出会いの構造化としての遊戯空間        ― 遊戯の現象学的考察 ―

    序   遊戯への注目

  Ⅰ   遊戯の性格記述
熟知性、没目的性、自由性、不確定性、緊張性
規則性、自己完結性、全体性、反復可能性

  Ⅱ   遊戯を構成する契機とその二重性
玩具、遊戯者、遊戯的共同体、時間と空間
遊戯世界

  Ⅲ   遊戯世界の反復性と象徴性

  Ⅳ   原初の遊戯世界――祭祀の世界

  結   出会いの構造化としての遊戯空間

         1974年3月

    京都大学大学院工学研究科建築学専攻
         増田研究室

         土手 英俊


序 遊戯への注目

いかなる時代も、今日ほど客観的な遊戯の可能性を遊戯の機会に恵まれていたことはなかった。ただしどの時代も、かくも巨大な生の装備を意のままにしたというのは絶えてなかったことなのだから。(◇1)

 我々の身の回りには、いわゆる遊び場である遊戯場・遊戯施設がは氾濫している。町の中には喫茶店が軒を並べ、「職場や階級よりもむしろ個人的親密さに従って集まり、少なくとも見かけは、ある贅沢さを見出し、自由に(政治的について、女について等)、そしておそらくは浅薄に(だがこの自由にあくまでも執着して)語る場所・遊ぶ場所」(◇2)を提供している。娯楽施設の集合地帯である歓楽街は、ブラブラしながら遊びを求める人々に劇場や映画館をスナックをゲームセンターを提供している。郊外には遊園地が準備され日曜日ともなれば子供にせがまれ、そして、子供の健全な成長を願う親たちを受け入れる。そして百貨店の玩具売場には工業的な大領生産でいくらでも作れるオモチャが山積され、子供を含めて大人達をも、遊びへと駆りたててゆく。
 また現在、遊戯が人間の生存にいかに重要な意味をもつかということが洞察され、それは、独特の価値と固有の地位を持った生の刺激として肯定され、保護されている、禍多い近大技術社会の救済手段として、さらには、若返って活力を新たにする力 refreshment、recreationとしていわば「新鮮な根源性塗柔軟な創造性への還帰・沈潜」(◇3)として称讃されている。
 しかし、そこ肯定・称讃は皮肉にも、近大技術文化そのものが多量にはき出す遊戯施設や遊戯道具、生活そのたもの多大な装備を意のままにしている技術文明そのものによって可能となり保証されている。そこには遊戯を志向しながら真に遊戯できなくして、空ろなまなざしをした顔が満ち満ちていることか。遊戯は日常的なものの単なる延長として決して〝魂の遊戯〟とはなりえず、安らぎ、憩いの場を提供することもない。
 問うべきは、客観的な遊戯の可能性と遊戯の機会を安易に裏付けている技術文明そのものであり、この技術文明を生み出してきた近代合理主義であろう、目的を指定することによりすべてを客観化・無機化し、分析・統合を試みるという近代合理主義が、人間を世界の主に据え、その主の表象化作業によって組み立てられた虚構の世界を形成することは、今や周知の事実であろう。そして、主の自己拡大欲は、表象作用によって世界を対象化できるという意識の働きによって、ますますその加速度を増し、虚像の量産・情報の氾濫をきたしている。ハイデッガーが近代を「世界像の時代」(◇4)と断定するのも、人間が存在するものを、存在する世界から切り離し、それをこちらの表象物に据え直しながら、逆に世界そのものまでも支配し、物象化しようとするからである。そして、よりいっそうの悲劇は、主そのものが宙に浮いた物象となってしまっているという疎外された現実であり、主がこの現実に気づかない存在忘却の状態である。
 この近代合理主義の罪禍は人間の生活環境を構成する建築においても免れるものではなかった。近代建築の推進者たちのほとんどすべてが合理主義的立場に達〝建築をみなの手に〟を目ざし、客観性・普遍性へと向かい機能主義が唱えられた。それは技術文明を支える機械への絶対的な信仰のもとに機能=目的を満足する機械装置の建築を促進した。無機的な箱である住装置が建ち並ぶ住宅団地には、所々に緑をあしらった公園が配置され、コミュニティセンターが建設される。均質化した都市にはその均質化の治療として広場が散蒔される。しかし、今日の広場は、「調和の波が純粋で完璧な音の甘美な音楽のように自分に向かって打ちよせてくるのを感じる」(◇5)広場でもなく「集団の大きな祝祭の役に立つなどということはまれで、日常生活からはますます離れてゆきつつあり、もっぱら光と空気をとり入れ、家また家の単調な海をつき破り、ときには重要な建物を建築的な額縁のなかに入れて、はっきりと見せる」(◇6)のに役立っているだけである。そして、それは都市の中心的にある、偉大な民族の世界観照の知覚表現」(◇7)になはなりえず、「世俗的なものや陳腐なものは何一つない」(◇8)、「世界から切り離されているが、人間精神のもっと崇高な作品を豊かに持つ」(◇9)超現世的な広場でもない。「定規で公式規則通り裁断してつくった現代の広場に、もともと精神的内容などありはしないし、ありうるのは、せいぜいじかじかの広さの空虚な地面にすぎない」(◇10)。
 都市計画的見地から、近代合理主義の帰結である均質化された環境の改善として、そして、なおもその合理主義的分析手段を駆使して計画される公園・広場・遊園地その他の遊戯施設は、我々の精華k津環境に新たな均質空間を生むにすぎない。
 本来、「人間に安らぎと幸福感を与えるように建設されていなければならない」(◇11)都市が、生活環境の構成が、どこまで行ってもニヒリズムでしかありえないという、この存在的危機は、新たな解決を必要とする、それは、ルフェーブルにあっては、断片化された日常生活の還元としての総合化・全体化であり日常生活から離反した祝祭の復権である。原広司にあっては『浮遊の思想』である。(◇12)『自由な領域』を意味する浮遊とは、「全体的な合目的性のなかに組みこまれて」(◇13)いながら、「いずれ目的に従った直線的運動に転化される運動形態ではなく、これと対立する普遍的な運動の形態である。きわめてあいまいな無目的な運動であり、方向が定まらない運動である」。(◇14)近代技術文明の支えである因果律は連続的な事象を説明し、機械的な運動の形態を説明する。そして因果律による機械的な分析は浮遊の領域を切り捨ててしまう。しかし、我々の身の回りには、因果律にのらない多義的で非連続的な現象が多く存在する。現代の都市の存在危機はこの多義性・非連続性を許容し、止揚された全体性を持ちえないところにあろう。浮遊状態は、因果律にのらないずれを許容し、かつずれ(を忘れさせることなく、ずれを解除する領域である。原広司は、このずれの解除において、自他の同時性、その出合いが可能となり、都市は連帯の表出となりうる、とする。
 
 以上、現在の遊戯施設、そしてそれらを包む都市を外観してきたが、我々に緊急に要請されるものは、生活環境の均質化の改善として、しかしなおも均質化の助長でしかありえない遊戯施設を提供することではなく、いわば遊びの精神といったもの、また遊戯とは何か、何でありうるかということの解明であり、遊戯現象そのものへの注目、つまり、現象学的な考察であろう。
 以上の問題意識にたって、第Ⅰ章では遊戯のさまざまな性格を記述することにより遊戯現象を概観し、遊戯が任全存在の根本現象であることを明らかにする、第Ⅱ章では、遊戯を構成し、その契機となるもの――玩具・遊戯者・遊戯的共同体・時間と空間――を考察し、その契機のもつ二重性を記す。そして、二重性の契機の集約であり、遊戯現象の領野ともいうべき遊戯世界を指定する。第Ⅲ章では、この遊戯世界が仮称Scheinであり想像的次元に属し、魔術的性格をおびること、そして何よりも根源的な意味において象徴であることを照明することにより、第Ⅲ章までの歩みの正当性を確認する。


第Ⅰ章 遊戯の性格記述

《熟知性》
 我々は「遊び」という言葉を多種多様に使い、また、多種多様に「遊ぶ」。それは、緊張のゆるみ、余暇、気晴らし、浪費でもあり、何かを演ずる、あるものを表現すること、模倣すること、遠足や物見遊山のように野山をあるきまること、惰性で生業を持たず無職であること、他郷に行って学問すること、賭け事にふけること、でもある。また、しまりのないことや物が焼きに立っていない状態、動物が戯れている状態をも表す。そして英語・独語においてもその意味の中核をなす言葉はplay、spielen、Play、Spiel、であり、日本語におけると同様の内容を持つ。
 このように、遊びはだれもが心の内で知っている生の現象である。だれでも遊ぶということを知っており、さまざまな遊びの形式を心得ている。しかも、自分の固有の体験を通じて知っているのであり、外的な出来事として見いだすわけではない。確かに物事が役に立っていない状態、たとえば、「土地が遊んでいる」という「遊び」もあり、動物の戯れている状態を表す「遊び」もある。しかし、ここで扱うのは人間の遊び=遊戯であり、人間の存在構造から見た遊戯であって、物事の弛緩状態・動物の遊びという比喩形でしか表現されない遊びは排除する。
 遊戯は何よりも体験される行為であり、理解力をもって明らかにされる出来事、自らよく理解している人生の出来事、日常的に熟知している出来事である。
 この遊戯の熟知性は、遊戯に関してさまざまな日常的解釈を招いてきた。つまり、遊戯は学習とか生産あるいは労働、真面目と相対するものとして考えられてきた。それらは次のようである。
 
