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アンネ・フランク一家の運命


▲アンネ・フランク


 1945年1月27日アウシュヴィッツ強制収容所の病棟に臥していたアンネの父オットー・フランクは、ソ連軍によって遂に解放されました。そして、2月23日にはスイスにいる母親に手紙を書くまでに病状は回復します。その手紙の中でオットーは「エーディト(妻)と子どもたちの所在は分かりません。1944年9月5日に別れたきり、わずかにドイツに移送されたという噂を聞くだけです。3人とも無事でいてくれることを願うだけです。」と書いています。
 3月になって、フランク一家が最初に収容されたヴェステルボルク収容所で一緒だったローザ・ド・ヴィンテルと再会しました。彼女はその後移送されたビルケナウ収容所にアンネ、マルゴー、エーディトと一緒にいたので、そこでエーディトが死んだことをオットーに告げました。しかし、娘のアンネとマルゴーについては、2人がベルゲン=ベルゼン収容所に移送されたため消息はわかりませんでした。妻エーディトの死を知らされたオットーは、ショックを受けながらも、せめて娘2人が生きていることに望みをかけてアムステルダムへ帰る決意をしました。実際、この頃まで、アンネとマルゴーは収容所内で生きていた可能性がありました。

 アムステルダムの住居を失っていたオットーのためにミープ・ヒースとヤン・ヒース夫妻が自宅に彼を同居させてくれ、プリンセン運河通りの会社の仕事にも復帰できました。このミープ・ヒースこそは、フランク一家の隠れ家生活を献身的に助け、生還後もオットーを支え続けたオランダ人支援者の一人だったのです。
 オットーは仕事をしながら娘たちの情報を探り続け、7月に赤十字社の調査報告を基に、ベルゲン=ベルゼン収容所でアンネやマルゴーと一緒にいたという囚人ヤニー・ブリレスレイペルに直接面会し、彼女の口から収容所内のできごとを聞かされました。

 その後の調査によると、ベルゲン=ベルゼン収容所はおびただしい数の死者を出していました。死因として最も多かったのは栄養不足による衰弱死でした。病死も非常に多く、1944年になると結核、赤痢、ジフテリア、ポリオなどの流行はとどまることがありませんでした。
 その後収容所が解放されるまでの間、特にチフスが急激に拡大し、最終的にはチフスに感染していない収容者の方が少数派となっていたのです。1944年12月2日の時点でベルゲン=ベルゼンの収容者数は1万5227人でしたが、1945年3月には5万人にも達していたのです。限界を超えた人数が収容されたために管理はほとんど行われず、収容者が飢餓状態になっても餓死や病死を待つ以外に方法はありませんでした。穴が次々と掘られ、まだ生きている収容者たちが収容所内に転がる死体を集めてその穴まで運んでいきました。

▲解放時イギリス軍が撮影したベルゲン=ベンゼン収容所


 明確な記録はありませんが、ヤニーら生還者の証言から、1945年2月末から3月下旬頃の間に、まずマルゴー、その翌日にアンネも発疹チフスによって死亡したと思われます。1945年4月15日にイギリス軍によって、ベルゲン=ベンゼン強制収容所が解放されるわずか数週間前のことです。
 大多数の収容者はチフスに感染していたため、解放後も収容者たちは5月1日まで収容所内に留め置く以外に方法はありませんでした。イギリス軍はすぐにベルゲン=ベンゼンに看護組織を設置したものの、チフスの猛威は収まらず、イギリス軍が収容所を解放した4月15日から6月20日の間にも1万5000人もの収容者が為すすべもなく死んでいきました。このような状況で死んでいったアンネとマルゴーは、極限までやせ細っていたに違いなく、穴に埋められたのか、そのまま放置されていたのかさえ定かではありません。
 ショックのあまり、オットーの顔は蒼白になり、椅子にドサッとと崩れ落ちたといいます。

 アンネの死が確認されたとき、ミープは「お嬢様の形見です」と言って、オットーに一冊の『日記』を手渡しました。『日記』は、アンネの13歳の誕生日にオットーがプレゼントした格子柄のあの日記帳(サイン帳)だったのです。『日記』は、フランク一家がゲシュタポに連行された当日、ミープが密かに隠し持ち、ずっと読まずに大切に保管していたものでした。

