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六千人の命のビザ②

~杉原千畝とその時代状況~ シリーズ❶~❸

➋ユダヤ人問題への日本の対応


▲カウナス旧日本領事館

 
 1940年7月18日、いつもは静かな住宅街にあるカウナスの日本領事館の玄関に人々が群がっていました。ポーランドから逃げてきたユダヤ人たちでした。
 既にポーランド政府は亡命していましたが、決して降伏はしませんでした。最初はフランスのパリに、その後はイギリスのロンドンに移って、抵抗し続けたのです。この後、ポーランド亡命政府は、イギリス軍、フランス軍などの連合国の一員となり、ドイツ軍と戦い続けました。
 
 ところで、第二次世界大戦が始まる前、ポーランドには、ヨーロッパで最も多くのユダヤ人が住んでいました。その数は、300万人とも400万人ともいわれています。ドイツもソ連も、彼らを差別し、追害しました。何の罪もない大勢のユダヤ人が、ただユダヤ人という理由だけで生命を奪われました。そこで、もはやポーランド国内にとどまっていては危険だと考え始め、国外へ脱出を試みるユダヤ人が続出しました。特に隣国リトアニアには、多くの人々が逃れて行きました。
 
 杉原が在カウナス日本領事館領事代理となった頃には、ドイツ占領下のポーランドをはじめ、ナチス・ドイツの影響の強い地域から逃れてきたユダヤ人にどのように対処するか、ということが国際的な問題となっており、極東アジアの日本も無関係ではいられませんでした。
 1940年7月26日に松岡外務大臣が在サンフランシスコ日本総領事に宛てた電報によると、ヨーロッパから日本経由でアメリカに渡るユダヤ人難民が、7月13日横浜発の鎌倉丸という船に13名、22日発の氷川丸という船に77名あり、引き続き多数に上るであろうと述べられています。 
 
 このように、日本にもかなりの数のユダヤ人が逃れて来ていましたが、その多くは、モスクワからシベリア鉄道に乗り、敦賀に上陸して日本を通過し、一旦はビザの要らない上海へ行き、そこからさらに他の国に避難していくという長旅でした。
 日本では、ユダヤ人に限らず、すべての外国人について、避難先の国の入国許可を得ていない者には通過ビザを発給しない、という方針を決めていました。なぜなら、ヨーロッパからの避難民の中には、避難先の国で入国許可を取ることができると偽って日本の通過ビザを得て来日しておきながら、実際には行き先がなく、それを理由に日本にとどまろうとする者がいたからです。また、日本までの乗船券しか持っておらず避難先の国に行くための費用もない者がいて、取り締まりに苦慮していたのでした。
 
 したがって、日本政府は、日本を通過して、他の国に向かう、いわゆる「通過ビザ」を出す場合でも、避難民が日本に留まられては困ると考えていたので、最終的な目的国の入国許可をもらっていること、そして十分な旅費を持っていることの二つの条件は、絶対に譲ることはできないと決めていたのです。
 
 杉原は、そうした日本の事情を逃れてきたユダヤ人たちに、丁寧に説明しました。しかし、突然、祖国を逃げ出さなければならなかったユダヤ人のほとんどは、目的国の入国許可も、じゅうぶんな旅費もありませんでした。
 杉原は、彼らが日本の「通過ビザ」を出すための条件を備えているかを確認しました。ユダヤ人の代表者たちは、必死に訴えました。「旅費ならば、いまは十分な持ち合わせはありません。けれど、必ず用意できます。なぜならユダヤ人は、たがいに助け合う精神を持っています。アメリカなどに住んでいるユダヤ人たちが、必ずお金を集めて送ってくれます。」
 「それでは、最終的に受け入れてくれる国はありますか」と杉原がたずねると、かれらは意外なことを言い出しました。「カリブ海にある、オランダの植民地のキュラソーという島ならば、ビザがなくても上陸できます。」
そして、五人はそれぞれ書類を取り出すと、杉原に見せました。それは、かれらを助けようとした、オランダの外交官たちがつくってくれた書類でした。キュラソー島には、ビザがなくても上陸できるということを証明する書類です。
 しかし、そのころ、オランダ本国は、すでにドイツに占領されていました。それでも、ユダヤ人たちのために力を貸した外交官たちがいたのです。杉原は、深く悩みました。彼らの言い分を認めて、ビザを出すことが果たしてできるだろうか。簡単には、結論が出せませんでした。
 
 確かに、ユダヤ人たちがたがいに助け合うことは、杉原はよくわかっていました。しかし、大勢の人たちが、遠い外国に行くための旅費ですから、かなり大きな金額です。彼らが日本に着くまでの間に、そのような大金が集まるのでしょうか。非常に難しいことに思えました。また、オランダがドイツに占領されている状態で、キュラソー島の証明書は果たして通用するのでしょうか。
 
 外交官は、本国の外務大臣の指示に従って働きます。どうすることがよいのか、日本の外務省と相談する必要がありました。このころは、国際電話はありましたが、非常に高価でしたから、外務省との連絡は、電報しか方法がありませんでした。
 杉原は、外務省へ「通過ビザ」を出す許可を求める電報を打ちました。7月28日に杉原より日本の外務省に宛てた電報には、「日本通過ビザ」の発給を求めて連日100名ほどのユダヤ人が領事館に詰めかけているとあります。
 
 しかし、外務省からの返事は、ドイツとの友好を建前に、「規則を守ってビザを出すように」というものでした。あきらめられない杉原は、二度目の電報を打ちました。またも回答は、「規則を守りなさい」ということでした。しかし、杉原は諦めることなく、外務省に三回も電報を送って、かれらにビザを出すことを認めてもらおうと努力しました。
 三回にわたる電報のやりとりで、一週間が過ぎました。その間に、リトアニア国民会議が開かれ、リトアニアをソ連に加えてもらうように要請することが決まりました。もはや、リトアニアの運命は、決まったも同然でした。
 杉原はこのままではユダヤ人はポーランドに強制送還され迫害されることは明らかでした。今なら、彼らを救うことができるでしょう。このあと、リトアニアがソ連の一部になってしまえば、日本の領事館も閉鎖せざるを得ず、杉原らは国外退去になるでしょう。
 

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