 『遊んでばかりいて、ちっとも勉強せぬ、働かぬ』という言葉に象徴されるように、遊戯は真面目な実人生にとって有害なものと見なされ、それは『遊蕩』や『遊興』であり、浪費につながり、顔発に通じるものであり、日常生活への嫌悪感を増大させたり、途方もない気晴らし的行為に逃避させて、あらゆる文化的努力や社会的責任に対する関心を弱め、人間失格に通じるものであるとされた。
 しかしまた、遊戯に積極的価値を位置付け、研察もされた。「人間はその完全な意味において、人間である限りにおいてのみ遊戯し、また遊戯する限りにおいてのみ完全な人間である」(◇1)としたシラーは、文化史にとって遊戯が極めて重要であることを指摘し、遊戯の起源・基礎をあり余る活力・生命力の過剰を放出することであるとした。また「歓喜の雀踊りがダンスとなる」(◇2)そして、「遊戯は大人の活動のドラマ化である」(◇3)としたスペンサーは「遊戯は労働の子供である。何らかの真面目な活動をモデルとしないような遊戯の形態は存在しない。したがって、これは遊戯に先立つモデルでもある」(◇4)としたヴントとともに、人間が遊戯をするのは、先天的な模倣本態に従っていると考えた。
 カール・グロース(◇5)は動物の遊戯を検討し、遊戯が戦うことの練習になることを説明しようと努力した。そして動物の遊戯から、人間の遊戯に転じるにあたって、彼はh遊戯の本能的自然発生的側面を重視し、遊戯の活動を感覚器官の遊戯・運動器官の遊戯、知性・感情・意思の遊戯の三種類に分類し、人間の感覚や能力が直接的効用のない無償の行動様式をも取りうるとういうこと、この行動様式はその無償性のゆえに遊戯に属し、将来の真面目な任務に備えて個人を準備するのに役立つとした。彼によれば、遊戯は単なる実践ではなく、種々の機能の発達に貢献するのもであり、言わば『実践以前』(◇6)であり、下等動物から高等動物や人間に共通して極めて一般的である成長の現象としての遊戯は、心理的・生理的成熟の法則以外では説明されえない。
 このようにカール・グロースは遊戯の原理を本能的欲望の中に求め、遊戯を実生活がやがて要求してくる真剣な仕事のための練習として、克己・自制の訓練として役立つもの、そして、それはアンリ・ヴァロンの言う「遊びは確かに生活上の実際的必要性、現実的状況あるいは、人間としての当然な配慮によって、あらゆる人間に課せられている訓練や職務遂行の中断ではあるが、決してその否定ではなく、むしろそうした訓練や職務を前提としたものである」(◇7)として位置付けた。
 またピアジェは、天真爛漫でその生存の全く中心であるように見える子供の遊戯に心理学的・教育学的立場から考察を加えた。(◇8)彼は、遊戯を基本的には、機能的どうか、あるいは再生的同化と考え、思考の出現により象徴が単なる実践に代わり、社会的関係の形成によりルールが象徴に代わり、実践を統合するとして、遊戯を次のように三つに分類した。
 その第一は、機能的快楽のためにただ実践し、それ以外の目的では実践しないという「機能的遊戯」あるいは「実践の遊戯」(出生時~2歳)であり、第二は、実践的遊戯が進化したものとして「象徴的遊戯」(2歳~7歳)である。それは、子供が以前使用した活動、あるいは以前に観察したことはあるが今は眼前にないという事物を内部的に、心的に、呼び出すことのできるような時期に、実践的遊戯が進化したものである。また第三は、子供の社会圏が拡大し、欠くべからざるものであった遊戯が生活そのものの提供する補償や清算の手段によって、また、ひとり以上の人物でやる象徴的遊戯が減少することによって生ずる「ルールのある遊戯」(7、8歳~11、12歳)である。
 彼はまた、遊戯を説明するために、今日まで主張されてきた規準について、六種を数える、第一規準は、『遊びがそれ自体において目的』であることである。より正確に言えば、子供は自分の力を実践し、自分自身を活動の原因として覚知することを楽しむ限りににおいて、内方へ何かっているといことである。第二規準は、真面目な思考が人や物に対する同化を調節において均衡しているのに比べ、遊戯は自我に対する実在の同化であるという意味における『自発性』である。第三規準は、真面目な活動がその快楽的性質にかかわることなく、有益な結果というものに向けられるのに比べ、遊戯は『快楽のための活動』であるということ。第四規準は、真面目な思考がいつも秩序立っているのに比べ、遊戯には『組織的構成が欠けている』ことである。第五規準は「コンフリクトからの解放』である。正確には、実生活そのものの提供する補償や清算によってではなく、問題の抑圧によって、あるいは、その問題にうなづくことでさる解答を与えることによって、自我が報復される、という意味における『コンフリクトからの解放』である。最後の第六規準は、遊戯は最初の行動に包含されていない刺激もしくは勘定が方眼されてくるときに始まるもので、この付加感情がすべての遊戯の性質だとする、カルティ婦人によって提唱された『過剰動機説』である。
 以上、ピアジェは遊戯の機能的・象徴的・ルールテキという三つの分類、六つの規準を、遊戯の進化に注目し、同化として考察した。
 また、遊戯は、人間に有害な衝動を無害化させる鎮静作用であるとか、人間の行動があまりに一方的に偏った時に起こるやむをえない補償であるとか、現自治のなかで満たされなかったさまざまな願望をフィクションによって満足させることであるとも考えられている。この考えは、リースマンが「社会全般に退屈・倦怠の気分が広がりやすいのが工業文明の特徴である」(◇9)と述べているように、産業革命以来、労働ト生産が時代の理想となり、機械化・分業化・スピード化された非人間的労働によって生じる疲労や緊張からの解放として、疎外された状況からの脱出としての余暇活動推進の原動力となっている。
 19世紀においては、余暇は、「労働が人間の本質である」(◇10)というマルクスにとって「労働力の健全な回復」(◇11)「人間的成長のための余裕」(◇12)であり、プルードンにとっては「自由な仕事に参加する充分な自由時間」(◇13)を意味し、社会的実践における個人の発展を基礎づける生産的労働に対して積極的意義を有するものとして休息の時間と解され、民衆教育と同一視されることが多かった。
 しかし、これらとは逆にリペールをはじめとするアメリカの社会学者達は余暇を「報酬とは無関係に自由に追求されるところの直接的満足をもたらすような活動」(◇14)とした。そしてこの定義は、余暇の概念と明らかに対立する活動として、職業上の仕事、付帯的もしくは補助的業務、家庭での仕事、生身の人間としての活動、家庭における社交あるいは宗教関係の活動、必要な勉強の六種をあげたヂュマズディエに受け継がれた。彼は、余暇の三機能すなわち休息、気晴らし、自己開発に注目し、余暇とは個人が職場や家庭・社会から課せられた義務から解放された時に、休息のため、気晴らしのため、あるいは利得とは無関係な知識や能力の養成、自発的な社会的参加、自由な想像力の発揮のために、まったく随意に行う活動であると定義し、余暇が単純に非人間的労働や退屈な日常作業の補完、あるいは補償であるとみなされていることに疑問を発する。余暇は社会の中でのウェイトが増すにつれ、行動モデルを設定するようになり、また日常生活のスタイルさえも左右しうるものであり、分業と細分化という近代的労働課程に対する補償現象としてのみ余暇をとらえることは、「余暇における労働の効果」(◇15)を重視するあまり、「労働に対する余暇の影響」(◇16)を無視し、労働と余暇との関係を改善する方向を遮断するとして、フリードマンが区別した娯楽に対する単純な要求と自分の人間性を生かせる興味深い仕事をしたいという補償要求に注目し、アンドレ・ヴァラニャックの「余暇概念についての多くの誤解は、余暇活動を労働とは無縁の活動への逃避としてみるのではなく、近代的労働形態があらわれる以前の活動への回帰として認識することによって氷解するであろう」(◇17)とする、「旧文明」の遺物に関する命題を背景とし、労働過程の性格によって規制される社会現象である余暇と、余暇も影響を及ぼす労働課程、その両者の作用が相補する全体的過程の確立を叫ぶ、
 しかし、ヂュマズディエの言う全体的過程とは、「職業活動の対極側に現実世界とは異なる規律や価値の支配する周辺的、幻想的世界があり、これに属する遊戯や会員制の活動があることによって、日常生活の均衡が保たれる」(◇18)という意味においてのそれではある、
 また、ルフェーブルも「今日の人間は、・・・・・・それぞれに自発的に、自己の日常生活の批判を続けている。そしてこの日常性の批判が、日常性の必要欠くべからざる部分をなしており、余暇の中で、余暇によって果たされている」(◇19)として、余暇を日常生徒の間の関係として捉え、労働、家庭的及び≪私的≫生活、余暇という日常生活における諸要素の関係の中に総体的構造(アンサンブル)、全体性(トタリテ)を見出すことの必要性を説く。
 彼は余暇の社会的な歴史を次のように捉える、つまり、最初は総体的で分化されていない活動をおこなわせ、日常性のいろいろな面からあまりよく区別できなかった余暇は、より高度な段階になると、受動的な態度を伴うようになり、まさに日常的な余暇になり下がり、受動性と通って貧困へと向かう。この受動的な余暇自身の中に潜在的な疎外化の性格が現れている。そして最も高度な投落(★)では余暇は能動的態度、きわめて専門化された個人的余技を生じしめるが、この余技は技術に結びつき、従って技術的要素を伴った、文化的な余暇である。
 このように余暇は、日常的なものの中に非日常的なものとして現れるが、労働の細分化された性格が、その社会的・政治的文脈がいかなるものであれ≪疎外するもの≫であるように余暇の中にも疎外が存在し、余暇は、労働から抜け出るという意味しか持たず悪循環である。そして工業文明における≪労働・余暇≫というユニットとしてしか捉ええない余暇が、「日常生活とが別のものである限りでそしてそれにも関わらずその日常生活の中にあり、疎外であるという限りで、避難をなしている」(◇20)と、結ぶのである。

