

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