▲アンネの父オットー・フランク


 『日記』を受け取ったオットーは「しばらくだれにも邪魔されないようにしてくれないか」と言ってひとり部屋に籠ったと、のちにミープは回想しています。つまり、アンネ以外でこの日記を世界ではじめて読んだのは父親オットーその人だったのです。
 『日記』の内容は、アンネのことなら、自分が一番理解していると思っていた父親にとっても、驚くべきものでした。隠れ家にありながら、生き生きと想像力をはたらかせ、冷静に世界を観察した、すばらしい文章の数々・・・・・・。 娘の早熟ぶりを目の当たりにした父親は、あらためて家族を喪失した無念を痛感したに相違ありません。

 しかし、なぜ、フランク一家は、このような悲惨な運命を辿らねばならなかったのでしょうか。というのも、彼らは、この運命から抜け出すチャンスをいくつか持っていたからです。

 アドルフ・ヒトラーと同年齢のオットーは、かつて第一次世界大戦に、ドイツの陸軍兵士としてヒトラー同様、ソンム会戦などに従軍。祖国ドイツのために奮迅の活躍をし、一級鉄十字章という勲章までもらった功労者でした。
 後にオットーはこの時期のことを「当時、ユダヤ人であるという意識が全くなかったとは言えません。ただドイツ人であることの意識の方が強かった。そうでなければ大戦中に将校(中尉)にも出世していなかっただろうし、そもそもドイツのために戦ってはいません。」と語っています。そんな誇りが禍したのかもしれません。

 オットーは、1925年5月12日、ドイツ・アーヘンのユダヤ人資産家アブラハム・ホーレンダーの娘エーディト・ホーレンダーとユダヤ人が礼拝や集会を行うシナゴーグで挙式して結婚しました。2人が知り合ったのは銀行業務を通じてだったといい、資産家の娘である彼女の実家からフランク家の銀行への経済支援を期待しての政略結婚であったとみられています。
 フランクフルトで暮らす2人の間には、1926年2月16日に長女マルゴー(正式には、マルゴット・ベッティ・フランク)が、3年後の1929年6月12日に次女アンネ(正式にはアンネリーズ・マリー・フランク)が生まれました。
 父は銀行家で一家は比較的裕福でしたが、銀行業も世界的な不況から立ち直れずに業績は悪化していきました。

 1933年1月30日、ナチ党の党首アドルフ・ヒトラーがドイツ首相に任命されました。オットーはこの時のことを次のように回顧しています。  
 「1月30日、私たちはさる友人の家に招かれていました。みんなでテーブルを囲み、ラジオを聞いていたのですが、最初に流れてきたニュースはヒトラーが首相に就任したというものでした。(略)最後にヒトラーがあの有名な『4年間だけ任せてほしい』という演説をしたのですが、それを聞くとその家の主人が上機嫌に言ったんです。『だったら、やらせてみようじゃないか。チャンスを与えてやろうよ』って。私はあきれて言葉を失い、家内はまるで石になったように座っていました。」
 その年のフランクフルト市議会選挙もナチ党が圧勝し、フランクフルト市庁舎ではハーケンクロイツが壁いっぱいに掲げられ、ナチ党員が集まって「ユダヤ人は出ていけ!」と叫んで気勢をあげていました。これ以上ドイツに留まるのは危険と考えたオットーは家族をより安全な国に逃がそうと決めたのです。

 同じように、危機感を抱いたユダヤ系ドイツ人は次々と国外へ亡命しました。作家のトーマス・マンはスイスに、政治哲学者ハンナ・アーレントはフランスから次いでアメリカに、劇作家ブレヒトや理論物理学者のアルベルト・アインシュタインはアメリカに亡命していきます。
 しかし、オットー・フランクは、既に1929年夏にスイスへ移住していた義弟のエーリヒ・エリーアスからオランダへの亡命を勧められます。義弟はオペクタ商会という会社を経営しており、アムステルダムでそのオランダ支社を経営しないかともちかけられたのです。
 オットーはかつてアムステルダムで暮らしていた事があり、ある程度の人脈があったこと、また当時オランダが中立国の立場を取り、比較的難民に寛大であることなどを考慮してこの申し出をありがたく受けることにしました。

 まず仕事と住居を安定させるため、1933年6月にオットーが単身でアムステルダムへ移ります。その間、アンネは姉・マルゴーや母・エーディトとともにアーヘンで暮らすエーディトの母、ローザ・ホーレンダーの家で暮らしていました。オットーはヴィクトール・クーフレルやミープ・ヒースなど信用のできる人物を雇い、何とか事業を軌道に乗せながら、一家の住居先も探しました。妻のエーディトもアーヘンとアムステルダムを行き来して夫の住居探しを手伝いました。そして、オットーたちはアムステルダム市ザウトの新開発地区に一家4人で暮らすのにちょうどいいアパートを見つけ、そこを購入しました。1933年12月に、まずエーディトと姉のマルゴーが向かい、続いて1934年2月にはアンネもそこへ移住していきました。