 以上、「遊戯」のさまざまな解釈を概観してきたが、それは、無益で浪費であり、あり余ったエネルギーの放出・模倣本能の発露・努力した後の緊張の緩み、生活の要求への準備、遊戯的人間から労働的人間への変身訓練、果たされなかった欲望の補償としての遊戯解釈である、共通して言えることは、なぜ遊戯は行われるのか、何のために遊戯をするのかという原因・目的を問題にし、遊戯は遊戯以外の何ものかのために行われる、何かの目的に役に立っている、何かのための治療手段として解釈されていることである。この他を指し示すという目的連関における遊戯解釈は、遊戯そのものそれ自体の本質がいったい何なのか、遊戯がどういうあり方をしているのか、遊戯をしている当人にどんな意味があるのか、という肝心な問題を明らかにしていない。気晴らし、弛緩、愉快な息抜きとして、真剣な責任ある人生の活動性と対しして考えることは、遊戯の「問題の部分解釈」(◇21)でしかありえない。
 遊戯を真面目と対比することの誤りは語源的にも明らかである。ホイジンガの指摘によれば、真面目を表すさまざまな言い方は、ギリシャ語でもゲルマン諸言語でも、またその他のどの言語の場合でも、ただ「遊び」という一般的概念に対して「遊びではないもの」という消極的な概念を打ち出そうとして、言語は副次的にやってみた試みにすぎないのである。「真面目」とは「遊びではないもの」であって、それ以外のものではない。しかし「遊び」は「真面目ではないもの」とは定義できないし、それに尽きるものではない。つまり真面目は遊びを閉め出そうとするのに、遊びは真面目を内包したところで一向に差支えなく、遊びという概念そのものはいわば真面目より上野序列に位置している。

≪没目的性≫
 遊戯という生の現象を、その面白さ、快からみるとき、何かのための治療手段としての遊戯解釈は何ら解釈を見出していない。我々は遊戯の中に、面白さの中に遊戯するのであり、そこで魂をゆさぶり遊動するのである。ただ一つの目的連関があるとすればそれは遊戯のための遊戯である。他を指し示す目的には従っておらず、目的を自己のうちに持っているという意味において没目的性を有する。
 この没目的性は人間の存在構造から見ると次のように位置付けられる。
 人間は外に曝出されていると同時に隠されている。動物のようにもはや自然のふところのなかに抱かれてはいないが、他方、身体のない神や天使のように自由であるというのでもない。人間は、あの差し迫ってくる市によって規定され、特徴づけられ、また全体において身体的・感覚的な存在者として、大地の抵抗と恵みとのかかわりによって規定されている。人間の自由は自然のなかへ植えこまれた自由であり、己を惹きつけ、支配する暗い衝動に結びつけられている。動物・子供・天使・神のような単純素朴な形での存在ではなく、自分固有の生存への了解的にかかわっており、また、他方自らの自由な作用によって自己を完全に規定するということもできない。「人間的な実存の仕方は曝出と秘匿というこの交錯によって、常に緊張した自己による自己へのかかわりであり、我々はたえざる自己関心のなかで生きる」(◇22)
 このような外に投げ出された状態性・被投性としての自己関係と、投げかかる投企としての存在了解という、謎めいた両義的な存在構造をなす人間的実存において、死・労働・権力・愛そして遊戯は基本的な緊張関係と根本構造とを形づくっている。しかしこの死・労働・権力・愛・遊戯といった人間的実存の本質的根本現象において、遊戯行為の没目的性格は特異な位置を占める。
 遊戯は自発的・能動的であり、生き生きとして衝動に支えられており、いわば自己活動的生存であるのに比べ、他のどんな活動・行為においても、たとえそれがその目的を自分自身のなかにもつ単純な実践であれ、またはその目的をある制作物の中にもつポイエシスであれ「その都度なされる行為のすべては、根本的に人間の『究極目的』を幸福・至福を指し示す」(◇23)。我々が活動するのは責任ある真面目な人生の歩みの中で、幸福な生存を希望するからである。一つの「課題」を設定し、幸福を求めて努力する「この人生における著しい『未来主義』は我々が植物や動物のように単純素朴ではなく、むしろ自らの生存の『意味』を見つけようと努めるという、基本的な特性と密接なかかわりがある」(◇24)。しかし我々はこの未来主義的目的連関の生存にあっていつも「途上にある」ことを自覚せねばならず、そこには、一瞬たりとも静かな滞在というものがない。「己の断片的なん存在の完成と充実を求める衝動に心を奪われているのであり、未来への展望のなかに生き、現在を準備・宿駅・通過点と感ずるだけである」(◇25)。「われわれが幸福を絶えず追求しても決してそれに到達できず、完全な意味では、なん人の死の前には幸福と言われないというのは、人間的実存の意味深い逆説である」(◇26)。
 逆説的で両義的な、そして計画的なん人生の様式がきまって不安・性急・悩み多い不確定性などの相を呈する人間存在にあって遊戯は没目的的であり所有すりことなく、在るに還元され、すべての未来主義的な様相とはきわだった対照をなしている。また、日常的な複雑な諸目的の構造のなかにはめこまれておらず、遊戯の性格は、人生航路とその不安なダイナミズム・暗黒の不確定性、絶えざる未来への指示などのような性格とは対照的に安らかな現在と自足的な意義をもつ。それは、「ほかの行為の幸福追求とタンタロス的な努力の砂漠(★沙漠)のなかに出現する幸福な『オアシス』の如きものであり、はっきりとした自己完結的意味での遊戯行為の純粋な自己満足こそが、遊戯において時間のなかでの人間的な休らいの可能性を開示する。そこでは、時間は引きさかれるもの、流れゆくものという性格を失い、むしろ滞在のゆるしが、いわば永遠の閃光は与えられる」(◇27)。
 人間存在の行動のうち、その大半を占めるところの目的連関における生存は、いわば道具の製作であり、人間存在が作り出す対象に対して所有とゆう関係を保持するためである。『存在と無』の第四部において人間存在を〈為す〉〈持つ〉〈在る〉という三つの主要なカテゴリーとして全体的にとりあげたサルトルによれば、遊戯とは人間存在がその最初の起源であり、彼自身がそれの原理をたて、そのようにしてたれられた原理に従ってはじめて帰結を持ちうるような活動であり、その際、遊戯を通じて人間存在が狙う目的はその存在においてその存在が問題であるような存在としての自己自身に達することであり、他の諸行為は〈為す〉〈持つ〉に還元されるのに比べ、遊戯は〈在る〉に還元され、人間的実在のうちで特異な根源的な位置を占める。
 遊戯の没目的性とは「目的のない」「目的から自由な」行為であるというのではなく、人間存在の合目的的、有意義的、価値規定的、計画的活動のもとに定住するということによって、目的・意義・価値・計画を内に蔵さなければならない。「遊戯は我々の生の歩みの連続性を究極目的に規定された連続性を中断する。それは不思議にも他の生の営みからは抜け出して、距離を保つ。しかしそれは統一的な生の流れから見える、まさにそのことによってかえってその流れに意味深く関係する」(◇28)。


≪自由性≫
 遊戯は何よりも自発的・能動的に行なわれる活動であり、拘束され強制される活動ではない。それはヴァレリーの言う「興味が縛りつけたもの、倦怠によって解き得る」(◇29)ところの自発性・任意さであり、命令され、また、義務として課され、あるいは単に勧められただけでも、遊戯の構造は分解してしまう。遊戯の構造契機として自由さは、日本の都市における遊戯施設と宗教の結びつきを指摘した加藤秀俊においても明らかである。彼によれば寺社は宗教施設の持つ超俗的な神聖観念によって治外法権的な特殊性を得ていわば都市内における自由地帯と呼ぶべき性質のものとなり、遊戯施設の開発を力づけた。寺社は神聖な象徴というよりは、むしろその自由地帯での自由な活動にあった。
 また、遊戯の自由さは、選択における自由さ、外的なものからの自由さだけにとどまらず、遊戯行為における自由さでもある。遊戯において行為はそれ自体に対してそれ自身の目標ではなく、遊戯者の存在そのものである絶対的自由をその人自身に示し、現前させるという役目となる。遊戯者はその活動そのものにおいて自分を自由なものとして発見することに向けられていると言える。

