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些細な損失をいかに受けとめるか

▲将棋盤

   ある国に将棋が大好きな王がいました。王は家臣たちがいつも負けてくれるのも知らないで、自分ほど先を見通して手の打てる王は他にはいないと思っていました。傲慢な王は、政治も独断的で外敵への備えも十分ではありませんでした。しかも、種モミを蓄えることを認めず、自分の種モミを人々に高い利子で貸し付け、私腹を肥やしていました。
  重臣たちは、このままでは国の存続も危ういと考え、ある日、頭のいい一人の家臣を王のもとに遣わしました。その家臣は、王に、とても美しい将棋盤を献上したいと申し出ました。王はたいそう喜んで、「お礼に何かやろう、何でもいいから欲しいものを申せ」といいました。「恐れながら」と家臣は将棋盤の1升目に種モミを1粒、2升目にその倍の2粒、3升目にそのまた倍の4粒という具合に種モミをいただきたいと希望しました。王は「何だ、そんなことか。」と直ちにこれを聞き入れ、倉庫から種モミを運ばせました。

   ところがこの方法で計算すると10番目までの総和は512粒、15番目まででは、16384粒となり、ついに40番目までの総和は凡そ1兆1000億粒、50番目までの総和は約1125兆9000億粒もの種モミが倉庫から持ち出されることとなり、最後の81番目に達するはるか以前に王の蓄えは底をついてしまったのです。(ちなみにこの計算は数学でいうと初項が1で公比が2、項数がnの等比数列の総和になります。)王が1粒、2粒の種モミなどたいしたことはないと気楽に考えたのが失敗のもとだったのです。

   わたしたちは日々の生活の、その1升目で、1粒のものをなくしてしまったとしても、はたして50番目も先の損失を予測しながら生活することができるでしょうか。1粒、2粒の損失などたいしたことはないという考えで日々を過ごしてしまっては大いなるつまずきを用意してしまうことになるのではないでしょうか。大いなるつまずきは一見して取るに足らないつまずきを一つ一つ乗り越えてゆくことで防ぐことができるものであり、この教訓をより積極的に考えるなら、1粒、2粒と蓄えていくことが、何千億粒もの蓄えにつながる基であるともとらえることができるでしょう。
   けれどもわたしたちの日々の生活は、決してこの逸話のように常に蓄え可能な前進的日々ではないと考える人もいるでしょう。しかし、私たちが謙虚さをもって失敗に学ぶ姿勢をもち続けるならば、不幸や失敗も将来の大きな幸福・成功に転じていけることもまた事実なのです。  
   古今東西、偉人といわれた人の多くは、必ずといっていいほど、この失敗に学び、逆境をはねのけていった人たちであるといっても過言ではありません。

   王は自分の倉が空っぽになったのを見て大いに嘆き悲しみました。そんな哀れな王むかって、その頭のいい家臣は倉庫に落ちていた1握りの種モミを拾いながら、次のように言って立ち去りました。「自ら畑を耕し、この種モミを蒔き、育ててください。そうすれば数年で、また倉をいっぱいにすることができるでしょう。その時あなたは、人民の心がわかる立派な王になられていることでしょう」と。
  その家臣は、王からお礼にもらった種モミを必要なだけ人民に分け与えました。それを見た王は人民が種モミを蓄えることを認め、飢饉や外敵に備えるため、村で穀物を蓄えることを奨励したのです。

 田畑は一粒の種を何倍、何十倍にも実らせる不思議な倉です。私たち人間の心の田畑を、明日ではなく今日耕し、人間的に大いに成長しようではありませんか。
 一年を振り返ればいろいろなことがあったはずです。瞬間・瞬間を懸命に生きた人と、「そんなことして何の役に立つの?」とすねていた人との差は歴然としています。この一年、誰が見ていようといまいと、多くを蓄えた人と多くを失った人がいたはずです。自らを省みて問い直してみようではありませんか。哲学者のデカルトも「一日一日を大切にしなさい。毎日のわずかな差が、人生にとって大きな差となって現れるのですから。」と述べています。

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