 移住先のアムステルダム市ザウト地区は当時開発中で、ドイツからナチスの迫害をのがれて移住してきたユダヤ人が多く集まってきていました。フランク一家もそうした家の一つでした。フランク一家はアムステルダム市ザウト地区の一郭であるメルウェーデ広場37番地のアパートの3階で暮らしました。アンネとマルゴーは、すぐにオランダ語を話せるようになり、2人がオランダに慣れるまで、そう長くはかかりませんでした。しかし、母のエーディトは、度々ドイツへ帰りたがったといいます、

 姉のマルゴーは普通の小学校に入学しましたが、アンネは、モンテッソーリ・スクールに通いました。モンテッソーリ・スクールは自由な教育を特徴とし、時間割が存在せず、教室での行動を生徒の自主性に任せ、授業中の生徒のおしゃべりさえも推奨するという極めて革新的な教育で知られており、ユダヤ人も多く通っていました。アンネをこの学校に通わせたのは、彼女が活発で、おしゃべり好きで、その上長い間じっとしていられない性分だったからといわれています。
 父オットー・フランクは娘たちについて「姉のマルゴーは聡明で誰からも『いい子だね』と褒められるような子どもでしたが、アンネは陽気で女の子にも男の子にも人気がありました。大人を喜ばせるかと思えば、あわてさせる。あの子が部屋に入ってくるたびに大騒ぎになったものでした。」と語っています。

 アンネには、学校で「3人組」と呼ばれる、いつも仲良しのハンネとサンネがいました。1937年秋にアンネにサリー・キンメルという初めてのボーイフレンドができました。これ以降、アンネの友達に男の子が増えてくるようになったといいます。
 陽気なアンネは学校でもパーティーでも目立つ女の子で男子からも人気がありました。しかしアンネは病弱であり、百日咳、水ぼうそう、はしか、リューマチ熱など小児病にはほとんど罹患してしまうような体質でした。

 1938年10月にオットーはアムステルダムにもう一つの会社「ペクタコン商会」を設立。ソーセージの製造のための香辛料を扱う会社です。ドイツから亡命してきたユダヤ人でソーセージのスパイス商人だったヘルマン・ファン・ペルスをペクタコン商会の相談役に迎えています。ファン・ペルス一家は1937年6月にドイツを逃れてアムステルダムへ移住してきており、フランク家の近くで暮らしていました。ファン・ペルス一家はフランク一家と家族ぐるみの付き合いをして、のちに隠れ家でフランク一家と同居することとなるのです。

 1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻によって始まった第二次世界大戦にオランダは中立を宣言していました。しかし、ヒトラーは「オランダはイギリス軍機がドイツ空爆のためにオランダ領空を通過していくことを黙って見過ごしている。自分から中立国としての資格を放棄したのだ。」と言いがかりをつけ、1940年5月10日早朝にドイツ軍はあっという間にオランダ領内へ侵攻しました。オットーはじめオペクタ商会の社員たちは、暗澹たる思いでラジオ放送に聞き入っていました。

 オランダ国内はある種のパニックに陥り、オランダ政府が食糧配給制への移行を発表したため、人々は食糧を蓄えようとして商店に殺到しました。街中には空襲警報が連日発せられ、ラジオ放送も混乱。相矛盾する命令や意味が不明瞭な命令が国民に次々と出されました。オランダ国内にいるドイツ人が手当たり次第にオランダ当局に逮捕され始めると、自動車を持っていた裕福なユダヤ人の中には、オランダからの脱出を試みようと海を目指して逃げる者もいましたが、ほとんどはオランダからの脱出に成功しませんでした。

 緊迫する状況下において、フランク一家は逃亡を試みませんでした。フランク一家は自動車を所持していませんでしたし、オットー夫妻は、娘2人や年老いた祖母を連れてあちこち逃げまわるのは難しいと考えたのです。オットー夫妻や会社の人々も娘たちが心配なく過ごせるよう当時の政治情勢について、家庭内でほとんど話さないことにしました。