≪不確定性≫
 また、遊戯の絶対的自由性が遊戯者の主導権に委ねられており、あらかじめ成行きがわかっていたり結果が得られたりすることはなく、不確定性を生む。

≪緊張性≫
 そしてこの不確定であるということ、やってみなければわからないということにより、遊戯の中では特に緊張の要素が重要な役割を演じている。そしてこの緊張はまさに「賭けられている」ことを示すものである。従って遊戯は緊張を解こうとする度量句であり、何か緊張の状態に入ることによって、歩こうと雅「成就」しなければならない。しかし、ホイジンが指摘するように、この緊張の要素は勝敗を競う遊戯においてその絶頂に達するものであり、どうやら遊戯とある種の倫理的内容を共にし、それを分かち合っているようである。つまり、この緊張の要素は「炎のように激し願望」(◇30)を抑える為の、固有の秩序・規則を必要とする。

≪規則性≫
 遊戯の規則は日常生活から隔離された――一時的な遊戯世界の中で適用される。この規則は「その根底をなる土台を揺るがすことができないという取り決めによっているので、遊戯の規則に対しては懐疑というものはありえない」(◇31)。そして規則が犯されるや否や遊戯世界は崩壊し、日常世界へと移行する。しかし遊戯の規則性は法則ではない。遊戯の最中にさえ、遊戯仲間の同意を得て変えることのできる規則である。ここにフィンクの言う『即興的遊戯』が受け入れられる地平があり。この即興的遊戯には「自由な空想力を働かせる余地があり、単なる可能性の軽やかな領域へ脱線することができるし、また、自己束縛が選択され、いろいろな工夫や着想を妨げられずに働かすこともできる」(◇32)。しかし、遊戯規則の束縛性がすでに決まったものとして、一つの制度として、「まさに楽しく、積極的に体験させることがある」(◇33)。それは『伝統的遊戯』というものであり、「集団的空想力の産物であり、原型的な心の奥底の自己規則からできあがっている」(◇34)。
 たとえば、鬼ごっこはそれぞれの社会生活に妨げになるような鬼を鎮め、追い払う呪いをこめての大人のいわばドラマであった。(◇35)二月の節分のころ、旧暦でいえばだいたい十二月から新年の一月に移るその境目のころに、一陽来復を願って寺院の堂内や神社の社頭で鬼を鎮め追う所作を演じていたのである。それを大人たちが真面目くさって行うのに飽きをおぼえ、もっと簡単に鬼を追う手段として彼らに供物としての豆をささげながら引き下がってもらう、あるいはその霊の暴れるのを鎮めさせるというふうに変化した。そしてまた、この呪術を大人がやらなくなったので、子供たちが、いわば鬼ごっこの管理を自分たちで引きうけるようになり、遊戯として伝承されているのである。
 遊戯の規則はカイヨワにあっては、虚構的活動と対立するものであり、遊戯は規則を持ち、かつ虚構的なものではなく、規則を持つかもしくは、虚構的であるかのどちらかであり、両者は相互に排他的なものとして現れる。現実生活と対立する第二の現実、あるいは、全くの非現実という意識を伴う虚構的活動においては、「あたかも・・・・・・のごとく」という感情が、規則に代って規則と全く同じ機能を果たしている、という。しかし、この活動の根本的非現実性の意識が遊戯を規定する恣意的な規則や、遊戯の非現実性という密約的共同了解がともに遊戯における秩序をなるものであることによって、特に、遊戯の崩壊――それは、「規則の不条理を告発」(◇36)することであると同様に、「魔法を破り、提案された幻想に従うことを野蛮にも拒む」(◇37)ことである――において、氷解するであろう。

≪自己完結性≫
 また、遊戯は目的連関を有する他の日常的な活動と異なることは、日常生活の一時停止を意味し、限定された領域内で完結する活動であることの示す。そして、この自己完結性は、遊戯そのものの中に固有の経過と固有の意味を持たせる。
≪全体性≫
 遊戯は日常化され、断片化されたさまざまな現象のなかにあって、人間存在が全体でありうる現象である。人間存在は、遊戯においてあらゆる可能性が開かれており、「滞在のゆるし」(◇38)を得た「安らかな現在」(◇39)に憩い、全体でありうる。そして、遊戯はサルトルの言う〈在る〉に完全される唯一の現象として、ホイジンガの言う「遊戯の面白さとはそれ以上根本的な概念に還元させることができない」(◇40)非合理的な現象として、フィンクの言う真面目を演じ、かつ、遊戯をさえも演ずる(spielen ein spiel)という言語表現をとる特殊な現象として、真面目や労働といったものと対立することなく、真面目や労働をも包含しながら、より高次元に属する全体性と言える。

≪反復可能性≫
 また、遊戯は自己完結性をもった全体性であることによって、遊戯という現象を一度終わったあとで直ちに繰り返すこともできれば、長い間をおいたあとで反復することもできる。遊戯には持続・反復の可能性が秘めらている。

 以上の性格記述から明らかなように遊戯は一般的に考えられているところの真面目に対する周辺現象ではない。日常の真面目な生活の流れの連続性を中断することにより、しかもその連続性に意味深く関係する。従って遊戯は人間存在固有での独立の根本的現象であるといえる。


第Ⅱ章 遊戯を構成する契機をその二重性

 遊戯の性格を記述することによって、遊戯現象を概観し、遊戯が人間?ん材の根本的現象であることを示してきたが、この遊戯を構成するものとして、玩具・遊戯者・遊戯的共同体、時間と空間の四種類が考えられる。そして、これら四種は集約されて、つまり遊戯が成立するための契機をなって、日常的環境世界を脱出しながら、しかし、なおその脱出によって、日常的環境世界と意味深く関連する、非日常的な「遊戯世界」を形成する。

≪玩具≫
 我々人間は、ものから自由であることはできない。遊戯においても、玩具というものを必要とする。玩具とは、「玩」の状態――「玩」とは、中国語において広大な意味の領域をなし、「ふざける、戯れる、茶化すなどといった動詞から連想できるような子供っぽい遊戯の程度の軽い無邪気な気晴らし、屈託のない異常で奇妙な性的行動、熟考を要し性急を禁ずる遊戯、料理や酒の味を楽しむ喜び、芸術品を蒐集する趣味、小さい装飾品を愛情こめて眺め、手に取り作る趣味」(◇1)を表現するものであるが――における道具である。しかし、道具としての玩具は人間の労働による技術的制作物、「玩具産業の生産物であり、一定の対価で賄うことのできる商品」(◇2)だけにとどまらず、外見の類似性がどうあれ、一切れの木片や折れた枝がその役を果たすように自ら存在するものという意味における自然物ででもありうる。両社とも共通の包括的な現実性のなかに我々が日常生活における現実性は玩具の本性を規定している非日常的な遊戯世界の現実性と奇妙なかかわりをもつ。玩具は非遊戯者から見た場合、他の道具としての諸物と同様に、明らかに現実的な世界の一片であり、「遊戯者のお相手を勤めるという目的をもったもの」(◇3)であるが、遊戯者からみた場合、一つの意味像として、子供の人形遊びにあっては、人形というものが「子供」という意味像として現れ、玩具としての道具性を逸脱する。玩具は全くの現実性を具えており、「遊戯世界の包括的意味連関の内に場を占め、そこで空想的適在性や役割機能を持つ」(◇4)。
 玩具は二重性をもった、両義的なものであると言える。

≪遊戯者≫
 遊戯が人間存在の根本的現象であることからも明らかなように、遊戯には遊戯者の存在が必要不可欠である。そして、遊戯者は現実の世界で一定のそれぞれの型で知られている行為を遂行するとと同時に、遊戯の内的な意味連関においては、遊戯者はある役を引受けているのである。遊戯者は日常的環境世界と、非日常の遊戯世界とを行き来する。いわばジキルとハイド氏のような二重存在として、遊戯する現実の人間、遊戯の内部で一定の役を引受ける人間として存在する。そして、遊戯者は彼の役によって自己自身を装い、その演じられた役に没頭し、独特の強さをもって、その役のなかで生きる、と言える。
 しかし、二重存在である遊戯者は現実世界と遊戯世界とを区別できないような狂人ではない。人間存在そのものが、そうであるように、「決して病的でないにせよ、まったく一種独特な『精神分裂』が介在している」(◇5)だけであり、遊戯者は自分自身を被っている役から、自分自身を任意によびもどすこともできる。人形で遊戯する子供が、「子供」である人形の意味をよく心得ているように、遊戯者は己の二重存在をよく了解しているのである。

≪遊戯的共同体≫
 遊戯は『一緒に遊ぶ』『だれそれと遊ぶ』という言語表現から明らかなように、人間的共同社会の親密な形式であり、遊戯的共同体をもつと言える。第Ⅰ章で見た遊戯の熟知性は、個人としてよりも
社会的な共同体としての熟知性であり、遊戯は「共同生活をするという理想を満足させるもの」(◇6)である。たとえ一人で遊戯しているとしても、必ず想像的な相手――たとえば、人格化された玩具とか遊戯の意味連関における想像上の相手、見物人――と遊戯しているのである。
 また、遊戯的共同体は、一般に遊戯が終わった後もまた持続する傾向がある。ある例外的な状況の中に一緒にいたという感情、共同で日常世界を抜け出し、日常の陳腐な規範をいったん放棄したという感情は、その遊戯が持続する領野を超えて、後々まで、その魔力を残すものである。これは、後で検討するように、古代共同体において祭祀がもつ鋳物重要性を暗示するものである。

≪時間と空間≫
 いかなる人間的活動においても、その舞台である空間と、動きを約束してくれる時間とを必要とする。このことは遊戯という活動においても例外ではないが、遊戯における時間と空間は、日常の時間的空間的な現実性の連関にありながら、日常世界では、いかなる時の間も、いかなる場所をも持たない、いわば内的時間と内的空間である。
 遊戯はある時間始められるが、しかし、ある時間それは終わっている。おのずと進行して終わりに達し、時間的制約のもとに完結する。その進行のあいだ全体を支配しているのは、運動・動きであり、ダイナミズムである。高揚しては、また鎮まるという変化、同期的な転換、一定の進行順序、疑集と分散である。
 そして、遊戯の時間的制限よりもっと強く目立つのは、空間的制限である。いかなる遊戯も前もっておのずと区画された遊戯の空間、遊び場の内部で行われる。場を区画することは意識的に行われることもあり、当然のこととしてひとりでに場が成立するときもある。また場の区画が現実に行われる場合もあれば、ただ観念的に設定される場合もある。
 遊戯は時間お酔い空間の厳密なん限界の内部で始まり完了することによって、本質上、日常生活の他の部分から切り離され、慎重に区別される。

≪遊戯世界≫
 以上の四種の契機は集約されて、遊戯という特殊世界――遊戯世界を形成する。遊戯世界は、四種の契機のもつ二重性により。我々の住まう日常的環境世界を逸脱し、しかし、かえってそのことにより。日常的環境世界と意味深く関連するという、例外的な立場と特殊な位置を占め、何か秘密の雰囲気に取り巻かれた領域である。我々は遊戯世界において、別の存在になっており。別のやり方でやっているのである。遊戯世界が日常性とは別の存在であること。秘密に満ちていることは、仮装や変装に何よりもはっきりと現われている。仮面をつけた遊戯者や変装した遊戯者は、他人の役を、別の存在を「演ずる」のである。しかし、より正確には遊戯世界において、遊戯者は別の存在そのものであると言えるであろう。
 このように我々は、いわゆる現実世界で遊戯するのではあるが、その際「無ではないが現実てきでもない」(◇7)不可思議な領域を得るのである。従ってこの遊戯世界は仮想的次元に属するものであり、「仮象(Schein)」の領域であると言える。


第Ⅲ章 遊戯世界の仮象性と象徴性

 遊戯の契機がもつ二重性は、遊戯世界が仮象の領域であり、想像的次元に属するものであることを示す。しかし、この仮象は単に主観的な空想の要素だけでなく、客観的な存在の要素をも含むものである。たとえば、子供の人形遊びにおいて、客観的な存在の要素である人形は、主観的な空間の要素である「子供」である。また、子供は「母親」である。従って、遊戯世界は二つの次元――現実性と仮象性――が重なりあって繰り返されるという魔術的な性格をもつと言える。現実性のなかのものを基盤にした仮象の領域である遊戯世界は、秘密に満ちた『現実性』を具えている。
 もともと遊戯は「創造的産出行為」(◇1)であり、一種の生産と呼ぶこともできる。そして生み出されるのは遊戯世界、仮象の領域であり、その実現性が明らかに十分ではない場である。しかし、この不可思議な現実性は、ルフェーブルの言うように「実際経験という現実的なものや諸表象の真理性と対立する幻影・虚構・虚偽と普通に考えられているものではなく、日常世界において、忘れられた深みを明るみに呼び出す」(◇2)現実性である。また「遊戯は、芸術及びその他のものをも、それらが日常的なものから逸脱しないようにしつつ包含する。それは諸々の外見や幻影を繰り広げてみせ、そして、それらの外見や幻影は、一瞬驚嘆すべき仕方で、現実的なものよりもさらに現実的となる。そして遊戯と共に立ち現れて来るのは別の現実性――この現実性はそれだけ別個に独立して指定されるものではなく、反対に、それは機能的なものの傍らにあって、日常的なものの中で≪生きられる≫ものではあるけれど――である」(◇3)。
 この日常的現実性の次元と仮象である遊戯世界における現実性の次元との絡み合いは驚異である。遊戯世界は、常に日常的現実世界にその舞台を持っている。とはいっても、それは現実的諸事物に支点を得るための、必然的に現実的事物を必要とする。
 我々が日常的に出会う物象化された対象が遊戯世界という、いわば想像的次元でいかに実在性を帯びて立ち現われるかは、ポンティのフットボールに関する言明でも明らかである。彼によれば、フットボールのグランドは、走りまわっている遊戯者にとっては、「対象」ではない。そのグランドはさまざまな力線(「タッチライン」や「ペナルティエリア」を限る線)によって辿られ、また、ある種の行為を促す諸区画に分節されて、遊戯者の知らぬ間に彼の行動を発動し、支えるのである。グランドは彼に日常的事物としての対象として、与えられているのではなく、彼の実践的志向の内在的目標として、実在性として現前しているのである。遊戯者はグランドと一体となり、直接に感じているのである。
 遊戯世界の仮象性、現実・非現実の関係をもう少し掘り下げると次のようであろう。
 遊戯者は何らかの事物を――それが人工的に準備されたにせよ、そうでないにせよ――玩具として利用する。彼が利用して遊戯する事物と、彼が一緒に遊戯に入る遊戯的共同体とは、彼と同様に現実的である。そして同一の現実性の次元に貴族する。そして、玩具としての事物・遊戯者・遊戯的共同体の三者が遊戯することによって、非現実的な事物と遊戯の経過の全現実性の内に、ここに存在するとともに存在せず、今孫座主するとともに存在しない「非現実的な」意味の領域が侵入する。
 しかし、「非現実的な」という表現では、何事も表現されておらず、ただ表現されているものがあるとすれば、それは、遊戯世界は現実世界の連関に単純に参与することを妨げられているということである。つまり、遊戯世界の仮象性が他の事物や事物連関と並立させ、「現実的なもの」として、立てることを妨害するということである。
 従って、遊戯世界が仮象であると言うならば、この遊戯世界の仮象を明確に、その他の周知の仮象から区別することが必要である。
 我々は普通・仮象という言葉をいろいろな意味で使う。たとえば事物の外見や表面的な外観、単なる前果としての意味で使う。また、偽りの主観的把握。誤った考え、不明瞭な観念に関して、仮象であると言う。この場合、仮象は我々、誤って把握するものの内に、つまり主観の内にある。このほか「表象する者と自称そのものとの心理関係、ないし、誤謬関係からは考えられていない主観的仮象」(◇4)もある。つまり、我々の心のなかにある、まさに想像力。空想の産物としての仮象である。
 しかし、遊戯世界が仮象であると言うときの仮象は、主観的な空想を意味する仮象だけではなく、客観的に存在するものを意味する仮象であもある。この客観的現実性の只中にある仮象の例として、フィンクは水面に映った樹木の「像」を挙げる。そして、この像は、「疑いもなく現実的なんものでありながら、そのなかに「非現実性」の要素をもつ、まったく奇妙なもの」(◇5)であり、「水上の実在的な輝きの内に表出された非現実的なもの」(◇6)である。樹木の像は「それ自体原像から派生的に現れ、原像模倣とされる」(◇7)反影ではなく、現実に客観的に眼前にある反映である。
 形而上学的解釈によれば、遊戯世界の仮象は、写像の、さらには単なる反射の、性格を持ち、模倣と規定される。そして、「非現実性」は「単純に現実的な事物に帰せられる。より低次な存在能力」(◇8)を意味する。しかし、この反映は、一定の光現象としては現実的事象であり、しかも自らのうちに「非現実的」映像世界の樹木を包含しており。形而上学解釈で言う「模倣」ではない。
 従った、ここでいう「像」とは、予め存立し、予め意識されたものを模像し、抽出することによって、像の内で表現されているものがこの像から独立的に意識されるような写像ではなく、「意味像」(◇9)と言えるものである。しかも、像の内に潜む意味が「幻視的創造作用で」(◇10)了解されるのである。
 この仮象である意味像は遊戯世界において、たとえば人形という玩具として現れているものである。従って、遊戯は、「仮象という魔術的次元における有限的創造」(◇11)であると言える。この仮象は、ありきたりの日常的事物よりはるかに強い体験的現実性と印象力をもち、「経験の事後の複製を許さない、いわばそれ自身が根本的な経験」(◇12)である。そして、魔術的な仮象という意味像での「非現実性」は、より深く、かつ、より本来的な現実性の、「まさしくあらゆるものに作用する諸力の現実性の、特別な『陥没地』」(◇13)となり、「非現実的なものという不思議が土地は、一切の事物一般の本質性を魔法のように呼び出す高所」(◇14)である。
 従って、遊戯世界において、玩具のように偶然とり出された事物が、事物としてのものの本質性を現前化する象徴となる。象徴は、「事実であり、無限の意味であって(たとえそれらが宗教的な神聖なものでなくても)、自らを提示するものであり、現存であり、現存するものであり、意味に富み、この特徴によって、《再・現(表象)》からはみ出るもの」(◇15)である。仮象である距離を取ることができ、「よい根源的な存在の力を遡示する」(◇16)のである。そして、「非現実的なもの:である遊戯世界は、超現実的なもの、つまり、最高に現実的なものの在り家となりうる。従って、遊戯世界は、その仮象性よって、ものの本来的意味、本質性を現前化する象徴的世界といえるであろう。
 