 5月13日にはウィルヘルミナ女王とディルク・ヤン・デ・ヘール首相以下政府閣僚はイギリスへ逃亡し、ロンドンにオランダ亡命政府が成立しました。

 降伏勧告に従わなかったため、ドイツ空軍がロッテルダムを空襲すると、5月14日夜7時、他の都市への爆撃を恐れたオランダ軍総司令官ヘンリ・ヴィンケルマン大将はドイツ軍に対して降伏することを発表しました。5月15日正午にはオランダ政府はドイツ政府に対して正式に降伏文書に調印し、電光石火の侵攻からわずか1週間足らずでオランダ全土はドイツ軍占領地となってしまったのです。

 大戦前からドイツ国内では、破壊されたガラスが夜の月明かりに照らされて「水晶」のようだったので「水晶の夜」(クリスタルナハト)と呼ばれるユダヤ人への暴力、ユダヤ人店舗の略奪、破壊、ユダヤ寺院シナゴーグの襲撃、放火といった大規模な迫害が続きましたが、オランダには占領当初、まだドイツも穏健な態度をとり、しばらくアンネたちの生活に大きな変化はありませんでした。

 しかし、徐々にユダヤ人への迫害は強化されていきました。ドイツ軍は、オランダにも反ユダヤ主義の「ニュルンベルク法」を施行したため、1940年11月にはオランダ在住のユダヤ人の公職追放、1941年5月、ユダヤ人の公園、競馬場、プール、公衆浴場、保養施設、ホテルなどの公共施設への立ち入り禁止、1941年8月にはユダヤ人学校以外に通えなくなり、アンネもユダヤ人中学校へ転校せざるをえなくなりました。1942年4月には、公共の場では、Joodと書かれた「黄色のダヴィデの星✡」を上着に付けることが義務付けられ、6月には外出も制限されました。

 1942年6月12日、アンネの13歳の誕生日に父からサイン帳を贈られ、これを日記帳として最初の日記を書き始めました。そこには「キティ―。あなたになら、これまで誰にも打ち明けられなかったことを何もかもお話しできそうです。どうか私のために大きな心の支えと慰めになってくださいね。」と記され、いわゆる『アンネの日記』の執筆が始まったのです。

 1942年7月になると、ドイツ軍当局とオランダ人の協力者たちは、ドイツの国境からそう遠くないアウシュヴィッツ=ビルケナウおよびソビボル絶滅収容所にユダヤ人を移送しました。
 そのため、「ユダヤ人狩り」が頻繁に行われました。危険が迫っていると判断した父は、何か月も前から会社が入っている建物の中に隠れ家を設置して身を隠す準備をしていましたが、アンネたちを不安にさせないため内緒にしていたのです。

 1942年7月5日、姉マルゴーにユダヤ移民センターから、労働キャンプへの招集令状が届きました。表向きの招集理由は、勤労奉仕でしたが、両親はこの招集が労働のためだと信じることはできず、応じれば強制収容所に送られるに違いないと考え、母エーディトは「マルゴーを行かせたりしません」と言い切り、翌日から隠れて暮らすことを決意しました。

▲オットーと支援者たち


 オットーは、秘書のミープ・ヒースらに隠れ家生活はあなた方の協力なしには不可能だが、よく考えて欲しいといいかけますが、ミープはその言葉を遮るように協力することを即答しました。ミープが後に記した回想録『思い出のアンネ・フランク』には、こう書かれています。「一生に一度か二度、二人の人間のあいだに、言葉ではいいあらわせない何かがかようことがある。今、わたしたちのあいだにその何かがかよいあった。『ミープ、ユダヤ人を支援する罪は重いよ。投獄されることはおろか、ことによると・・・・。』わたしは、さえぎった。『もちろんです。迷いはありません。』」彼らは、固い絆で結ばれていたのです。

 翌7月6日に一家は、プリンセンフラハト通り263番地にある隠れ家へ移動するのですが、その時のようすをアンネは『日記』にこう記しています。「家族一同、まるで北極探検にでも出かけるみたいに、どっさり服をきこみましたが、これもできるだけたくさん衣類を持ってゆくための苦肉の策です。(中略)おかげで、家をでないうちに窒息しそうになりましたけど、さいわいそのことを詮索しようとするひとはいませんでした。」

 最初に、マルゴーが、ダヴィデの星を外し、ミープと一緒に自転車で出発し、残る3人は約4キロの道のりを歩いて隠れ家へ向かいました。
会社事務所の裏にある秘密の屋根裏アパートの隠れ家は、意外と広く、後にフランク一家の他に7月13日からファン・ペルス一家3人(日記では「ハンス・ファン・ダーン」と呼ばれているヘルマン・ファン・ペルス、「ファン・ダーンおばさん」こと妻アウグステ、長男ペーター)と、11月16日から歯科医のフリッツ・プフェファー(日記では、「アルバート・デュッセル」と呼ばれている)も合流し、合計8人で同居する潜行生活に入ったのです。