 

第Ⅳ章 原初の遊戯世界――祭祀の世界

 祭祀そのものを考察する前に、祭祀がいかに遊戯であるかを、ホイジンガとカイヨワとの遊戯に関する見解の相実を通して考察してみたい。
 ホイジンガは、それ以前にはだれも遊戯の存在や影響を認めなかったところに遊戯を発見し、文化における遊戯の精神や創造性、特にルールのある競技を支配する精神の創造性を読みとった。彼によれば、遊戯とはフィクションである、日常生活の枠外にある、と知りながら、遊戯者を全面的に補え得る自由な活動、行かなる物質的利害も、いかなる効用も持たず、明確に限定された領域の中で、完了し、与えられたルールに従って整然と進行し、好んで自己を神秘で取り囲んだり、仮装によって日常世界に対する自己の無縁を強調したりする集団関係を人生の中に出現させる活動である。
 このホイジンガの遊戯解釈に関して、カイヨワは「遊戯と秘密や神秘との間に存在する親近性を見抜いたの、確かに立派な、有意義なことではある」(◇1)と評価しながらも、「遊戯は必然的に秘密や神秘の特性において行われ、秘密を暴き、秘密を公表し、そして。いわば秘密を消費するものである」(◇2)と言う。彼によれば、遊戯活動は秘密から秘密の性質そのものを奪い去ろうとする、これに対して、秘密や仮面や衣裳は秘蹟的機能を果たす場合には、遊戯ではなく、制度が存在する。神秘あるいは仮装の特性を持つものは、遊戯に近いが、遊戯では虚構や気晴らしの役割が勝っていなければならない。つまり、神秘が敬われていてはならないし、偽装が変身や憑依の発端や兆候であってはならないのである。
 また、ホイジンガの定義のうち、遊戯がいかなる物質的利害も伴わない活動であるとした部分によって、「明らかに諸国民の経済と日常生活とに重要な役割を演じている」(◇3)賭けや偶然の遊戯は、右から左へと除外されてします、と言う。
 カイヨワは「遊戯には実にさまざまな側面があって、これを数カテゴリーに配分できるような分類原理を見出すのは絶望的に思われる」(◇4)としながらも、《競争(アゴーン)》、《偶然(アレア)》、《模擬(ミミクリー)》、《眩暈(イリンクス)》の四種の役割のどれが優勢であるかによって、遊戯を四種の主要項目に区分することを提案する。そして、これら四項目は、形式的には競争=偶然、競争=模擬、競争=眩暈、偶然=模擬、偶然=眩暈、模擬=眩暈の六種の組み合わせが可能である。しかし、この組み合わせは、競争=偶然、模擬=眩暈において「根本的な結びつき」(◇5)となる。競争=偶然は一方が自分自身の能力への信頼、「外的障害に対する意志の闘争」(◇6)であるのに比べ、一方は「仮定の運勢に対する意志の放棄」(◇7)であるという両極性をもちつつ、なお相補的である。模擬=眩暈も、一方が故意にあるものを真似るのに比べ、一方は意志の放棄だけでなく、意識の放棄さえも要求すうという両極性を持ちながら、両者の中間に位置する遊戯が数多く存在し、根本的な結びつきである。
 彼はこの競争=偶然、模擬=眩暈という二種の分類原理で遊戯の歴史を文化史として検討する。「熱狂と流動性の君臨する時間である祭り」(◇8)を持ち、「世界のあらゆる秩序が一次的に撤廃されるが、祭りの終わりと共に、それは再び強化されて現れる」(◇9)原始社会は「それだけが社会的紐帯である仮面と憑依」(◇10)すなわち、模擬=眩暈が君臨する社会である。
そして、模擬=眩暈がその主な原動力であった原始社会は、固有な意味での文明社会へと移行する。この文明への移行は、「一人の妄想と多数の熱狂とから生じたあらゆる幻惑的な混沌を排除するという代価を支払うことによって、社会は生まれ、成長し、人間は、一挙に完全に宇宙を魔術的に支配するという空しい幻想から脱して、ゆっくりと、だが着実に自然のエネルギーを技術的馴化に成功する」(◇11)という意味における移行である。そこには、「コスモスの概念――すなわち秩序と安定のある、そして、奇蹟と変身もない世界の概念――に精神が到達する」(◇12)ことによって、余儀なくされた模擬=眩暈の事実上の下落、退化に代わって、統制と体系とを持った、社会的遊戯のルールとしての競争=偶然の発達画ある。競争=偶然は、「リスクと報償とを公正に配分するための正確な計算、投機であり、互いに補い合ってもう一つのタイプの社会の原理を構成」(◇13)し、「血筋とメリットとの間、最も優れた者が克ち取る勝利と、最も幸福な者に授けられる幸福との間、の闘争によって定義」(◇14)できる「新しい社会的柚木」(◇15)である。そして、「圧倒的な仮面の神々の定期的回帰を待つばかり、一定間隔をおいて起る完全で凄絶な意識放棄によって神々の真似をするばかりである状態から抜け出て始めて、極めて大胆で豊かな企ての道に入る。それは実験し、探検する道であり、無限に開かれた道であり、文明の道歩そのものであるような道である」(◇16)。
 このように、遊戯が模擬=眩暈から競争=偶然へと移行することに意義を見い出し、文化の発展とするカイヨワが、「遊戯は神秘が敬われていてはならないし、偽装が変身や憑依の発端や兆候であってはならない」(◇16´)というのも当然の帰結として、うなづける。しかし、その「共犯関係を禁じ」(◇17)られながらも、あえて現代世界に再登場してくる模擬=眩暈とは何なのか。しかもその登場、カイヨワ自身が言うように、「かつての至高権を奪われ、公的生活の周辺部に追いやられ、隠密の犯罪的役割ではないまでも、ますます小さな従属的な役割に押しこめられてしまった状態での登場であり、人間に永遠の満足を与えるはずが、それは手綱をつけられた満足、もはや狂気や妄想も起きず、人間の退屈を紛らわせ、労働の疲れを癒すことにしか役にたたない満足なのである」(◇18)。
 模擬=眩暈の退化、競争=偶然の登場、躍進を即、遊戯の純化、文明の発展とし、模擬=眩暈の現代への再登場を客観的に分析し、受けとめる。このカイヨワの姿勢は、いささか浅薄の感を免れない。このことは、ルフェーブルをして、「《聖性》は感性の永遠の一範疇であると考えていたカイヨワは、《聖性》のたどる運命について全く何も理解していなかった」(◇19)と批判させる所以であろう。模擬=眩暈から競争=偶然への移行はルフェーブルの言う、日常的なものへの堕落であろう。確かにカイヨワが指摘するように、模擬=眩暈の被害はさまざまであるだろうが、模擬=眩暈はそれ自身が持つ仮面や憑依によってさまざまな神話・儀式・電設・典礼の下に働く一つの同じ原動力となる。
そこにおいて神秘性や聖性は暴かれるものではなく、神秘性・聖性そのものとて、体験する機会が、祭祀という形式をとって与えられているのである。
 ここにおいて、模擬=眩暈から競争=偶然への移行を遊戯の発展とみなし、その帰結として「神秘が敬われてはいけない」というカイヨワの論理は崩壊するであろう。
 また、カイヨワは、ホイジンガの定義によれば偶然の遊戯が除外されてしまう、とも言う。しかし「偶然」とは、合意的な精神が分析できない、いわばサジを投げざるをえない現象を説明するのに用いられる言葉であろう。奥深い宇宙の神秘性・真理を解明できなくて、人間的に合理化した表現であり、「部分的に合理化された人間存在の中に今なお残されている弱い部分」(◇20)、異常なもの、奇異なものを「偶然」という言葉によって、置き変えているだけである。原始人にとっては偶然はありえず、すべてが恐怖や畏敬のをあおり、神の存在を示現するものであった。それを表現し、眼前にするものとして、祭祀的遊戯が存在したのである。従って、〝神秘〟〝偶然〟に関するカイヨワのホイジンガ批判は検討違いであり、祭祀の遊戯性を検討するホイジンガの正当性を証明するだけである。
 また、祭祀が遊戯であることは、次のことからも明らかであろう。
 日本には「神遊(かみあそ)」という言葉が古くからある。たとえば神楽とは神霊をゆさぶり、人と神との交わりの中で、神を大いに興奮させ、人への接近をはかろうとする、宗教的呪術の一つであった。沖縄に残っている「アスビ」という言葉は、地下に眠っている死者の魂を揺さぶり起こし、そして、これに供物を捧げて祭りを行うことであった。また、奈良時代の律令制のなかには、「遊部(あそびべ)」というものがいて、死人の魂をゆさぶり、踊らせ、またそれを鎮めることをその職能にしていた。このように遊戯は神祭り、祭祀と深い関係を持っていたことは明らかであり、祭祀から派生した遊戯も多い。鬼ごっこは修正会の結願の行事から、そして、阿国歌舞伎は、出雲大社に宮仕えする巫女が舞った神楽が始まりであると言われている。田楽は田植えというハレの神ごとに通じる行事から、相撲は建御雷神(たけみかづきのかみ)と建御名方主神(たけみなかたぬしのかみ)とによる出雲の伊那佐の小浜での「力くらべ」から派生したと言われている。また、祭祀を表わすギリシャ語「ドローメノン」は行為されるもの、所作を意味し、ドラーマとしてPlayとして変化していく。