 ここでの生活は2年間に及び、その間、アンネは隠れ家でのことを『日記』に書き続けました。彼らの隠れ家生活を支援し続けたのが、オットーの秘書のミープ・ヒースとその友人たちでした。彼女らは、自らの命を危険にさらして、フランク一家のために事前に隠れ家の準備をし、食料や衣服を持ち込んでくれました。
 配給制の中で、オランダ人にさえ食料がなかなか手に入らない状況下で、秘密のうちに、偽造の配給切符を取得し、遠い店まで足を運び、長い列に並んで食料を調達してくることがいかに精神的な緊張を強いられる困難なことだったか想像に難くありません。

 日記は本来、誰かに見せるものではありません。しかし、『アンネの日記』の一つの特徴は、「親愛なるキティへ」と、架空の存在へ語りかけるという形式をとることで、客観的な視点を確立し、ある種の物語性を持ったということです。
 1944年3月のある日、ラジオでウェルヘルミナ女王率いる亡命政府の教育大臣ヘリット・ボルケステインがオランダ国民に呼びかけました。「ここ何年もわたしたちが国民として耐え抜き、打ち勝ってきたことを、後世のひとたちに完全に理解してもらうために、わたしたちが必要とするのは、まさに、ごく何でもないような記録、すなわち日記や、ドイツの一労働者からの手紙、牧師や司祭の一連のスピーチなのである」と。

 そんな声に励まされながら、アンネ・フランクは、『日記』の中で、「私は理想を捨てません。どんなことがあっても、人は本当にすばらしい心を持っていると今も信じているからです。」、「希望があるところに人生もある。希望が新しい勇気をもたらし、再び強い気持ちにしてくれる。」、「与えることで貧しくなった人は、いまだかつて一人もいません。」などと述べ、潜伏生活にあっても、強い意志で生き抜こうとしていました。

 嬉しいことにラジオで時々明るいニュースを耳にしました。そうすると、戦争はすぐに終わるかもしれないと思って、みんな再び希望を持つのでした。

 1942年7月以来、ユダヤ人はナチスの労働キャンプへの参加を届け出る義務を負いましたが、フランク一家のように届出をしない者もいたため、ナチスは、度々「ラズィア」と呼ばれる一斉検挙を行っていました。ユダヤ人を一人残らず捉えるため、一つの地区や通りを封鎖し、家々を一軒一軒しらみつぶしに調べていくのです。
 1943年9月に最後の大規模な「ラズィア」が行われました。ナチスは隠れ潜むユダヤ人を捉えるため、ユダヤ人の居場所を知らせたものには賞金を出すと約束しました。それで大金を稼いだオランダ人もいました。

 そして、ついに1944年8月4日、ゲシュタポ(ドイツ秘密警察)は匿名のオランダ人からの密告を受けて、このフランク一家の隠れ家を発見したのです。この日の様子は、ミープ・ヒースの回想録『思い出のアンネ・フランク』に記されています。

 この日は、いつもと変わらない金曜日でした。ミープらが、隠れ家の階下の事務所で仕事をしていると、昼前、ふと顔をあげると、戸口に見知らぬ男が立っていました。手にリボルバーという拳銃を持ち、ミープらに「動くな!そこに居ろ!」と言いました。彼らを階上へ案内すると、「この本棚を開けて後ろを見せろ」と命令されました。

 隠れ家には、突然、隠し本棚の向こうから聞きなれないドイツ語の男の声とオランダ語の男の声がしました。すぐにアンネにはわかりました。遂に密告されたのです。アンネは恐怖のあまり、ベッドの上に座り込みました。そのとき、アンネの部屋のドアが開きました。
 「そこのお前、こっちへ来い。」オランダ人の男が、脅すようにいいました。アンネが両親の部屋に入ると、母と姉のマルゴーが両手を高くあげて立っていました。ファン・ペルスさん夫妻の後ろには、ピストルを持ったオランダ人の私服警官がいました。
 全員が集められると、ただ一人制服を着たドイツ軍の下士官が、厳しい声で、貴重品、貴金属、アクセサリーなどをカバンにいれるよう、父に命令しました。下士官が言いました。「5分やる。準備しろ!」オットーが、思い出の軍用トランクを持ちだそうとすると「どこで手にいれた。」「これは、わたしのです。」トランクには、「陸軍少尉オットー・フランク」と名前が書かれていました。下士官は「なぜそう届けなかった。そうすれば、テレージエンシュタットに行けたのに。そうすれば、それなりの待遇(特権的ユダヤ人としての扱いのこと)を受けられたのに、少尉殿」と言ったのです。
 玄関の前には、トラックが1台とまっており、8人全員連行されました。