 また、祭祀には遊戯でみた性格と、構造契機とを持つ。祭祀は、日常的時間・空間から限界設定された、内的時間・空間――浄らかに祓われた時間・空間――内で行われ、根元的自立性を持つ。また、祭祀的人間の存在は単純でしかも全体的であったが故に、彼らの知覚するものは魔力の顕現に満ちあふれ、不確定性を生み、絶えず緊張にさらされていた。しかもその緊張情緒は個人としてよりは、集団・共同体として抱かれていたものである。また祭祀が、共同体としての儀式である以上、秩序が存在していた。
 しかし、祭祀が「創造的なもの」として、いかに両義的な人間的生存の根本現象でありうるか、そしてその仮象性・象徴性という根本的な問題は残されている。
 「未だあらゆる事物が世界光に輝き、未だ存在者がこの世界光を覆い(★)隠すほどの存在から離れておらず、未だ人間が凡で区分され、個別化されたものの全一性(die alleinheit)の知識の内を揺れ動いていた先史が、あらゆる歴史的時代に先行したであろう」(◇21)。この黄金時代とも言うべき時代には、祭祀を持たなかった。あらゆる事物は、一木一草に至るまでも神々に満ちあふれており、聖なるものであったからである。しかし時の経過とともに、それは聖性の堕落、日常化現象として、事物が利用に供せられ、人間が慣習を形作り、慣習に従って思惟し、「広い天の下の堅固な大地の上に築かれた人間の根源の住い」(◇22)を置き移し、かき乱した時、生の日常化は危険なももと感知された。そして。生の日常化を打ち破り、あまりにも周知なものへと沈下した事物――しかし、それらは絶えず神々の形想を隠し持ち、恐怖と畏敬の念を抱かせるほど神々に近い存在であったのだが――を再び、失われた聖なる輝きに引き上げることが、特殊な実践の課題となった。ここに祭祀が生まれる基盤がある。「個別化された有限なすべての事物に対して、根源的な聖性の光を再びあてる試み」(◇23)として生まれているのである。
 祭祀は一般に神々と人間との関りであって、人間的側面からだけでは規定されえない。祭祀に関する人間的な言表は神々によってまた神々自身が告知するものによって、絶えず乗り越えられ凌駕されうるであろう。しかし、我々にとっては人間的側面がまず重要であり、祭祀も事実疑いの余地のない人間的側面をもつ。
 人間はいかなる時代においても――たとえ、祭祀や神話を持った先史的時代においても――己に関する存在である。この人間的生存の自己関係は人間を動物から別つ根本特徴である。しかしこの自己関係は先史時代における人間と歴史的時代に生きる人間とでは、その性格が異なる。先史時代においては、文化した事物や合理的思惟によって規定されてはいなかった。その生存は単純ではあるが全体的であった。彼らは形のない、捉え難い力に己が曝されているとい畏敬の念を抱き死者を埋葬する。狩猟・放牧・農業・結婚・誕生・死・病禍・艱難といったものが先史人の生の歩みを作り上げる。彼らはこの全体的な生を無為に過ごし、単純に浪費したりはしない。「生において全体的に生に関る」(◇24)のである。しかも彼らは個人個人としてよりは種族中血族という共同体として関るのである。
 この先史人の共同体としての自己関係は伝統的な規定・タブー化された規則によって抑制するものとして働くが、彼らの生存の了解が活発化し、生気づき、新たなものとなることを排除するものではない。彼らは祭祀において自らを規定する関係・無数の形態をとって現れる神的魔力との関係を遊動するのである。しかし、彼らは、彼らの生を絶えず規定し不安を与え、慰めるものを、自然の神的魔力による支配を、非感性的な仕方で思惟することはできない。彼らは、それがいかにあるかを了解するために、それを見、直観し、眼前にしなければならなかった。彼らは祭祀において、その全体的な生の意味を現前化させるのであって日常の単調なお定まりからの弛緩。労働のくさびからの逃れといった実用的意味を持つものではない。
 また、祭祀は自己矛盾を欲するかのような、奇妙な構造をもつ。それは人間的生存の日常化・陳腐化に対する対抗策としての祭祀が聖なる領域の限界を設定することから始められることである。身の回りの森や丘や集落の特殊な区域が境界づけられ切断され、聖化された場所――神々の現出と告知の地とされる。また多数の普通の人間からある個人が司祭として選ばれ限界設定され普通の生の歩みから取り出される。しかし、このような司祭の選別が人間活動の特殊化、労働の分業という意味で捉えられるならば十分に把握されたとは言えない。司祭と普通の人間仲間との関係は限界設定された聖なる区域を周りの土地との関係に等しい。司祭は取り出され引き離され聖化されることによって一般的人間の日常性から遠ざけられる。普通の人間の尺度を超えさせられ、司祭は、秘儀と秘蹟の主宰者・聖なるものの告知者となるのである。また祭祀の聖なる事物は、他の日常的事物から区切られることによってその聖性を保持する。このように限定設定された区域や人や、物は、聖ならざる区域や人や物の代理・代表として働き、「生の日常性の圏域を避け、振り払い、日常自体へ貫き進む」(◇25)のである。そして祭祀は「利用と浅薄化を逃れ、根源性の源泉に帰還する、生の技術概念」(◇26)であり、純粋に人間的に考えられており、人間的自己了解の現象である。従って祭祀は両義的な人間的生存の根本現象であるといえよう。
 このように、人間的現象である祭祀が、「黄金時代」を光り輝く事物を眼前にするためには、人間的な働きかけを必要とする。それは、エリアーデが指摘するように祖形の模倣と典型的なしぐさの反復を必要とするかもしれない。彼によれば次のようである。
 祭祀は真なるもの――実在を開示するものであり、いわば、神々との出合いである。古代人にとって実在とは、天空の祖型――それは宇宙開關神話の世界であろうが――の模倣技能である。我々を取りまく世界、そこでその存在と人間的活動が感じとれる世界――山・川・耕作地・町・神殿――すべてこれらのものは、地上のものならざる祖型をプランとして、ひな型としてあるいはまた純粋に単純に、より高き宇宙的領域における二重存在として認められる。しかし、この宇宙的実在性、そして、その結果得られる正当性――実在をもったものがそれ自ら力として、効果あるものとして、また持続するものとしてあらわれること――は、あらゆるものにただ与えられるのではない。それらは原始の真実にあるものへの執心・真実なる存在に対する渇望をあらわす「無数のきよめのわざ」(◇26)――祭祀によって与えられる。従って原始人は実在そのものである天空の祖型を宇宙開關のわざを模倣するとい技術的手段をとるのである。そして祭祀は祖型が周期的に反復されるがごとく、反復されることにより、俗的な時間とその継続性は停止され時間の撥無が起り、神話の時を預かるのである。ここにおいて神々は自ら活力にあふれた形相として、出現し、古代人は、神々に出合うのである。
 しかし、エリアーデとかまったく逆の祭祀解釈がる、古代芸術と祭祀との関係を考察したJ・E・ハリソンは祭祀を次のように解する。そもそも古代神というごときものがあったことがない。あったのは古代人の環境への反応と情緒と活動であって、それが一つの表出に具象される。つまり神よりも先に祭祀があったのである。祭式は模倣を含む、が、しかし模倣から出たものではない。それは、情緒を再現しようと欲する――事物を複写しようと欲するのではなく、現実の実行される行いの一つの追想、または予想である。
 この両者の相違は彼らが立脚している論理の相違――古代形而上学的思考と近代的思想――によるものであろう。それはフィンクの言うVorschein(出現)とAnschein(外観)との相違である。Anscheinとは存在者が全体の間:主観的な人間性の表象に対応する程度に応じてする現象であり、人間に対して外的に関るにすぎない現象である。また、Vorscheinとは、なによりも先ず存在者の自分自身からの出現であり、それが偏在する現在の明るみのなかへと置かれる事を意味した。
 そしてAnscheinとVorscheinがともに存在者から解釈されているように、両者の主張する祭祀解釈は正当性に欠けると言えるであろう。フィンクはAnscheinやVorscheinからAn、Vorを取り除いたScheinそのものへ注目するのである。
 原始人は祭祀において、彼らの全体的な生を現前させ、彼らを包む意味連関を直観しなければならなかった。祭祀は「犠牲の聖別最も近く、遠大な儀礼的挙動全体の像」(◇27)である。それは限定された部分において模写することなく、全体を蘇らせるのである。「全体はいわば己れ自身の内に退き、『像において』現れる。それは有限なもののうちで自己を有限化する」(◇28)。この像こそが根源的意味における象徴なのである。そしてこの象徴的行為である祭祀的遊戯において、世界と生命の意味が現前化するのである。