 階下にいたミープには、古い木造階段に響く、8人の足音が聴こえました。「その足音から、みんなが打ちのめされた犬のように降りてくるのがわかった。」親しげに言葉を交わすことは許されず、その足音が、さよならの挨拶となりました。
 階下へ降りた下士官はクレイマンとクーフレルに「言うことはあるか」と問いただしましたが、2人は「ありません。」と答えたため逮捕されました。
 ミープは、身分証を提示して「ヒース商会」の経営者と分かったため「もう一度来る。逃げるなよ。」と言われ見逃されました。

 8月5日午後、フランク一家は逮捕され、アンネたちは、アムステルダム刑務所に3日3晩留置されました。8月8日火曜日の早朝、アンネとマルゴーと両親、そして隠れ家の仲間たちは、大勢の他の人たちと一緒に、オランダ中央駅に護送され、国有鉄道に乗せられ、ヴェステルボルク通過収容所に移送されました。
 約1か月後の1944年9月3日、フランク一家ら8名は、ドイツ占領下のポーランドにある絶滅収容所のアウシュヴィッツ行きの列車に乗せられました。

▲アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所


 アウシュヴィッツに着くと、8人は、すぐに男女に分けられました。この時がアンネ姉妹と父オットーとの永遠の別れになることは、思い至らないことでした。
 約1か月後、「ファン・ダーンおじさん」ことヘルマン・ファン・ペルスはガス室に送られ、死亡。「ファン・ダーンおばさん」こと妻アウグステ・ファン・ペルスはアウシュヴィッツから別の収容所、ベルゲン=ベルゼン、ブーヘンヴァルト、テレージエンシュタット・・・・・・を転々とさせられます。のちのオランダ赤十字の調査で、彼女は1945年の4月か5月に亡くなっただろうというところまでしか判明していません。長男ペーターは、アウシュヴィッツに1945年の1月までいたあと、オーストリアのマウトハウゼン強制収容所で、5月5日に死亡との記録があります。この収容所がアメリカ軍によって解放される、わずか3日前のことでした。「デュッセル」こと歯科医のフリッツ・プフェファーも複数の収容所に移送されましたが、ノイエンガンメ強制収容所で命を落とします。

 まだ若かったアンネと姉のマルゴーは労働力として選別され、1944年10月下旬にドイツ北部のベルゲン=ベルゼン強制収容所に移送されました。
 なぜ収容者が頻繁に移動させられたかといえば、連合軍、特に東から進撃したソ連軍の侵攻にともなって、ナチスがホロコーストの証拠隠滅を計りながら東から西へ撤退を急いだからです。
 アンネの母エーディトと父オットーは、移送に耐えられないと判断され、アウシュヴィッツに残されますが、母エーディトは、1945年1月6日にこの地で衰弱死。父だけが、ソ連軍の解放によって生き残ったのです。

 ちなみに、支援者のクレイマンとクーフレルは、ゲシュタポに逮捕されて拘置所に入れられた後、オランダ中部のアーメルスフォールト労働収容所に送られましたが、クレイマンはかねてより胃潰瘍を患っていたため労働には適さないと判断されて釈放、クーフレルは労働収容所で強制労働に服するも、翌年3月に労働キャンプでの作業中に逃走をはかり、無事に帰郷しました。天が味方したとしか思えません。

 戦争と差別のない世界になってほしいというアンネの想いを全世界に伝えるため、オットーは『日記』の出版を決意し、『アンネの日記』は出版され、彼の尽力によって60以上の言語に翻訳され、世界的なベストセラーとなりました。アンネは『日記』に「わたしの望みは、死んでからもなお生き続けること!」と書き残していますが、この『日記』が死後、世界中で読み継がれることを予言するかのような言葉です。

 第二次世界大戦中にドイツ軍が占領していたオランダのアーネムに住んでいたこともあったオードリー・ヘプバーンは、戦後に同い年のアンネのことを知りひどく心を痛めたといわれています。

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