 結 出会いの構造化としての遊戯空間
 我々は絶えず他を指し示す目的連関をもった活動をし、生きている。これは絶え間なき未来主義と言えるだろう。目的を設定することにより、すべてを客観化し、分析・統合を試みている。いわば人間を主に据え、この主の表象化作業によって組み立てられた虚構の世界を生きている。そして、主の自己拡大欲は、表象作用によって、世界を対象化できる、という意識の働きによって、ますますその加速度を増し、虚像の生産・情報の氾濫を来している。
 しかし、我々の活動のなかで、遊戯は特異な位置を占める。それは、他を指し示す目的連関を持たず、完結され限定された全体である遊戯世界を構成し、密かな(★★)真の現実を、現在を獲得できる活動である。そして、遊戯世界は仮象の領域ではあるが、その契機の二重性によって、象徴的性格を帯びる。「非現実的なもの」である仮象が象徴する。最高の意味での現実性はバシューラの言う、両義的な人間存在がその両義性にままに上昇したり下降したりすることのできる、光り輝き、きらめく詩的瞬間を開示するものであろう。仮象である遊戯世界にあって、ものは己れ自身の内に退き、像においてそのもの本質生を現前化し、そしてこの本質性を本質性たらしめている『世界』を開示すると言える。
 この開示された場所をしての遊戯空間は「現に在ること及び諸々の形であることを寛大に免れさせてくれる」(◇1)領域であり、時間であると同時に空間であり、空間であると同時に時間である地点に開かれた瞬間でもある。そして遊戯空間は「同時性の場所としての出合い」(◇2)の空間であり、あつみと奥行きをもち、ものという対象を超え出た透明な光景である。
 物象化された状況における広場や遊び場は、いわば表象空間であり、具体的な身体性を表わす場所ではなく、出会いの場所であう遊戯空間ではないが、原始人にとてってドルメンのある丘は彼らの魂の住まう場所であり、聖なる空間である。そのまわりでさまざまな儀式を行い。踊り狂うとき。その空間は彼らにとって、全き出会いの国であり、開かれた聖地の世界――人々の魂を遊動させる神々しさの媒介する出合いの世界である。
 また、遊戯空間における出合いが瞬間であることは、その出合いを肉体化し、普遍化するための構造を必要とする。しかし、それは、遊戯現象そのものがもつ反復可能性によって可能であると言える。遊戯がその性格としてもつ反復可能性は、すぐにオブジェに変えられ、道具化され商品化され、ついには日常の物象化を余儀なくされてしまう事物を、遊戯空間において、なんら理念も対象性も帯びない光景のままの身体性へと引き上げることによって、遊戯者が事物の本質性を本質性たらしめている『世界』の在り家(★★)に出合うことを持続させ、その両者の関係を普遍化させることを意味する。そして、この持続反復の非連続的な連続性」(◇3)によって、あつみと奥行きを持った開かれた遊戯空間は性起し、費との魂を揺り動かす出合いの場が普遍化され、肉体化され、構造化される、といええる。
 しかし、半面、この持続反復可能性は、制度化を伴い、遊戯空間を日常世界へと堕落せしめる契機を含んでいるかのように思われる可能性がある。それはルフェーブルの言う原初性を喪失した日常的状況への堕落であろう。驚異と超自然が、「神経と思考に対する軽微な刺激、特に疲れた神経や弱った思考に対する刺激」(◇4)であり、「何の危険ももたらさないもの」(◇5)である異常なもの、奇異なるものの列に落ちるすがたであろう。実際に、こうした日常的状況への堕落した遊戯も数多く存在する。しかし、そういった遊戯――例えばギャンブル・シンナー遊び――は遊戯の「変質」として捉えるべきである。この「変質」は遊戯の否定であり、遊戯がその性格としてもつ自己完結性の破棄である、持続反復可能性は、遊戯現象が非日常の閉じた領であるという、その自己完結性・全体性において、絶えずあつみと奥行きをもった出合いを構造化するものである。
 たとえば、フットボールが決まりきったゲームの制度だから、いつどこでだれがやろうとも、内容は同じだ、という考えはあまりにも認識論的な態度であり、あまりにも抽象的な見方である。ある場所とある時間とある人間で行うのと、また別のある場所とある時間とある人間で行うのとでは、その自己完結性・限定性において異なる、おのおのが一定の閉じた領域において、固有のかけがえのないゲームとして現れ、客観的にゲームを構成している対象物が意識されることなく、伯仲したぎゅっと緊張したゲームのあつみと奥行きが知覚され、出合いの構造化としての遊戯空間が開示されるのである。
 従って、出合いの場としての遊戯空間は、遊戯が自己完結的な全体を有する反復可能な現象であることにより、限界設定された瞬間である出合いを肉体化し、普遍化し、構造化すると言える。
 以上、出会いの構造化としての遊戯空間を素描してきたが、これまでのことで明らかなように、ここでいう遊戯は単に我々が普通考えている遊戯にとどまることなく、あらゆる活動においても現れる現象である。そして、我々が真に出会いを欲するならば、真に遊戯することが肝要であり、やはり、人間存在は遊戯するところにおいてのみ、両義的でしかも全体的な存在でありうる、と言えるだろう。
 また、ここで素描して遊戯空間は、我々が住まう日常世界とそのまま移行するものではないが、日常世界においても現生する可能性を有するものである。そして、日常世界にあるものを通じてしか生活環境を構成できない我々は、真に安らぎの住まいを獲得するために、絶えず、この出合いの構造化としての遊戯空間を希求しなければならないだろう。



章 注番号 文献番号 項数
序 (◇1) [2] p.4
(◇2) [12] p.61
(◇3) [2] p.4
(◇4) [4]
(◇5) [5] p.5
(◇6) [5] p.12
(◇7) [5] p.18
(◇8) [5] p.22
(◇9) [5] p.22
(◇10) [5] p.79
(◇11) [5] p.9
(◇12) [6] p.219
(◇13) [6] p.221
(◇14) [6] p.220
Ⅰ (◇1) [8] p.238
(◇2) [8] p.238
(◇3) [8] p.238
(◇4) [8] p.238
(◇5) [8] p.238
(◇6) [9] p.129
(◇7) [10] p.17
(◇8) [9] p.22
(◇9) [10] p.84
(◇10) [10] p.14
(◇11) [10]
(◇12) [10]
(◇12)´ [10] p.14
(◇13) [10] p.14
(◇14) [10] p.14
(◇15) [10] p.80
(◇16) [10] p.85
(◇17) [10] p.83
(◇18) [10] p.95
(◇19) [12] p.45
(◇20) [12] p.60
Ⅰ (◇21) [7] p.18
(◇22) [2] p.22
(◇23) [2] p.23
(◇24) [2] p.24~25
(◇25) [2] p.24
(◇26) [2] p.24
(◇27) [2] p.27~28
(◇28) [2] p.39~31
(◇29) [8] p.7~8
(◇30) [7] p.37
(◇31) [7] p.37
(◇32) [2] p.41
(◇33) [2] p.41
(◇34) [2] p.41~42
(◇35) [17] p.26
(◇36) [8] p.16
(◇37) [8] p.12
(◇38) [2] p.29
(◇39) [2] p.27
(◇40) [7] p.19
Ⅱ (◇1) [8] p.53
(◇2) [2] p.43
(◇3) [2] p.43
(◇4) [3] p.
(◇5) [2] p.45
(◇6) [7] p.33
(◇7) [2] p.47
Ⅲ (◇1) [3] p.60
(◇2) [13] p.38
(◇3) [13] p.38
(◇4) [2] p.62
(◇5) [2] p.63
(◇6) [3]
(◇7) [3]
(◇8) [3]
Ⅲ (◇9) [3]
(◇10) [3]
(◇11) [2] p.66
(◇12) [3]
(◇13) [3]
(◇14) [2] p.67
(◇15) [13] p.159~160
(◇16)
Ⅳ (◇1) [8] p.5
(◇2) [8] p.5
(◇3) [8] p.5
(◇4) [8] p.15
(◇5) [8] p.105
(◇6) [8] p.110
(◇7) [8] p.110
(◇8) [8] p.122
(◇9) [8] p.122
(◇10) [8] p.125
(◇11) [8] p.186
(◇12) [8] p.154
(◇13) [8] p.184
(◇14) [8] p.183
(◇15) [8] p.184
(◇16) [8] p.186
(◇16)´ [8] p.5
(◇17) [188]
(◇18) [140]
(◇19) [11] p.269
(◇20) [11] p.33
(◇21) [3]
(◇22) [3]
(◇23) [3]
(◇24) [3]
(◇25) [3]
(◇26) [3]
Ⅳ (◇26)
(◇27) [3]
(◇28) [3]
結 (◇1) [13] p.38
(◇2) [21] p.235
(◇3) [20]
(◇4) [11] p.34
(◇5) [11] p.34
       
[参考文献目録

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